明日の水
雨が降ると、どうにも咳が止まらない。湿気のせいか、低気圧か悪いのか。
雨上がりの帰り道、夜道を歩いていると、自動販売機がペカペカペカペカと光っている。冷えた手を温める為にホットコーヒーを買い、手のひらでコロコロと転がそうかと考える。主張する灯りに近寄り、ドリンクのラインナップを確認する。右上の端に気になる商品がある。水色のラベルには黒縁緑色のゴシック体で「明日の水」と書かれている。350mlで330円。水にしては高い。
トルコで買った羊皮の財布から小銭を取り出し、そのヘンテコリンな飲み物を購入する。これは、小さな好奇心だ。
ガラガラドンと耳に痛い音がなる。見本はペットボトルだが、本物はビンのようだ。しゃがみこみ、取り出し口からビンを取り出す。見本と同じ水色のラベル。液体は、自動販売機の灯りでは少し黄色く見えるが、たぶん透明。ビンを回して原材料を確認する。「原材料:明日の水」。原材料が商品名なんてあり得るのか。早速開けてみる。蓋が開きにくい。誰も見てないので、蓋を噛み、捻るように開ける。見事に歯形がくっきりと蓋に付き、開いた。
飲んでみる。ゴクリ。
なんて事はない。水だ。おそらく軟水だろう、などと通ぶってみるが、そんなことはわからない。たぶん美味しい。だが、330円の価値があるとは思えない。もう一度ラベルをクルクルと見てみるが、効能などの説明は無い。
ちょっと購入を後悔するも、明日、職場での話の種にでもしよう、とあまり落ち込むことはしない。小さな好奇心は満たされた。
ビンを鞄にしまい、家へと歩く。
歩くとまた咳が出る。痰の絡むしつこい咳だ。水を飲むと少し落ち着く。買って良かった。ホットコーヒーを買っていたら、熱くてむせていたかもしれない。
なんてことだ。道に迷った。
毎日毎日歩く最寄り駅からの帰り道、迷うなんて事があり得るのか。だが、見知らぬ道だ。
確かに、この水について同僚になんて話そうかと考え、ぼーっとしていた。だけど、目を瞑っても家にはたどり着けると信じて疑わぬほど、繰り返し繰り返し歩いた道だ、迷うわけが無い。
不思議な事が起きてはいるが、不思議なことに、不思議な雰囲気にならない。風景はただの住宅街。たまに自転車に乗ったサラリーマンが通り過ぎる。間違いなく、千葉県柏市だ。
アリスになれないなら、これはなんだろうか。
来た道を帰れば良いのは分かっている。だが、小さな好奇心がうずき出す。冒険だ。
ワクワクする理由は、迷子であるという事実だけではなく、ヘンテコリンな水を飲んだ事に起因している。この水が不思議な力を持っていたのでは、という妄想に近い仮説故だ。
水は二口飲んだ。「明日の水」。タイムスリップでもしているのではないか。ありきたりな風景のふりをした次元の狭間なのではなかろうか。曲がり角を曲がると目の前に水平線まで見える大きな黄色く輝く海が広がっていたりはしないだろうか。
ワクワクが足の裏を蹴飛ばし、歩幅は広がる。グングンと歩く。
カーブミラーがキラリと光った。凄い勢いで車が過ぎる。危ない。危なかった。ふう。少し冷静になると、咳が出てくる。早足で歩いたせいで呼吸が速い。気管支が辛そうに音を鳴らす。こんなときは、漢方薬。小青竜湯は常に持ち歩いている。咳止めより鼻炎薬の方が効果がある。青い縦長の袋を破り、サラサラと粉を口に流し込み、水で飲み込む。ヘンテコリンな飲み物は、大活躍だ。酸味が強いその漢方薬は、漢方薬なのに即効性がある。ゴホンと大きめに咳き込み、長引く咳にお別れの合図。
咳が落ち着くと視野は広がる。さっきの車が走り去った先には、大きめの道路が見える。迷子の冒険家としては小道を行きたいところではあるが、本格的に迷うのは億劫だ。大通りに出よう。
大通りは片道二車線の国道だった。高校時代の友人が国道の見分け方を教えてくれたのを思い出す。やたらと目の大きい男だった。
大通りをよく観察する。道に面する店舗はよく見るチェーン店ばかりだ。車通りも激しい道だが、見覚えは無い。だが、それだけ情報もある。車のナンバープレートを見ると、やはりここが柏市であるということがわかる。
日常そのものの風景も、それ故にここが普通ではないと確信させてくれる。最寄り駅から家までの帰り道に迷い込む可能性のある国道の風景くらい、全て把握している。
ここは、何だ。
大通りをゆっくりとゆっくりと歩く。歩けども歩けども、見覚えの無い風景だ。見知らぬ大通りは、異世界のようだ。疲れてきた。呼吸も辛くなってきた。道行く人も車も自転車も、何食わぬ顔で通り過ぎていく。
ふと、見覚えのある顔が見えた気がした。歩行者か。自転車に乗る人か。車の運転手か。見渡すもそれらしき人はいない。気のせいか。
いや、違う。気のせいではない。ここは、柏市ではない。
思い出した。この道は、埼玉県所沢市だ。高校時代の育った街だ。懐かしい。気付くとギターを背負っている。隣には友人がいる。やたらと目が大きい。遠くには航空公園が見える。急がなきゃ。みんなに置いていかれている。友人は待ってはくれない。そういう男だ。そうだ。よく覚えている。
なんだ、咳が止まらない。苦しい。足が動かなくなった。しゃがみこむ。鞄からビンが転がる。
ごとり。
目覚めると、汗でびしょびしょだった。
喉が乾いた。テーブルにはコップ一杯の水がある。中途半端な量だ。三口くらい飲んだのだろう。
残りの水を一気に飲み込む。
今日の水も、たぶん美味しい。懐かしい味だ。