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おばちゃんは29歳【癒やされない支援者】

※私が生まれる前のことを
人から聞いた話です。
当時の混乱や時間経過で
正確ではない部分がある可能性があります。

「おばちゃん、何歳なん?」

「29歳やで」

「かあちゃん(母)の3歳下なのに?」

「せや。おばちゃんは年をとれへんねん」

ゆめが5歳の時の記憶

何度聞いても、何年経っても、叔母は
ずっと「29歳」だった。


おばちゃんは29歳【癒やされない専門職】


我が家の不思議

母の実家では
絶対にTVをつけない日がある。

そして、TVをつけないその日は
毎年必ず、叔母は調子が悪い。
泣いている時もある。
私がどう足掻いても
その日の叔母の涙はとめられない。


なぜそうなってしまうのか
叔母に聞けないし
教えてくれないので調べた。


叔母が実際に29歳だった時

叔母の実年齢から計算して
叔母が実際に29歳だった頃に
なにか大きな出来事がなかったか
検索してみた。

・・・・・・
・・・どれもピンと来ない。
調べる時期を少し前後にずらそう。

・・・・・
・・・あ、これ、私が生まれる前の叔母が
看護師として働いていた地域で起きてる。


!!!!!

それが起きた日付をもう一度、確認する。
いつも絶対にTVをつけない日、そして、
叔母が毎年必ず、調子を崩す日だ。


ここまで分かれば・・・あとは
現地に行って見てこよう。



いざ、現地へ

後日―――
私は電車に乗って
叔母が昔、過ごした地域へ向かった。

普通に、都会。
綺麗な大通りを外れれば
ざわめく音が遠くなる
そこもまた、静かで綺麗な通り。

ただ、それだけ。

いや、年数が経っているとはいえ
なにか無いのか。

ピントの合わない右目を凝らし
スマホカメラの拡大機能を使い
昔のことが分かるものがないか、探す。


あ・・・これ・・・

5時46分で止まった時計


・・・・・私、薄情だ。
たぶん、経験していないから
リアルタイムで生きていなかったから。
でも、それを言い訳にしたくない。

・・・見ても、何も感じない。
伝わってくるのは
「これはのこさないといけない」
という意思だけ。

叔母の涙を私ではとめられない理由が
分かった気がする。
「理解できないでしょ?」だ。
きっと、同じものを同じ時に感じた人にしか
分からないんだ。

それから、教えてくれない、のではない。
「教えられない」「教えたくない」のだ。

私にできることは
その6年後に生まれた私にできることは

客観的に知って、忘れないこと。
それだけだ。それしかできないんだ。

人生で初めて、時間経過が残酷に感じた。


時代をこえて

また電車に乗り、もう少し移動する。
ある駅に降り立ち、電車を見送ったあと
私はわざと白杖を折りたたみ、バッグへ。

移動前に、服も着替えた。
叔母からお下がりでもらった服だ。
帽子も叔母がくれたものを被る。

昔の叔母の職場の方向に向かって
白杖を片付けた分、恐怖心はあるが
右目の視力に頼り、ゆっくりと歩く。

実は以前、この辺りを歩いている時に
何人もの女性に叔母と間違えられたのだ。
叔母の格好をしていれば
声をかけてもらえて
昔の叔母の話を聞けるかもしれないと考えた。

しばらく歩くと、すれ違った人に呼ばれた。
「〇〇さん?」

叔母の名前。
私は立ち止まり、振り向く。

相手は私の顔を見て、戸惑っているようだ。
そりゃそうだ。顔が違うのだから。

「あ、ごめんなさいね。人違いで」

行こうとするその人を、呼びとめた。
「〇〇は、私の叔母です!」

「へ!?じゃあ、あなたは★★ちゃん?」
姪だと返事した瞬間、自分の名前を当てられ
今度はこっちが困惑してしまった。


叔母を知る人

声をかけてくださった方は
叔母の看護学校と元職場の同期。
叔母が私に写真を見せてくれて
「この人と一番仲良かった」と
言っていた方だった。

「もう20年以上、連絡とってないけど
とても仲良くしてもらっていた」
「お父さん(私の祖父)が大変だと
聞いていたが大丈夫だろうか」と
話しを切り出されたので
叔母の代わりに返答する。

叔母は元気にしている、
祖父は私が生まれて半年後に亡くなった、と。

今度は私が質問をする。
なぜ、私の名前を知っているのか。

「あなたのおばさんは
「もし子どもができたら、★★って名前を
つけたい」と言っていたのよ。
姪っ子ちゃんだけど、確か子どもは
いなかったと思ったから、呼んでみたら
当たっていたわ」

★★―――私の名前。
おばちゃんは、我が子につけたかった名前を
姪にくれたのか。

分かっていたつもりだったけど
いつも感じてはいたけど
叔母は私を心から愛してくれているのだと
客観的に実感した。



生きてそこにいるだけで

「ところで、どうしてこっちに来たの?
おばさんは、地元の方に帰ったでしょう?」

私は、叔母の同期にどうすれば良いか、聞く。

私では、叔母を救えない。
生まれる前の出来事だからか、
叔母が経験したことを、私には理解できない。
叔母に泣いてほしくない、と。

少し考えられた後、お答えをいただけた。

何も知らず、生きてそこにいるだけでいいのよ。
無理に理解しようとしなくていいの。
おばさんにとって、★★ちゃんは
今、時間が進んでいる証明
だと思うから。

あの日が来る度に苦しんでいるのは
きっと、〇〇さんにとって必要なこと。
★★ちゃんは、分からなくて良いから
見守っているだけでいいよ。



あの時、叔母は直接その身は被災しなかった。
だが、暮らしていたアパートは半壊、
部屋の中はぐちゃぐちゃ、
勤務先の病院では
叔母が担当していた患者の多くが亡くなった。

自分も傷ついているけど
セルフケアなんてしている場合でもなく
余震が続く中、職場へ戻り、避難所を回り
ひたすら被災者の看護へ。

その数ヶ月後、叔母は地元へ戻った。



「私だけが生き残ってしまった」

叔母の言葉を思い出し、目が回った。


手遅れ

ある日、母の実家で
私は自分の通院の用意をしていた。

「今日、カウンセリングの日?」
叔母が聞かれる。

「うん、そう。・・・おばちゃん」
機会が訪れたと思い
私は叔母を呼びとめる。

「おばちゃんは、行かへんの?
カウンセリングとか」

直球すぎた、か・・・?

叔母は少し考えて、返事をくれる。

「私はもう手遅れや。
人のケアをすることを仕事にするなら
自分の面倒を全部自分で見れないと

続けられない。それを仕事にしたなら
誰かにケアしてもらおうなんて
考えるもんじゃない。

自分の面倒を自分で見れない専門職に、
弱い人に、患者は頼ろうと思えるか?

私には、できなかった。
だから、仕事をやめてこっちに帰ってきた。
今、看護師の仕事をしているのは
活かせる資格が、これしかないからや。
あとは、まぁ、苦労して取った資格やし」


姪の選択と私の思い

結局、叔母の同期の方が
答えてくださった通りに
私はやるしかないらしい。

でも、一言だけ、叔母に伝えた。

おばちゃんは弱くないよ

叔母が生き残ってくれたから
私に名前をくれたから
私を育ててくれたから、今の私がある。

それは間違いないから。

『専門職でも頼って良い』
『誰でもケアされることを望んで良い』

これを、専門職を目指す学生の内から
知ってほしいな。

それから「専門職(対人支援職)が
潰れるのは悪」みたいなの、無くしたい。

そしたら
病む人、減りそうって思わない?
利用者側に、支援者側のコンディションって
わりとダイレクトに伝わっちゃうから

もし、支援者どうしで
元気を支え合えるようにできていたら
叔母の時間は、きっととまらなかった。
叔母は自分が望むあり方で
看護師を続けられたと思う。

思いある優しい人が
対人支援を生業とした人が
幸せに仕事を続けられますように

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