『ショーン・オブ・ザ・デッド 4K』と笑いと熱さと敬意
私が大学に入学したのが2006年。映画の授業があり、その授業に感銘を受けて自分の専攻を映像にしていこうと決めた。本来なら入学前に自分の路線や専攻の流れってある程度決まっているものなのだけど、その授業に衝撃を受けたことであっさりと方針を変えた。「視点」が違えば世の中の見方も変わる。「視点」というテーマで様々な映画を紹介してもらえることで、文字通り新たな視点を獲得していった感覚になれた私は映画の深みにハマっていった。まだ20歳の頃で、これでも映画が好きだと自覚的になるには遅いくらいかなと感じる。それでも当時の自分の吸収力というか、とにかく沢山作品を観てみたいと思う気力と活力が止まらなくて、鑑賞数は年間300本は超えて見ていたんじゃないだろうか。
当時はネットやSNSもまだ黎明期というか、情報の獲得の仕方もまだ雑誌などからの影響力が多分にある中で、私がよく拝読していたのは『映画秘宝』だった。エリート臭がしない、ボンクラ向けの映画雑誌。プロレスファンの気質があった私にはその雑誌の空気感が水にあった。
2007年頃、『Hot Fuzz』という作品を日本で劇場公開してほしいという運動が起こっていた。監督したのはエドガー・ライトというイギリス人で、いわゆるオタクなのだという。この人の映画を公開しないでどうするんだという空気を映画秘宝やネットの人たちが作っていた。
そして署名などが集まり『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』という邦題になって公開されたのだ。私も渋谷の映画館まで見に行った。面白かった!ゲラゲラ笑いながらも、心が熱くなった。
映画オタクが作った警察バディものだ。元ネタとなった映画はそれこそ映画秘宝などで特集されていて、私もそれに合わせてDVDで視聴していた。予習がバッチリで、それにオマージュを捧げたシーンは爆笑したが、それがフリとなって妙に感動するシーンが生まれていた。『ハートブルー』というFBI捜査官と銀行強盗という、正反対の立場の人間の友情を描いた作品があり、キアヌが強盗である友人を追い詰めるも彼を撃つことが出来ずに、銃口を天に向けて放つという名シーンだ。捜査官としては撃たなくてはいけないという使命と、追い詰めている彼は友人であるという葛藤を見事に表現していた。同様のシーンを『Hot Fuzz』は作った。笑えるのだけど、妙に熱くなる。なんだろう、この感覚は!と思った。二重の感情が私を支配していた。コメディだけど熱い。それは私にとって人生観を変える出来事にもなっていった。私の作った大学の卒業制作は気がつくと「笑えるけど、熱い」のテイストが散りばめられていたように思う。今、思えば『Hot Fuzz』のバランスが自分にとって理想だと思えたのかもしれない。
そんな『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!』よりも前に作られた『ショーン・オブ・ザ・デッド』が4K上映されるということでイオンシネマに行ってきた。
『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』同様に映画オタクならではのオマージュがふんだんに散りばめられた作品だ。本作はゾンビ映画のコメディになっていて、特にゾンビ映画の元祖であるジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ作品群に愛と尊敬を持って作られている。
スクリーンで見直してその面白さと、手慣れと、テンポの良さ、サウンドトラックの良さに映画処女作からエドガー・ライトはこんなに面白いものを作っていたのかと感嘆した。
映画冒頭で眠そうに起きるサイモン・ペッグ演じるショーン。気怠くあくびを大きくしたり、眠たそうにヨチヨチと歩いている様がゾンビのように見える。
この時点でゾンビが後に街にやってくるというフリや予感が丁寧に仕掛けられている。
ショーンはいわゆるボンクラのような生活をしていて、家から出て近くのコンビニに行くまでワンカットのショットがある。
そこで遭遇する人は"いつもの"市井の人たち。これをワンカットで見せることがまた後にフリとなってくる。
同居人のニック・フロストといつもくだらない会話をしたり、パブでビールを飲んだりすることが日課だが、そうした変わり映えのない景色が続く状況にショーンのガールフレンドが愛想を尽かしてしまう。これもまあボンクラあるあるだとも思う。こうやって「いつものムーブ」が退屈に思われてしまったりするんだよなあ。
そうした変わり映えのないオタクの日常にゾンビがやってくる。
ある日、いつものコンビニまで行くワンカットのルートがゾンビだらけになっている。ショーンはそれに気づいていないのだが、同じワンカットを見せることでサイゼリヤの間違い探しのようなショットを生むことに成功している。みんなゾンビになってしまっている。とても分かりやすいのだが、面白い。この親切設計になんだか感心してしまう。
この映画のミソはロメロ版のゾンビに敬意があることだ。
亜流のゾンビや、近年のゾンビものはゾンビが走るようになっていて、ゾンビのお約束ごとの不文律を破っている。
走るゾンビの存在はゾンビ本来のノロさや味は損なわれていったが、違う恐怖を与えてはいる。だが、走るゾンビに哀愁はない。とても獰猛なモンスターに変わり果てたと印象があるし、超越的な速さを手に入れてしまっているため、言ってしまえばアスリートにもなっている。運動能力という面で進化はしている。言ってしまえばドーピングだ。走るゾンビはドーピングを使用したベン・ジョンソンのごとく速い。
何故、ロメロ版のゾンビに哀愁があるのか。ノロマで頭部を損傷されると倒される。しかし人を噛むとその人もゾンビになってしまうというルールがある。走って逃げれようと思えば逃げれる、頭部にダメージを与えれば簡単に凌げる。しかし複数のゾンビに囲まれると絶体絶命。だけどもどこか人間臭い。モンスターではあるのだが、動きがトロいということにゾンビの輪郭の絶妙さがあるように思う。トロいということは人間の本来ある機能よりも下だからだろう。寝起きのショーンがゾンビっぽく動いているのも、またその無防備さと可愛げと隙だらけな感じが同居している。ゾンビには人間を捨てきれていないモンスターの哀愁がある。
こうしたゾンビあるあるに漂う哀愁がテンポのいいコメディの隙間に巧く入り込んでいる。
噛まれてゾンビになっていく仲間たち。しかし人格がゾンビに変わるまでに、皆がその人らしさを最後に見せていく。そこにグッとくるのだ。
そうしたロメロが創ったゾンビに敬意が感じられるからこそ鑑賞の後味が心地いい。
これが表面的なものではなく、徹底された愛と敬意が感じられる構成になっているからノレるのだろう。敬意が全体に染みているからこそ、亜流の「ザ・デッド」シリーズとしてゾンビ映画の仲間入りが出来ていると感じる。
自分の好きなプレイリストを配した感のあるサウンドトラックも実に効果的で、映像とマッチしていることが気持ちいい。
90分弱。終わり方もしつこくなく、「もっともっと」が出来るところをちょうどいい落とし所でフィニッシュしているところに美学を感じた。
こうしてスクリーンで再見した時に感じたのはロメロに対する敬意が満ちていることで、エドガー・ライトのデビュー作は紛れもない映画という体系を持ったことだと思う。
映画は敬意なしでは作れない。演者、スタッフ、観客。そしてこれまでの作り手の敬意。オタク的にまぶされた視点からは確かなる愛が紡がれていた。
『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!』同様に笑いと熱さが同居している。笑いと熱さを自然に同居させることは意外と難しい。それは根底に敬意を持たなくては着地できない領域であるからではないか。
つまるところ信頼関係でもある。私はそんな笑いと熱さに憧れていた。そんなことを自分が映画に関心を持った初期の頃からの記憶を掘り起こして、書き起こした。実にいい映画体験だった。