夢蔵子
「村長の引継ぎ」を集約しました。
夢と幻から創作に歩みだした作品を集めました。
記憶の堆積の中から湧き出た作品を集めてみました。
夢から生まれた初期の作品を収めました。
夢と現実の中間を描いた掌編を集めてみました。
《謝恩会》 四月三十日の朝が来た。若干風は強いがいい日和となった。 正装して妙な恰好になった議員らが、ばらばらに集まってきた。それに続いて彼らの家族れがましい面持ちで歩いており、その中には、感謝の手紙を秘密裏に持った娘さんらも含まれていた。 細田さんの妹さんも町から夫婦でやってきており、鮒島さんのお母さんも彼の息子らに支えられてやってきた。角島さんは家族全員だとさすがに大人数になるので半分ほどの人数での参加となった。 総勢二十五名ほどで合宿所は満席となり、壇上に貼
《謝恩会の準備》 村長になってからの四つの公約を軌道に乗せ、村役場の仕事はいつもの繰り返しになっていった。事務室で副村長はときどき、びびゅーといういびきをかくし、河野さんもボールペンを握ったまま眠りかけて、はっとして、副村長のいびきに、うるさい!と言ったりしていた。 私は村長室で、村会議員の働きに何か報わなければならないなあと思っていた。それぞれ運動会やら分校やら合宿やらで、農作業をしながらよく協力してくれた。村会議員は兼業でなければやっていけなかったし、ほぼボランテ
《もう二組の結婚》 体験合宿が終わり、分校も夏休みの後半で、秋の収穫前でもあり、役場の仕事もゆったりしてきた。 結婚してから不要になった役場の宿泊部屋を整理していると、村上さんと河野さんが突然入ってきて、話があるとのことで、畳に揃って正座した。私も正座して対面すると、二人は結婚を前提に付き合っているという話をした。 酒好きの村上さんは、河野家に地酒を買いに行くことが増え、面倒なので、河野さんが一升瓶を役場に隠して、必要なときに合宿所の台所に持っていくということ
《体験合宿》 結婚後は、夏の自然学校の準備と、合宿授業の支援で忙しかった。 いつのまにか暑い日々が始まり、村のあちこちでヒマワリが咲き乱れ、セミの鳴き声で村中が静まっていた。 一度、合宿の準備で議論になったことがあり、それは生徒たちの食器をどうするかということだった。朝昼晩の配膳片付けの簡便さや効率を重視すれば、ワンプレート型がよかったが、そうした面倒も教育の一環であり、茶碗お椀におかずの皿数種は日本の魂であるという村上さんの主張も頷けるものもあった。 村上さん
《結婚式とその後》 結婚式は、山那家の希望もあり、両家だけで執り行われた。村長という立場もあったが、父親の三回忌前でもあり母もできるだけ地味にしたいとのことだった。 夏の自然学校が始まる前の吉日に礼服で山那家の玄関前に立った。 玄関では、彼女の両親と着物姿の里美さんが立っており、丁重な挨拶の後に、母と弟と玄関から廊下伝いで奥の座敷に進んだ。台所では河野さんが手伝いに来ており、あれこれと甲斐甲斐しく立ち振る舞っていた。 仲人に山形さんをという話もあったが、山那家と山
《結婚相手》 ある日の夕刻、村長室の机を整理して仕事を終える準備をしていたら、河野さんが開けっ放しにしているドアをノックして、いいですか、と入ってきた。どちらかというと、ほぼ私の方から声をかけ、面倒くさそうな顔をされるのが常なのだが、どういう風の吹き回しかと、入り口でもたついていたので、どうぞ、椅子があるんで座ってください、と最近買った簡易椅子を指さした。 彼女は躊躇せずに座り、あのー、村長さんは、あのー、山那の、あのー、お姉さんと、付き合いましたかぁー、と思いがけな
《開校式》 8:40になり、それぞれが会場に集まってきたが、校長達が遅れていた。 時間が経過し、会場に集まった子供らも関係者も少しざわついていた。 ゴミ施設前で校長と市議を出迎えようとしていた安田さんは、ふもとに続く山道を下っていくと、途中で車から降りて、えっちらおっちら上ってくる三名と会い、なんとか定刻ギリギリに会場に着くことができた。 運転した秘書の話では、黒塗りの車の車幅では、山と崖下に挟まるカーブで運転が怖くなって諦めたとのことだった。 着いて早々に校
《開校式の準備》 冬も終わり、いよいよ分校の開校式が近づいてきた。こうしたときの演説は村長に決まっていたが、本校の校長や市議も参加するので、村では十三年前の映画撮影以来の大きなイベントになりそうだった。 映画撮影は、日本のドキュメンタリーもので、スターが来ると聞いていた村の連中はがっかりしていたが、スターを受け入れられる上品な家庭もなく、良かったべと副村長は言っていた。 村一番の別嬪だった山那の娘さんは、普段化粧っ気がないのに、映画監督が村にやってきた日に念入りに塗
《分校の準備》 これで四つの公約のうち三つが終わり、いよいよ小学校分校に本格的に着手することにした。 これは、自然学校の合宿所建設や、県や市からの要望取入れと、それ合った教育と各校からの生徒募集を同時に進める必要があり、受け入れ施設だけの問題ではなかった。 そのためには、それなりの先生やカリキュラムや県や市との交流ルートや合宿イベントも準備する必要があった。それによって、この村のよさを知ってもらい、徐々に過疎化する村への移住希望者も増やしたかった。 辛かったのが、
《新たなゴミ施設》 村の入り口付近の崖の上にゴミ捨て場用の小屋が建てられており、ゴミがきちんと分別されているか確認するのが細田さんの朝の仕事のひとつだった。 小屋は既に二十年以上経っており、ゴミ捨て場自体がゴミより汚く、さらに崖の上で森の木が垂れ下がっており、子供らは怖がって近寄らなかった。 細田さんも日常の掃除はしていたが、一念発起してそこを綺麗にする意欲もわかずじまいだった。 そうして、朽ち果てるままの年月が経っていったが、村に戻ってすぐの頃に村の主婦連中のど
《若かりし頃》 役場の宿泊部屋に寝転びながら、外から聞こえてくるクビキリギスのジージーという鳴き声を聞いているうちに昔のことを思い出していた。 私は十五歳までこの村で育った。小中学校は山のふもとだったのでなんとか通えたが、高校は寮に入らざるを得なかった。農業高校はどうにか通えるので、村の連中は中卒か農業高校出が普通で、自分のような普通高校は珍しかった。親も村の近所の連中も自分の行く末を心配して、いつも話の対象になっていた。 寮では電話が難しかったので、毎月初旬には
《村の運動会》 いよいよ五月三十一日が来た。快晴にて、朝から各家庭で弁当作りが始まった。 私は開会の挨拶をメモし、会場での道具整備や石灰でライン引きを始めた。議員連中も楽しそうに進行表を見て、道具の数を確認していた。 司会は事務の河野さんで、彼女は有線放送でおなじみになっており、村でも人気がうなぎのぼりで、毎日放送してほしいという伝言ももらっているらしかった。一度は、夕方五時を知らせる自動音声の放送を自前で放送し、畑で聞いていた私は、おや!? 故障したから代理かなと勘
《運動会の準備》 まだ季節は春で、夏に向けてのゴミ施設再建工事と、来年度春に向けての小学校分校の話を推し進めていきながら、五月は村を上げての運動会の準備が急務だった。 夏祭りや秋祭りもあるものの、小学校がない分、子供らの歓声を聞ける、そうしたイベントが村の重要行事だった。 役場から自転車で十分ほどの自宅に寄るのは週一で、あとは新村長としての仕事が目白押しだった。運動会の実施パターンは村長室の棚に整理されており、ここ十年はメニューが変わることはなかった。 子供から大
《村長の仕事始め》 翌日から、役場の村長室で実務を始めた。 前村長が趣味にしていた鉄道雑誌が棚を支配しており、一式を軽トラに積んで、副村長に運んでもらった。副村長の話では、若い頃に鉄道会社の作業員として働いていたとのことだった。そういえば、彼の家では、古い枕木を利用した門もあり、池の周囲も枕木で囲われていた。 議員は全員農作業を主としており、唯一私と副村長とが、そちらを副としている具合だった。私の家では母と弟が主に従事しており、副村長の家ではふたりの息子が働いていた
《就任式の演説》 計十四名で、会議室は割と手狭になり、事務員がドアを閉めて、副村長が、ではー、と高い声を上げたが、裏声になってしまって、皆が失笑した。 村長の退任挨拶が始まり、彼は演壇に進むと、右上の白い布の穴を気にして触ったりした。 河野さんが思い出して走って出て、花瓶をもって駆け付け、その上に置いた。そこら辺でもいだ黄色の花が数本飾られていた。 村長の話は長かった。二十分では到底無理だった。途中から半数はうとうとしていた。時折大きないびきが聞こえ、咳払いされ
《就任式の準備》 翌早朝から、役場の一番広い会議室の片付けを始めた。月一開催は名目だけのようで、しばらく村会議員の会議をやっていなかったらしく、土埃のついた農具置き場になっていた。 私は副村長と事務員が出勤する前に掃除を始めていた。 午前中には現村長の退任式と私の就任式があり、村の誰もが参加できるイベントだったので、議員の家族ら全員で十五名ほどは参加すると踏んでいた。しかし椅子は全部で十個しかなかった。椅子の代用として、畳を数段重ねておこうと私の寝泊まりしている部屋の