「無関心の境地にたどり着いた先には...」

みなさんは"無関心"についてどういうイメージをお持ちだろうか。冷たい。無愛想。「好きの反対は嫌いではなく無関心」「今の若者は政治に無関心」など。どちらかというとマイナスイメージを持たれる方が多いだろう。

この脈絡で私は無関心なオタクだ、と申し上げたら。もちろんマイナスイメージを抱くだろう。私に対してそういう印象を抱いている方もいらっしゃるだろう。

どう思われていようが”どうでもいい”。

"無関心"は私にフィットしたオタクスタイルだったからだ。

ゆめちゃんと出会ってから私は1人で現場に行くようになった。それまで一緒に通っていた連中は地上に出戻りしたから。ここが1つの転機になった。

今までの経験上、オタク同士の人間関係の軋轢で現場を追われた人を何人も見てきた。私自身のことを掲示板に書かれたりしたこともある。推しメンとの衝突で行かなくなるならわからなくもないがオタクが原因で行けなくなるなんてしょうもなすぎる。そのリスクを最大限減らすにはどうすればいいか。1人でいればいい。私が楽しければそれでいい、と。

「何をしに現場に行く?」

「推しに会うため」だ。オタクに会うためではない。そう思った私は、

「ゆめちゃんと私は1対1である」

という"妄想"の世界を創り出そうと思った。"オタクに無関心なオタク"の誕生だ。ただ、同担拒否ではない。ここの絶妙なバランス感覚が難しい。私は来る者拒まず去る者追わずだ。

他者を介在しない、させない。

これによって私の満足度は常に高い。幸福であるかどうか、の価値基準は自分の中にある。目の前にいるゆめちゃんが私に対してしてくれたこと、言ってくれたこと、それで幸せを感じられればそれでいい。自分の中に落とし込めるかどうか。他者を介在させる必要はない。

他者を介在させなければオタク特有のマウントの概念もない。TOだの全通だの推されだの。他人の動向を気にして、自分と比較することで、自分が優位に立っている時はモチベーションになる。しかし、自分が劣位になるとたちまち焦りやストレスになる。そこから病む、につながるのだろう。そういうのが一切ない。自分は自分。他人は他人。割り切ってしまえば常に心に余裕がある。冷静でいられる。疲弊することもない。どっしり構えていられる。

一方でこのスタンス貫き続ける弊害もある。一番は人間関係の構築ができなくなってしまうことだ。そのレベルで人付き合いが苦手になってしまった。オタクとの付き合いがほぼないので浮いた存在になる。協力プレイが求められる時に全く役に立たない。

マイナス要素を差し引いても圧倒的にプラスだ。ゆめちゃんと会っている時は毎回幸せだ。

無関心の境地にたどり着いた先には、オタク的幸福があった。

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