桜の木とおはぎの話
卒業式の日に、各々が思い出の品々を持ち寄り、それを手頃なアルミの箱などに詰め、見栄えの良い桜の木の下に埋める。そして同窓会にでも皆で掘り起こし、大いに懐かしむ。
人々はこれを、タイムカプセルと呼んでいる。
とは言っても、これはもう、半世紀も前の風習である。
テクノロジーが発達し、物質も情報化された今、思い出の品を保管し、また、取り出すことなど、クラウド上で十分に可能となっている。
そのため、タイムカプセルという文化はすっかり消えてしまった、のかと思えば、そんなことはない。
テクノロジーが発達すると、タイムカプセルの文化自体も発達し、行為だけが変わらず実態が進化する。
つまり、今の時代に桜の木の下より掘り出されるのは、思い出の品々などではなく、鮮明な記憶そのものとなっているのだ。
記憶のタイムカプセル、とでも呼ぼうか。
分かり易いように少し具体的な説明をしよう。
若き清らかな小学生どもは、その時々の感情や記憶を脳に刺した端末から抽出し、あえて物質化をする事により桜の木の下に埋める。ちなみに、抽出したモノは黒くて丸くて、丁度、漉し餡の「おはぎ」のような見た目である。
その小学生が無惨にも醜く成長をし、めでたくもなく大人になると、その桜の木の下から「おはぎ」を掘り起こし、脳に刺した端末からインポートをする。
すると、薄れ削られ風化したはずの初々しい記憶が蘇り、懐かしいという感情を越え、今その瞬間にそう思ったと錯覚するほどリアルな情景が復活するのだ。
それは、昔のタイムカプセルとは比較にならないほどのノスタルジーを得られると、広く普及している。
しかし、鮮明過ぎる記憶は、時にトラブルを引き起こしてしまう。
小学生の汚れなき純粋な感情は、それを成長した脳みそに与えると、与える感情の純度の高さから、また、与えられた人間が行動力が伴う年齢故に、暴走し狂気を生む。
実際にどのような事が起こるのか、私が先日体験をした事を元に紹介しよう。
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その日、同窓会の三次会のあと、タイムカプセルの事を思い出し、掘り起こそうと提案したのは、山田だった。
山田は小学生のころは太っており、皆を力で制圧する汚い豚のような男子であったが、26になった奴は瞬間移動装置のディーラーなどといった気取った仕事をしていた。随分と痩せこけ、お洒落ぶった髭をはやし、ダテ眼鏡をしていた。
山田の提案に乗ったのは、高橋と酒井の私の3人だけだった。終電間際だったこともあるが、山田を嫌っていた人が多いのが原因だろう。
勿論、私も山田を嫌っていたが、記憶のタイムカプセルを掘り起こすとなると行かねばならない。
その後の細かい描写は省略し、タイムカプセルを埋めた公園に着いたところから、話させて貰う。
その日は桜が満開であった。
公園はこの時代にも変わらず、子供達の遊び場として活躍している。その証拠に、その公園のあちらこちらに、子供達が砂場で遊んだのであろう、スコップやバケツなどがほったらかしにされていた。
その桜の木が、薄く寂しげな街灯から、少しだけ申し訳無さそうにライトアップされていたのをよく覚えている。小学生の頃には見ることが無かった夜桜である。
これから記憶のタイムカプセルを掘り起こすのに相応しい風景だった。とても懐かしい気持ちだし、なにより、夜の花見に「おはぎ」は合う。
高橋と酒井ははしゃいでいた。大人げなく恥ずかしげもなく、大声で騒いでいた。山田はと言うと、その様子をダテ眼鏡で撮影しリアルタイムで全世界に配信していた。さらに、芸能人気取りのリポートをしている。
私は十分に不快であった。一刻も早くタイムカプセルを掘り起こしたかった。
奴らが騒いでいるのを無視して、一人でタイムカプセルを掘り起こすことにした。落ちていたスコップを拾い、桜の木の下へと向かう。山田はそれを見逃さず、リポートをしながら私に近寄って来た。それに気がついた高橋と酒井も大声でやってきて、我先にと掘り起こし始めた。
本当は、もっともっと静かに穏やかに着々と丁寧に、掘り起こしたかった。
直ぐに「おはぎ」は出てきた。指先に埋め込んだセンサーはすぐに反応を示し、数十とある「おはぎ」の山から、己のソレを見つける事が出来た。手のひらに乗るソレは想像より軽く小さく、頼りなかった。
山田は「おはぎ」を入念に撮影し、生配信のリポートを続け、もったいぶってなかなか脳の端末に繋げようとしない。
そんなことを全く気にしない高橋と酒井は、迷わず脳に繋げていた。インポートには数分かかるとのことだった。
私は奴らから遠く遠く離れ、一人になった。
遠くから見る桜の木は、近くで見るよりも大きく見えた。私は昔を思い出していた。
山田の叫び声が上がったのは、数分後の事だ。
急いで桜の木へと向かうと、高橋と酒井が血塗れのスコップを手に持ち、ただ、立っていた。
桜の木の根元には、ズタズタになった山田の姿があった。二人の目はずっと、少しも動かない山田を睨みつけていた。
公園は静かだった。
後で聞いた話によると、どうやら、高橋と酒井がインポートしたデータには、山田から日常的に酷い暴力をふるわれていた記憶が大量に入っていたようだ。
あわせて、その当時の苦しみと憎しみと怒りが、あせることなく枯れる事なく、そっくりそのままの純度で流れ込んできたのだ。
二人が山田を殺すことになったのは、子供の感情を大人が得た結果なのであった。
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このように、記憶のタイムカプセルには、トラブルを引き起こす危険性がある。懐かしさを得たい、などと軽い気持ちで使用するのは浅はかである。
危険性といえば、最近、記憶のタイムカプセルにセキュリティーホールが見つかったとニュースになった。
データの、つまり、記憶の改ざんが可能になってしまったのである。
改ざんされた記憶は、その人が間違い無くそういう経験をしたと錯覚させてしまう。これは、とてもとても恐ろしい事である。
そういえば、だが、山田がダテ眼鏡で撮影していた動画によると、山田は最期の瞬間まで「俺はお前らを殴った事なんて無い!何かの間違いだ!」と、叫んでいたそうだ。
なんとも、記憶の改ざんとは恐ろしい。
まあ、そんなことはどうでも良い。山田が私の事を殴っていたのは、間違いが無いのだから。
なんて事はない。私は、一足先に「おはぎ」を頂いていただけである。忘れていた憎しみを、頂いただけである。
ああ。これもそういえば、だが・・・。
私のこの「おはぎ」ももしかしたら、なんて、少しも思わなかったな。