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最後の人生を見える化してみないか?

サラリーマンにとって定年退職は人生最後の世間に認められた自由になる権利だ。
私も定年退職という分岐点で最後の人生に入ったが、その時点でどんな未来が待っているのか分かっていなかった。
想像はしていたものの未来予想図のようなものを書いたわけでもなく、たぶんこんなのもだろうという輪郭の曖昧な未来を想像していた。


惰性で過ごす人生も悪くはないが…

結果はどうあれ「人と同じように」とか「一般的に」といったことを一旦置いて定年退職の年齢を決めた。
多くの同僚は65歳まで雇用延長で勤める中、数年早く退職することに不安が伴った。
しかしそれも人生だと自身に言い聞かせた。
元上司の先輩からは「少なくなったとはいえその間に得る収入を捨てると言うことだな」と警告された。
早く退職してやりたいこととその金額を天秤に掛けた時どっちに傾くかといったことだ。
そう言われたとき「人生は金で買えるか…」と脳を納得させた。

定年退職後の最後の人生で叶える夢は

最後の人生でやりたかったことが何なのか定年を過ぎてから考えた。
人生をかけてやることではないことも拾いだした。
結果的に思っていたような時間を過ごせた訳ではない。
考えが甘かったということだ。

早く退職した時間を思ったように使えなかった要因を、世界的なパンデミックにするのも今となっては思うようにならなかった言い訳でしかない。
そんな時のことも考えて未来を予測しておけば、また違った時間を送ることができたのではと考えるだけだ。

当時考えていたことが当たっていたのは70歳に近づいた時の健康面や気力の低下だ。
それ故に60歳から65歳の期間をこれまでの人生とは違うものにしたかったと言うわけだ。
不可逆的な人生の流れを後悔することは愚の骨頂と言われても仕方ない。

その反省もあり、残されたこれからの人生を見える化できないかと思った次第だ。

想像力を働かせ未来の5年を予測する

惰性のままで人生を送ったとしたなら5年などあっという間に終わってしまうだろう。
それは過去の5年間で経験済みだ。

思うように行かなかったとはいえ、やりたいようにやってきた過去に後悔はない。
もちろん未来である自身の健康寿命など分かるはずもないが、未来を考える時に5年後もまだ健康だという過程は最低条件だ。

先ず第一の目標が5年間健康であるということでもある。

その条件の基、未来の5年間でやりたいことを考えてみることにした。
過去5年間の反省ではやりたくてもできなかった要因を甘く考えていたことだ。
その反省に基づき未来の5年間は、できなくなる要因も想像してみることにする。

その要因が予算なのか健康なのか、またはどうしようもないことなのかということだ。
予算が要因でできなくなるのはよく考えると予測できることだ。
健康が要因の場合は、どの程度ならできない原因に成りえるのかも予測できるから、留意して生活することで回避できるかもしれない。

もしどうにもできない理由が要因の場合は違う道も考えておくことができる。

そうすることで成り行き任せや惰性で過ごすよりも納得した人生が送れると思いたいのだ。
如何にも理屈っぽい悪癖を持った私が考えそうなことではあるが、これもアクティブに人生を楽しみたいが故の考えだ。

ハッキリさせた輪郭の未来予想図

「定年退職後は何となく想像できる」とか「老後の健康な間は旅行に行ったり畑で汗を流したりして過ごせたらいい」というのも悪い訳ではないが、何か勿体ない気がしてならない。

何十年も矛盾と戦いながら組織に縛られて過ごしたサラリーマンからやっと足を洗えたのだ。
とことん自由を楽しんでやろうとするのも許された権利だろうと考えたのだ。

もちろん自分の甲斐性や能力の範囲内でだ。
そんな人生を夢見た時にハッキリと見えたのは捨ててもいいものとその見返りだ。

例えば見栄や贅沢を捨てる代わりに、そのために働く時間や労働はいらなくなるといったことだ。
子育てなどの責任が終わっていれば世間的にも働かなくても許されるという自己肯定感を持つことだ。

定年退職後の数年間は、この自己肯定感を持てずに罪悪感に苛まれた。
仕事もせずに好き勝手しているという罪悪感は、サラリーマンで培ったアイデンティティに正面から向き合って見直さなければならなかった。

そんな感情も書き出して、客観的な視点から考える切っ掛けにしたいのが人生の見える化だ。
見える化は曖昧な未来予測ではなく少しでもハッキリした輪郭を描くためだ。

最後の人生を思うように自由に、そしてアクティブに送るためにだ。

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