記憶珈琲

その喫茶店は、ひっそりとした住宅街に、これまたひっそりと営業をしています。他のお店には無い特別な珈琲を出すので、街のみんなはお洒落なチェーン店などには行かず、この喫茶店で珈琲を飲みます。
もともと珈琲は、その成分と香りから、様々な記憶を呼び覚ます効果がありますが、この喫茶店が出す珈琲は、なんと本人以外の記憶をも呼び覚ますのです。それも、圧倒的に明確で詳細な記憶を。

街のみんなは、この喫茶店が出す珈琲を、『記憶珈琲』と呼んで、大いに楽しんでいます。

喫茶店に入ると、落ち着いた雰囲気の綺麗な空間です。
カウンターにはちょび髭をはやした、いかにもなマスターがいます。二人掛けのテーブル席が2つ、四人掛けのテーブル席が3つ、あまり大人数は入れませんが、お客さんは街の人たちくらいなので、めったに混みません。カウンター内には、化学実験を思わせるサイフォン式の珈琲入れが見えます。豆は販売しておらず、持ち帰りも出来ません。あくまで、喫茶店の中で珈琲を楽しんでください、とのことです。


喫茶店の一番人気の珈琲は、宇宙旅行の記憶珈琲です。
さっそく注文をしてみました。

注がれた珈琲をスプーンでくるくるとかき回すと、爽やかで透き通ったオレンジの皮を思わせる香りが漂います。回る濃厚で綺麗な液体は、早くももう、宇宙にしか見えません。一口、口に含むと、香りの爽やかさとは違い、強い苦味が喉の奥から頭の先まで突き抜けます。そこには落ち着いた優雅さは無く、厳しい厳しい孤独さを感じます。しかし、それを飲む込むと、苦味の後から酸味や甘味がやってきて、その複雑な味わいは美しさすら与えます。
鼻から息を吐くと、その美しさが鼻から抜けて周りの空間がキラキラと輝くようです。
一呼吸して、たまらずもう一口飲みます。舌が慣れたのか、先ほどより苦味は抑えられ、より一層酸味と甘味を感じるようになります。鼻から抜けるキラキラとした空気の軽やかさと舌に残る重厚な存在感の対比は、体が宙に浮くようです。

もう一口二口。ぐびび。ぐび。

瞬く間に喫茶店は宇宙空間になります。
重力から解き放たれた体は、自由にあちこちに行きたがりますが、遠くに見える赤いの星がチカチカと強く点滅するので、そちらに向かって平泳ぎです。
渦を巻く綺麗な銀河や、強烈に輝く巨大恒星を見ながらひたすら泳ぎ、点滅する星にたどり着きました。

地面はサラサラとした赤い砂です。空は薄い紫色。緑や青の色とりどりの星がぐるぐると回ります。余りに綺麗な風景に、仰向けに倒れ、砂の上でじっと空を観ていると、眠たくなってきました。
ストンと意識を失ったかと思うと、喫茶店に戻ってきていました。珈琲は空っぽです。



常連さんにお勧めの記憶珈琲を教えてもらいました。
スパイの記憶珈琲です。
実際には味わえない記憶、というのがお勧めのポイントだそうです。
さっそく注文をしてみました。

注がれた珈琲はこれでもかというほど真っ黒色です。何か重大な秘密を隠し持っていそうです。
香りは、驚く事に無臭です。香りの無い珈琲は他に知りません。果たしてそんな珈琲が美味しいのかと、好奇心と少しの怖さを持って一口飲み込みます。
ズンと、頭を撃ち抜かれたような衝撃が走ります。強烈で濃い酸味。素早く駆け抜ける香ばしさ。口の中には味を残さず、脳に強い印象を残していきます。
あとの爽快感もあり、ついついと飲んでしまう美味しさです。

もう一口二口、ぐびび。ぐび。

スッと横にサングラスをかけた男が現れました。どうやらスパイ仲間のようです。狙うは敵国の軍事情報。情報を持つターゲットは向かいのビルの17階にいるようです。
盗聴器は仕掛けてあります。二人でターゲットの会話を聞きます。ターゲットは誰かに話しかけており、これが狙う情報であればミッションクリアです。
しかし、様子が変です。どうやら盗聴がバレているようです。それどころかこちらの場所まで知られています。
パンパンパンと銃声が鳴り、ガシャンと窓ガラスが飛び散りました。向かいのビルからターゲットが銃を構えてこちらを見ています。サングラス男は応戦しましたが、相手はビルの屋上にスナイパーを仕込んでいたらしく、腹に銃弾を撃ち込まれてしまいました。
サングラス男は自らが助からないと悟るやいなや、秘密文書を取り出し、これを持って逃げるように言いました。促されるまま、文書を受け取り走って逃げます。この文書をボスに届けなければ。
文書を手に必死に必死に走ると、気付くと喫茶店に座っていました。珈琲は空っぽです。


それから、いくつかの記憶珈琲を飲みました。魔法使いの記憶珈琲。剣豪の記憶珈琲。死神の記憶珈琲。鷲の記憶珈琲。赤ん坊の記憶珈琲。

どれもこれもとても美味しく、非常に面白い経験が出来ました。

長いこと珈琲を堪能したので、そろそろ帰ろうと思い立ち上がると、最後にマスターがとっておきの記憶珈琲を一杯サービスしてくれました。

日常の記憶珈琲。




喫茶店の外に出ると爽やかに晴れていて、気持ち良い風が吹いています。日々をゆっくりと楽しもうと思いました。

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夢蒟蒻
ありがとう