(劇評)説明しない、気配の演劇

さざなみ企画「オズの魔法使い」の劇評です。

2018年6月3日(日)14:00 金沢21世紀美術館 シアター21

さざなみ企画「オズの魔法使い」(作・演出:南光太朗)は、糸車を操る少女・ドロシー(西田真実子)が病院で注射を打ってもらった後、尼僧院から脱出し、さまざまな人々と出会う物語、と言えば良いのだろうか?ドロシー役の西田と歌を担当した「ながとろ」は作者である南特有の繊細な感じやすさをストレートに表現していて、歌謡ショーのようではあったが、魅力的だった。一方ではむしろドロシーを取り巻く人たちの方に演劇的な要素を忍び込ませてあったが、十分に開花していたとは言えなかった。

 周囲の登場人物たちは、白いドレスの女(西出早織)を待ちながら椅子を神経質そうに掃除する男(平田そら)、ドロシーと一緒にシスター(横川正枝)の紙芝居を見る青い服の女(吉村楓)、円形の網(バスケのゴール?)をずっといじっていたボサボサ髪のおじさん(奈良井伸子)、後方でひっそりと棲息する極彩色の孔雀(島崎愛子)といずれも個性的だが、人物間の絡みがほとんどなく、それぞれがドロシーとどういう関係にあるのかがまったくと言っていいほど説明されなかった。むしろ作者は意図的に、意味を発生させてしまうような日常会話を封印し、パントマイムや詩的な言語だけでそれぞれの気配を伝えていた。

役者の中で奈良井だけは生活感のある演技で異彩を放っていたが、彼女が舞台上で何をやっているのかは「????」だった。通常、こんな焦(じ)らしのテクニックはより効果的に伝えるための前段階として使われる。しかし、この作品においては、状況を理解する手がかりとなりそうな情報が最後まで本当に何も出て来ず、観客は目の前の光景から何をイメージしても自由という想像力の無重力状態に放り込まれてしまう。

しかし、この作品を見ていると、わからないということはそれほど問題ではないのではないかと考えさせられる。例えば、そこに男がいる。椅子をきれいに拭いている。しかし、何のためかはわからない。そのうち彼のことを忘れそうになる。いや、実際にほとんど忘れていた。しばらくしてまた、そこへ目をやると、やはり椅子を拭いている。なぜなのかはわからない…。そんなことを繰り返しているのがさざなみ企画の演劇だとすれば、それによって何を目指しているのだろう。観劇後、おそらくだいぶ時間が経ってから、その男の姿、気配をふと思い出す瞬間が訪れるのであろうか?

普通の芝居を見慣れた観客であれば、ドロシーは尼僧院に何歳の時から何年間いたか、そこでどういう生活を送ったか、シスターのことをどう思っているのか、ドロシーと他の登場人物たちとの関係、孔雀は何のためにそこにいるのか?等々、湧き上がってくるこれらの疑問について、自然に脳内で自分なりのイメージを組み立てようとする。しかし、提供される情報はほとんどない。最小限のヒントから無理にイメージを構築したとしても、自分のイメージが正しいのかどうかを検証するすべもない。これをやっていると、観劇という行為自体が難行苦行になりかねない。言葉ですべてを説明してくれる従来のお芝居の有り難みが身に染みてくる。むしろ何も考えずにありのままを見た方が良いのだろうか。

なぜこのような手法が採用されているのか?あくまでも推測だが、作者は言いたいことを言えなくて、口ごもっているようにも感じられる。自分にとって世界はこのようなものだと断定することを慎重に遠慮しているようにも見える。例えば、今のテレビ番組ではコメンテーターなどの出演者が本当に言いたいことを言わずに自己規制ばかりしているわけだが、若い表現者がそうした社会の雰囲気から影響を受けるのは当然だとも考えられる。作者として何があってもこれだけは言いたいということをこれから発見していってほしいと願っている。

特筆すべきは照明(宮向隆)の協力を得て、岩井美佳が創り上げた舞台美術だった。薄く柔らかな紗幕が舞台全面を覆うようにふっくらと垂れていて、内側からの光で色鮮やかに輝いたり、人間たちを誘うようにポッカリと口を開けたり、さらに下がってきて入口を塞いだりと変化し、まるで生きた森のように呼吸していた。

こんなに魅惑的な魔法の国へドロシーたちが迷い込む時は今か今かとワクワクしながら待っていた。しかし、残念ながら、誰も森の奥へと足を踏み入れる者はなく、登場人物たちにとって背景の紗幕は超豪華な書き割りに止まっていた。


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