無力な自分を戒めた日!
理想の人生を考えるのは難しいことではない。
定年退職している私の場合はとにかく健康で充実した毎日を過ごすことだ。
しかし一口に充実した日と言っても抽象的過ぎてピンとこない。
自分にとって充実とはどういうことなのか輪郭をハッキリとさせておきたい。
今日はその辺のところを戒めようと思う。
定年後の充実した人生とは何だ!
数十年にも及ぶ人生の時間は長いが、人生を語った名言には「人生とは今日一日の積み重ね」などとある。
その意味は長い人生のことを考えるよりも、その日一日が人生だと思って今日一日中身のある日にしようということだ。
その理屈は理解できるが、定年退職後に今日も中身のある充実した日を送っているという実感が湧かない。
これがサラリーマンの頃ならなくはない。
時間をかけて営業をしてきた仕事が契約を迎えた日などは正に充実した日だと言えるものだ。
しかし何の生産性もない定年退職後の生活では、充実した日々を実感することすらできないのだ。
そのような思考になるのはおそらく、サラリーマンの価値観が潜在意識の中に残っているからなのだろう。
人生を掘り起こしてみたら充実した日は…
反省もかねて人生の記憶を掘り起こしてみることにした。
掘り起こすといっても体力も気力も十分な若い頃ではなく、定年退職してからの記憶だ。
若い時のように飲めない酒を飲んで羽目を外したことは一度もない。
さすがにこの年齢になれば、羽目を外して大はしゃぎすることが充実した時間になるなどとは考えてもいない。
それでは「定年退職後に最も充実していた日はいつだったか」と問われてもハッキリと答えることはできないのだ。
例えば「ひとり車中泊旅をしていた岐阜市で4時に起床し、一度行ってみたいと思っていた郡上八幡を訪れた日が一番充実していた」と言いたいが少し的が外れている。
確かに一人でも楽しく過ごせた日に間違いはないが、一番充実していたかといえばそうではない。
それならその郡上八幡で旅動画を撮影し、それを持ち帰って編集に費やした時間かと聞かれても答えはノーだ。
どれだけ考えても定年退職後に一番充実した日など思いつくはずもない。
どの日もさほど変わらない日常であって特別中身の詰まった日ではなかったということだ。
ただ、コンパクトカーでひとり車中泊旅がどうしたら楽しくできるのかと考えていた一連の日々は今思い出すと充実していたのかなとも思えるものだ。
つまり充実した日とはあの名言の今日一日ではなく積み重ねの方なのかもしれないということだ。
人生は積み上げてつくるもの
そういえば定年退職してから継続していて成果が見えるものが少しはある。
例えば数年間毎日やっている楽器の練習だ。
毎日と言ってもプロのように一日通して日課にしているわけではない。
多い日でも2時間程度だ。
楽器の練習をしたからといって、その日は充実していたとは到底言えるものではない。
しかし継続した結果を見れば、楽しめるだけのスキルは想像以上に身に着いている。
定年退職後に始めたことでも継続できていることばかりではない。
このNoteでも書いているようにやめてしまったものも多くある。
途中でやめてしまったものに費やした時間は無駄だったのだろうかと考えることもよくあるが、そんなことを言ったならほとんどの人生を失ってしまうことになる。
続かなかったことにも多くの気付きがあったとするなら、それも充実していたはずと考えるべきだ。
そして何かを継続するために時間を使えば、それはもう充実していると言っていいのかもしれない。
今日、いつも続けているNoteを書けばそれはもう立派に充実した日になっていると思うことだ。
少しずつ積み上げていることには違いないからだ。
定年退職後の人生をつくる
定年退職でリセットされた人生を一から作っていると考える方が前が見えそうな気がする。
いつも書いているがサラリーマン人生がリセットされたと思うのは、サラリーマンとして常識だったサラリーやそれに対する責任、やることや居場所、人脈や運などだ。
定年退職後は、それらのリセットされて失くしたものをまた一から作り上げているだけなのだろう。
いや、そんな大層な感覚ではなくその十分の一程度のものだ。
もちろん人脈や運、責任などはなくてもいい。
作った方がいいと思えるのはやることと居場所くらいだ。
そのやることと居場所を作るために継続するものが必要なのだろう。
それも後で充実した日々だったと振り返ることができるためだ。
だから一日一日は充実していたと実感できなくてもいいということにしようと思う。
このように戒めたのはとりあえず今の無力な自分を正当化したいからだ。