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映画『ロボット・ドリームズ』をみた

なんてことのない日常が、アニメーションになることでデフォルメされ、その日常のありがたみのようなものとして視覚化されることがある。

どこにでもある風景が絵に変わり、それが動くことでなかなか実写では中々感じられることのない情動が浮かび上がることがある。

『ロボット・ドリームズ』はそんなありふれた日常を犬やロボットというメタファーを通して感じさせてくるとても愛おしい作品だった。

主人公のドッグは孤独に都会の集合住宅の一室で「なんかいいことないかなあ」とでも言いたげに、テレビをザッピングしている。冷蔵庫にあるレンチンで完成するピザをソファーに座って食らっている。

それをしているのは犬のビジュアルをしたキャラクターだが、独り身の男性、女性、年齢問わず、そういった心境をもった人間ならばドッグの気持ちに寄り添うことができるし、感情の代入が出来る。

ドッグというキャラクターはXという変数で、そこにどんな数字を入れてもいいように出来ている。
観る側の年齢層が子供でも、お年寄りでも中年でも、そこに当てはめらえる幅の広いキャラクターになっていると感じる。実に見事だ。ちょっと間の抜けた感じの絵の質感がまた一層それを増している。入り口のキャパがものすごく広い。

ドッグがテレビの通販番組で見つけたロボットを購入して、そのロボットとの交流を始めていくのがこの映画の根幹だ。このロボットも実に人間臭い行動をとるし、メタファーだからそれを人間として見ることも出来るし、ペットとしても見ることも出来るし、命がない実際のロボットとして見ることも出来る。『誰かと誰か』になっていて、その誰かには何にでも当てはめることが出来る。

つまり初期設定から自分事として捉えられるキャパがめちゃくちゃ広い。
これはとてもいいな、と思った。観た人が自分の人生のどこかにこの映画に抱いた感情を持って生きている。それがとても当てはめやすい。

私も自分の人生経験の中で、いくつかある出来事を引っ張り出して、それを重ねているような感じになっていった。いつのまにか落涙していた。私にもこんな瞬間があったし、私と一緒にいた誰かもまたこんな感情を抱いたこともあったのではないかと。

中盤でドッグとロボットが会えなくなるシーンがある。ロボットが動けなくなり、海岸で置き去りになってしまう。なんとか救出をしようとあの手この手で試みるもことごとく失敗して月日は経つ。

動かないロボットに砂が覆い被さったり、雪が積もったり。
それは日常のモノにも当てはまる。家の隅に眠っている使わなくなった家電にも感情があるのではないか。
スクラップにされて廃材置き場に置かれて寂しがっているのではないか。
そんな想像性を働かせるシーンだ。

そうした擬人化をすることで、鑑賞者の「優しさ」を引き出してくる。
どこかで忘れかけていた感情だ。否、それは元来持っていたもので、日々の忙しなさで使い道がわからなくなってしまった感情なのかもしれない。

動けなくなったロボットが夢とも妄想とも判然のつかないシーンが数箇所ある。
「こうなったらいいな」は夢だったのか、ハッと現実に戻る。ここは映像表現の巧みさと儚さが同居している。私は儚いから映像表現が好きなんだなとも思えた。

別れがあれば、また違う誰かとの出会いがある。
そんな別れと出会いの繰り返しが人生ならば、そうした一期一会で出会った人の幸福を願えるような感情もまた持っていたいものだ。
本作のラストはその感情をもまた引き出してくれる。寂しさと、本当のこと言えなかったこと、言いたかったこと、胸にしまっておきたいこと、いろんなことを重ねて生きていくものだと感じる。

劇中の挿入歌、アース・ウィンド&ファイアの『September』が見事だ。二人が生活している中で共感覚したゴキゲンなナンバーだ。
日常に寄り添った音楽は血肉になっている。ロボットが夢を見ているとき、口ずさんでいるのは『September』だったし、終盤の再会を匂わせるきっかけとなるのも『September』だ。

音楽もまた時間経過と共に生きる芸術なのだろう。ゴキゲンがまた切なさに変わる。そんな情感の変化もたまらないものがあった。

ロングランヒットも頷ける。
満員の映画館で、感情が動くものに動員されているのはいいことだと感じた。

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