扉
長い間、睡眠という深い沼に落ちる直前、瞼の裏に必ず、一つの扉が映っていました。
濃い藍色の扉は、細かな飾り付けが沢山施され、まるで美術品のような美しさでした。次第に私は、「触れたい」「開きたい」「向こうを見たい」と思うようになりました。その気持ちは日に日に強くなり、毎日の生活よりも、その扉の事ばかりを考えるようになっていきました。
しかし、扉が現れるのは、いつも、眠る直前。
そのまま意識を失ってしまうと、触れることは出来きません。また、逆に意識を保とうとし過ぎても、目が覚めてしまい、扉は消えてしまうのです。
うとうとフラフラとした、非常に曖昧な意識の状態でないと、扉は現れてくれないのでした。
毎晩、どうにか、少しずつ少しずつ、フラフラと扉に近寄っていったのですが、ついに触れる事すら出来ませんでした。ある日を境に、扉が現れなくなってしまったのです。
それからも「扉の先には、どんな世界が広がっていたのだろう」と、いつもその扉を想っていました。
それが十年近く前のこと。
そして、今朝。
夢から覚めると、扉がありました。美しい、あの扉です。扉は、開いています。
瞼の裏なのかと思いましたが、目はしっかり開いています。起きています。
部屋の中、布団の横、小汚い生活環境とは不釣り合いに、扉はスッと立っていました。
開いた扉の先は真っ暗です。なにも見えません。
夢かと疑って目を瞑ると、そこにも扉はありました。
以前と変わらない美しさです。
しかし、外の扉と同じ様に開いています。そしてその先には、汚い部屋の中、布団の上で座り、目を瞑る私がいました。
紛れもなく私です。たった今、目を瞑っている私です。
瞼の裏と外の二つの扉は、同じ一つの扉なのだとわかり、私は目を開きました。
扉には、私を惹きつける何かがあったのでしょう。
扉に近づき、扉をくぐり抜け、そしてそのまま、真っ暗な闇へと飛び込みました。
そこは、何も無く、地面も無く、そして重力もありません。私がただただ、ふわふわと浮かぶのです。
前には何も見えません。後ろを見ると、蹴り出した扉はどんどんと遠くに、小さくなっていきます。
触れる物は何も無く、泳ぐ事も出来ず、もとの場所に戻る事が出来ません。
何も見えない闇の中、自分の存在すら揺らぐ中、私は目を瞑りました。
瞼の裏には、開いた扉が目の前にあります。
その先にはもう、私はいません。
扉をくぐると、いつもの汚い部屋に戻ってきました。いつもの生活、いつもの日常、いつもの現実に戻ってきました。
扉はそのまま、すうっと消えてなくなりました。
目を開くと、真っ暗です。
遠くに扉が見えます。十年前を思い出します。
少しずつ少しずつ、近寄っていこうと思います。
「扉の先には、どんな世界が広がっているのだろう」