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最後の人生のとある一日

考えてみれば人と話をすることが非日常化している毎日だ。
数年前までは人と話をするのが仕事であり日常だった。
この日の午後から人が来ることを分かっているので、部屋に掃除機をかけていた。
来るのは月に二〜三回寄ってくれる友人ではない。


来訪者のあるたまの日曜日

我が家に人が来るのは珍しい。
たまに同級生が近くに来たと言って寄ってくれるが、アポなしで突然ドアをノックするので驚かされる。
そんな風に訪問してくるのは、私が納屋にいることを分かっている者たちだ。
車を玄関前に止めてもインターホンを押す人たちではない。

息子と同年代の来訪者

この日に来るのは前回来た時に次回の訪問日時を約束をしている人だ。
四十くらいの青年で私の長男と同年代だ。
本当は一週間前に約束をしていたが、大雪で来られなかったからラインでこの日を申し合わせていた。

「今日は大雪で行けそうにもありませんので、後日ご都合のいい日を教えて頂きたいのですが」といった内容のメールを頂いたが、私の都合は滅多なことがない限り空いている。
私は「貴殿のご都合に合わせますので良い日をお知らせください」と返信した。

その日がこの日だ。
40センチは積もった家の前の雪も大方溶けて、一週間前と比べれば随分と暖かい日だ。

その人が来るのは午後一時だ。
日課にしていることを午前中に済ませ、早めに部屋の掃除をして待とうと思った。
人と会うのが日常だったころなら気負うこともなく、何を意識するということもなかったはずだ。

しかし今は色んなことを気にかけていることが思い当たる。
もちろん人が来るからと言って服を着替えたり髪を解いたりすることはない。
気になるのは部屋のにおいや見え方だ。

恋人が来るわけでもないのだからそんなことを気にすることもないだろうと、自分に言い聞かせてみたりもした。

訪問者との繋がり

午後に来る青年は友人の息子だ。
その友人は数年前に突然亡くなった。

その友人のことを忘れていたとしても、彼の顔を見たのと同時に友人の顔も浮かんでくる。
そのくらい似ているのだ。
親子なのだから当然と言えば当然だ。

彼の母親もまたよく知っている仲だ。
まだ高校生だったころ同じ部活動に打ち込んでいた後輩だからだ。

私が社会人になってからも一緒に旅行に行ったりした仲だ。
もちろんその亡くなった友人も一緒だった。
そんな仲なので年に1〜2回は友人の家にお邪魔したりもしていた。

しかしその友人の息子と話をしたことはなかった。
小さい頃に顔を見たことはあっただろうが、このように面と向かって話す機会は無かったに等しい。

彼は友人の息子にしては人当たりがいいし話し上手だ。
顔は父親に似ているが、おそらくコミュニケーション能力は母親に似たのだろう。
だから彼と話していても疲れることはなく、どちらかと言うと心地いいとさえ感じることの方が多いくらいだ。

そんな彼が我が家に来るようになったのは偶然だった。

日曜日の昼下がり

彼が来るまでに部屋の掃除を終わらせようと思っていたが、それまでにノックと共に「こんにちは」という彼の声が聞こえた。
時計を見ると針はちょうど午後一時を指していた。
これも母親に似ているんだろうと思った。
昔彼の父親である友人と何度か待ち合わせをしたことがあるが、その時間に来たという記憶は一度もない。

大概は悪びれた様子もなく「すまん」の一言で、遅れた理由も言い訳をすることもなく済ませていた。
いつものことなのでこちらも敢えて聞くこともせず、何事もなかったかのように振る舞っていた。

息子の方はと言えば一時といえば一時きっかりに来るから、今日のようにこちらが戸惑うことになる。

彼が我が家に来る目的は、何も父親の親友に会うためではない。
趣味としている楽器の練習の情報交換が目的だ。
その目的だけなら一時間もあれば情報共有できるだろうが、彼は三時間は話して帰る。

そして私も彼と話をするのを楽しんでいる。
親子ほどの年齢差にも関わらず会話を楽しめるのは共通の趣味だからだと思っていた。

心地いい会話と戸惑い

しかし私にはこれでいいのだろうかという戸惑いもある。
彼は孤独な老人の話し相手になろうとしてくれているのではないかとふと思うのだ。
父親の友人ということもあり、そっけなくは帰れないと気遣ってくれているのだとすれば気の毒だ。

趣味の話だけならいいが、音楽から脱線することも頻繁にある。
早く死んでしまった父親の影を私を通して映し見てくれているのならとも思ったが、どう考えてもそれはないと言えるのだ。

彼の父親はどちらかというと無口で、話好きという性分ではなかったからだ。
しかしその息子の彼は会話上手だ。
それにも増して聞き上手でもある。

いつもなら途中でコーヒーを挽くが、この日はそれも忘れて会話に夢中になっていた。
気が付くとまた三時間も過ぎていたので、やや遠回しに彼に聞いてみた。

「せっかくの日曜日なのにまた今日もこんなところで時間を潰させてしまったな」と言うと、彼は「ぼくはここの環境が気に入っているものですから、いつも長居をして申し訳ありません」と言ってくれた。
私は慌てて「いやいや追い返そうとしている訳ではないんだ」と付け加えた。

言われてみればここで演奏している彼の表情は楽しそうだ。
彼が言う、気に入っている環境とは音楽環境のことなのだろう。
私も定年退職者だからこそやっと手に入れた環境と言ってもいいくらいだ。

現役サラリーマンの彼が、我が家の納屋に作ったホームスタジオを見て憧れるのは分からなくもない。
自分で言うのもおかしいが、気さくな老人の観客付きなのも悪くはないだろう。
言い換えれば私も同じように、音楽好きな青年の前で演奏できるのだから普段の練習とは環境が変わる。

その意味に於いてはお互いに練習の成果を発表しあう日でもあるのだ。

彼の父親である友人が亡くなってその通夜に行った時、早くに人生を終えた彼に「おまえより長く生きた人生を次に会うとき話してやるよ」と心の中で約束したことを思い出した。

その時「最後の人生でこんな楽しいことがあったんだ」と自慢したら、友人はおそらく地団太踏んで悔しがるはずだと一人笑いした一日だった。

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