五年前ボタン
話はとても長くなるんですが、僕がそのボタンを初めて手に入れたのは、ちょっと計算が難しいけれど、世界の時間で考えると、えっと、あ、今から三年前の事です。そうです、そうです。
僕にとっては、もう・・・、
何年前の事かなんて、わかりません。
駅前の喫茶店で、古い友人から貰ったんです。そりゃ、初めは信じませんでしたよ。こんな玩具みたいな、よくわからないボタンが、押すと五年前に戻るボタンだなんて。
友人は丁寧に説明してくれました。
押すと五年前に戻ること、一度戻ると五年間はボタンを押しても反応しないという制限があること、友人がボタンを押して時間が戻ってから二年がたっていること、だから三年は押せないこと、そしてなにより、その、あの、恐ろしい恐ろしい特性についても。
友人は僕に必死に伝えていました。ボタンを押すと、何度繰り返しても、同じ日同じ時間に、ボタンの制限が切れた瞬間に、また、このボタンを押してしまうということを。
あまり真剣に話すので、少し笑ってしまったんです。そしたら、凄い剣幕で怒られました。真剣に聞けって。今思うと、友人が正しかったんです。もっともっと、真剣に話を聞くべきでした。
友人は細かい細かい日時まで指定して、三年後の9月27日の15時27分、制限が切れるその瞬間、このボタンを押したくなると思うがどうか我慢してくれ、そう言ったんです。
何が起こるんだよ、と訪ねても、それはわからない、と教えてくれませんでした。
そりゃ僕も、細かい日時を覚えていますよ。忘れられるもんですか。
というわけで、その日にボタンを受け取ったんですが、さっきも言ったとおり、全然信じてなかったから、殆ど忘れていたんです。
好奇心で何度か押してみたんですが、何も起こりませんでしたしね。
最初の時の事は、よく覚えています。仕事に失敗しましてね。本当につまらない事です。
いや、その時は一大事でしたよ。会社のデータを誤って全部消しちゃったんです。電話は鳴りっぱなし、復旧にてんてこ舞い。もうどうにでもなれ、って、そんなふうに思ったんです。
そしたら、鞄にこのボタンがあるじゃないですか。
半ばヤケクソですよね。ボタンを押しちゃいました。
本当に、なんでそんなくだらないことで。
今まで全く反応しなかったのに、そのときは制限は切れてたんです。厳密には丁度、切れたんです。
9月27日の15時27分でした。
ボタンを押したあとの事を話します。ちょっとイメージし辛いかもしれませんが、頑張ります。
ボタンを押すと世界がグニョングニョンに溶けていくような感じになります。カフェアートをスプーンで混ぜて崩すのと似ています。世界が混ざっていくんです。
そして完全に混ざったら、今度はそこからだんだん風景が描かれていくんです。徐々に解像度が上がっていく感じです。
イメージ出来ましたかね。
気づいたら五年前でした。
五年前の9月27日の15時27分です。
五年前の僕は会社のトイレに座っていました。その頃は今よりだいぶ痩せてましたから、結構すんなり実感しまして。驚いたは驚いたんですが、それより、仕事の失敗がなかった事になったんで喜んでいました。
それから、前と同じように生活をしていたのですが、二年後に友人から連絡はありませんでした。
というか、友人はそれ以来連絡とれなくなったんです。行方不明ですね。
でも、ボタンはちゃんと、僕がもっていました。
鞄にボタンがあったんです。貰って無いのに。
友人が必死に説明した、一度押すと何度も押してしまうっていう注意ですが、まだその頃もあまり気にしていませんでした。押さなきゃ良いだけですし、今度は失敗しなきゃ良いって、そんな事を考えていました。
でも、全く同じって出来ないんですよ。少しずつ変わっちゃうんです。
二回目は、僕、人を殺しちゃいました。
事故みたいなものです。そんなつもりじゃなくて。でも、目の前で人が死んじゃうとパニックになるんです。ボタンを押しちゃいました。
9月27日の15時27分でした。
そんなのが何回も続きました。
暴力団に襲われたり、ストーカー女に刺されたり。
五回目位になると、もうボタンが怖くて怖くて。家の押し入れにしまっていました。
それでも押しちゃうんです。
もう完全に事故です。地震が起きて家が崩れ、瓦礫をどかしていてウッカリ、とか。
もう、意志の問題じゃ無いんです。捨てても駄目でした。壊そうとしても駄目でした。
何度も何度もこの五年間を繰り返しました。
もう、嫌になりましたよ。
だから、ボタンを別の友人に譲ったんです。
意味があるかはわかりません。ボタンを押すのが僕じゃなければ、僕の時間は戻らないのではないかと思ったんです。たぶん、僕にボタンを渡した友人と同じことを考えていたんでしょうね。
ほら、友人、行方不明でしょう。この繰り返しから抜け出したんですよ、きっと。
だから僕も、これでようやく。
おっと、そろそろ時間ですね。
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世界がグニョンと溶ける。
9月27日の15時27分。
世界は、ここで終わっている。