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最後の人生の友人

今の私に友人と呼べる人は一人しかいない。
その人が唯一の人脈でもある。
人脈が少ないことを嘆いているのではなく、返って最後の人生には相応しいと考えている。


リセットされた人脈を繋ぎとめる必要はない

もちろん私にも同級生などの友人はいるが、その人たちとは年に一度会うか会わないか程度の間柄だ。
それらは人脈と言えるほどのものでもない。
営業職で人生を送った私は定年退職と同時に全ての人脈はリセットされた。

サラリーマン時代の人脈

定年退職までは会社に行けば同僚がいて、仕事では毎日何件もの電話を受けていた。
仕事関連で付き合っていた同業他社の人脈も多く、毎日のように電話で会話をする人もいたほどだ。
その頃は、さほど重要な用事もないのに電話を掛けてくる人の相手をするのは億劫だと感じていた。

しかしそれが営業職をしていた私の仕事でもあった。
少しでも多くの人と関わりを持つことで多くの情報が入手できたからだ。

私は同じ地域で何度か転職をした経験があるが、転職理由はリストラや倒産などだ。
つまり自ら転職を希望したのではなく、転職せざるを得なくなったということだ。

しかしその転職も悪いことばかりではなかった。
転職をするたびに人脈が増え続けたからだ。
その人脈も同僚だけではなく顧客という関係の人も増えていった。

会社は変わっても顧客は同じという転職にはよくある人脈の構図だ。
その人脈こそが私の営業職としてのリソースだった。
つまり人脈こそが私の人生に運をもたらすものであり飯のタネでもあったのだ。

その人脈を定年退職によってリセットしてしまったのだから、その後の人生の運は期待できるものではない。

平凡な人生のスパイス

人脈がもたらす運は人生にとっても欠かせないものだが、人脈がもたらすのは運だけではなく不運もある。
人生に於いては人間関係で苦しむことも少なくないということだ。

人脈が多ければ多いほど自分には許容することが難しいと思える人も近付いてくる。
年齢を重ねるにつれそのような人脈との関わり方も要領を得るようになったが、それももう過去の話だ。
人脈がリセットされてからは運もない代わりに不運もない。
そこにあるのは平凡な日常の繰り返しだ。

そんな平凡な日常に僅かなスパイスになるのが月に何度か来てくれる友人の存在だ。
この人も元は仕事の関係で築いた人脈の一人だ。
たまたま同じ市内に在住していたというだけの関係で、仕事上特別な人脈だったというわけでもない。

どちらかと言えば性格的にも少し癖が強く、私的には許容するのに時間がかかった人脈の部類だ。
しかし今はお互いに何の利害関係もなく気を使わずに人間関係を保っている。
たまに我が家に来ては2時間ほど世間話をして帰っていく。

この人の存在が、今の私の人生にとってなくてはならないとか幸運に繋がるということはない。
だが、この人のお蔭で社会からの疎外感が薄れているのは紛れもない事実だ。

定年退職当時は同時期に退職した同僚とも連絡を取っていたりしたが、徐々に疎遠になっていった。
それはおそらく最後の人生にとって、どうしても必要な人脈ではなかったからだろう。

最後の人生に多くの友人は必要ない

私と違ってその友人は今も仕事をしている。
従っていまだに仕事関係の人脈も多く、その付き合いも多忙なようだ。
付き合いで飲み会に参加することも多いが、あくまでそれは仕事だと言い張っていた。

その友人に言わせれば、今の私はただの友人であって仕事に必要な人脈ではないということのようだ。
そしてそんな友人は私しかいないのだそうだ。

その人に人脈は多くても友人と言えるのはお互いに一人だということだ。
今思うとサラリーマン時代の私にも、どれだけ人脈が多くても友人と言える人はいなかったのかもしれない。

もちろんその友人の人脈がどうなっていようが興味はない。
言い方を変えれば興味を持とうとも思わない。
たまに仕事の愚痴をこぼして帰るくらいだから、返って深く知らない方が素直に聴いてやれそうだ。

最後の人生に友人は一人いるだけで充分だ。
限られた時間のほとんどを一人で過ごし、その残りを妻と過ごしている。
そしてたまに友人と話すことで孤独から解放されている。

定年退職から5年以上経過してやっとそう思えるようになった気がしている。

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