(劇評)隣のお兄ちゃんがなぜテロに行ったのか?

さいたまネクスト・シアター「ジハード」の劇評です。

2018年6月30日 14:00 彩の国さいたま芸術劇場 大稽古場

「ジハード」と聞くと、たちまち「テロ」を思い浮かべて恐れをなしてしまうが、アラビア語でそれはただ世の中を良くする努力といった意味の言葉なのだとか。数年前に「イスラム国」と自称するテロ集団(別名:ISIS、ダーイシュなど)がシリアで支配地域を拡大していた時、欧州などに住んでいた若い移民二世のイスラム教徒たちが続々とダーイシュに参加する流れがあった。さいたまネクスト・シアター「ジハード」(作:イスマエル・サイディ、翻訳:田ノ口誠悟、演出:瀬戸山美咲)は、まさにそのような若者たちの内面を当事者の目線から描き出し、彼らの過激な行動の根源にあるアイデンティティの危機を浮かび上がらせていた。

イスマエル(堀源起)と友人のベン(堅山隼太)、レダ(小久保寿人)は、ベルギーに移住した親たちから生まれたイスラム教徒二世。ブリュッセルの公園で落ち合った三人は、イスタンブール経由でシリアへ入国する。目的は「イスラム国」に参加し、テロリストとして戦うことだった。道中の会話から、三人の過去や信仰を深めた体験が明らかになっていく。

三人の中で最も宗教に熱心そうなベンは、実はロック好きでエルヴィス・プレスリーの大ファンだった。しかし、米国へ旅行して他のファンたちと交流した際、彼の本名が「エルヴィス・アーロン・プレスリー」というユダヤ名であることを知り、イスラム教徒として激しく動揺した。イスマエルは子ども時代から絵を描くことが好きで、将来は日本へ行って漫画家になることを夢見ていたが、イスラム教では絵が禁じられていると先生から叱られ、希望を失った。レダは幼い頃からキリスト教徒の女の子と相思相愛だったが、母親から結婚を反対されて自暴自棄に陥った。三人ともどこにでもいそうな若者だが、厳格な教えによって自由を阻止され、好きな道を歩めなかった。そして、彼らを絶望から救ってくれたのもまたイスラム教だった。そういった内面的な葛藤を周囲のベルギー人たちが理解できるはずもなかった。

舞台上は、ほとんど何もない空間。想像力を喚起する言葉により、いくつかの木の椅子を組み替えるだけで、そこはベルギーの公園から空港の税関、シリアの戦場へと次々に移動していく。荒れ果てた教会では、シリア人のキリスト教徒(鈴木彰紀)が妻の亡骸を抱いて悲しみに暮れている。彼の名前がミシェルと聞いて、そんな西洋人みたいな名前はあり得ないと三人は驚く。自分たちと同じ顔をしたミシェルに同情を寄せつつも、一方でキリスト教徒は敵だから殺すしかないと三人の意見は分かれる。ミシェルは屋外から飛んで来た銃弾によって殺される。もはや誰が敵なのか、何のために戦っているのかもわからなくなってくる。

耳慣れない音がしたので振り返ると、ドローンの爆撃機だった。逃げ遅れたベンが動かなくなった。残された二人はベルギーへ帰るべきかどうかを議論する。興奮したレダが物陰から頭を出したところを撃たれて死ぬ。ただ一人、帰国したイスマエルは、職業安定所で社会復帰のプログラムを受けることになったが、シリアで戦っていたとわかった途端に拒否される。イスマエルは、身体に巻き付けたダイナマイトを見せつけながら、起爆装置に指を当てる。彼の耳にはベンとレダの囁く声が聞こえる。かろうじて彼はスイッチから手を離す。最後に正面の縦長の扉が開き、舞台上に光が差し込んできた。

深刻で行き場のない気持ちにさせられるが、ロックやアニメが好きで恋愛に悩むシャイな若者たちによる軽妙な言葉のやり取りはあくまでもポップで現代的。そして、冷静沈着なベン、自由奔放で愛情豊かなレダ、鬱屈を抱えたイスマエルとそれぞれに個性豊かな三人。どこにでもいそうな隣のお兄ちゃんたちが、なぜテロに行かなければならなかったのかと考えさせられる。

ベルギーでは、労働力として受け入れたイスラム系移民の多くがそのまま住み着いた。しかし、二世たちは現地の社会から十分に受け入れられず、自分たちはベルギー人ではないのではないかとアイデンティティの喪失に悩まされている。現在の日本も、少子高齢化の急激な進展により、なし崩し的に「世界第4位の移民受け入れ大国」となってしまった。この作品に描かれたような問題からもはや逃げることはできない。


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