世界が背を向けても-天気の子より-

また、つらつらと書いてみる。

今さっき、RADWIMPS『愛にできることはまだあるかい』を聴いてて、ふと、今から5年前の高校1年生時代を思い出した。高校1年生時代は私にとって、意外にも楽しい時代だった。課題が非常に多く、睡眠が取れない日々が慢性的に続いたし、自分が当時在籍していた最上級クラスの英語科の教員に暴言を吐かれていても、なぜか楽しめたのである。それは、やっぱり自分に好みの先生がいて、「今日、あの先生はどんなことを話してくれるんだろう」「〇〇先生はどんな雑談をするだろうか?」みたいに、授業という空間で経験できる娯楽を自ら生み出し、自ら受け取っていたに他ならない。
おやじジョークすぎて笑えないジョークを飛ばす先生も好きだった。でも、やっぱり、そういう好みの先生が、一瞬でも高校に来れない日があると、日々の重みが変わるのである。今では恩師である先生がいる。その先生とは、この高校1年時代に初めて面識を持った。私が所属したクラスの数学担当だった。その年の冬、その先生が病に倒れ、その後の数ヶ月は学校に来れずにいた。その先生は数学2の先生であり、急遽その先生の代理として入ったのが、数学Bを私のクラスで担当していた教員だった。毎日、数学Bの教員の顔を見ていた。正直、飽きてきた。クラスの子も「やっぱり数学2なら、数学2の〇〇先生がいい。授業も丁寧だし。」と言ってたのは、今でも鮮明に覚えている。その先生が復帰し、やっと教壇に立って授業された日、記憶障害を患っているのにも関わらず、職務を全うしようとしてる姿が私の目に映ったのである。その授業後、私は用があり職員室に向かい、用を済ませて職員室から出てきた後、ちょうどその先生とばったりあった。私は前々から用意していたセリフをその先生に声かけた。
「良かったですね」
「ありがとう」
と、その先生は私の肩に手を置き、その言葉をかけてくれた。やはり、後遺症を感じさせない力強い言葉だった。
その先生自身の人生の大転機に当たる『日』を、その先生だけでなく、その先生の教え子である私たちも、教え子として作り上げたということは、少なくとも私の中では5年の時を経ても鮮やかなままだ。

高校1年時代の夏は震災の痕跡がある東北へ視察に行く高校生向けのスタディツアーに参加したり、冬は都内のエネルギーワークショップに参加して都内の国際系高校生のディベート能力に圧倒されたりした。そのあと親の勧めもあり、消極的な自分を変えたいと思ってその先生が病に倒れる中、高校生外交官に応募していたことを、あとあと知る。高校生外交官プログラムの書類選考を突破したとき、その先生から受ける授業は最後になった。コロナによる臨時休校のためである。最後の授業後、先生が職員室に戻る際、私も廊下に出ていた。廊下で先生と目が合ったとき、私は一年の感謝の気持ちを込めて軽く会釈をした。私が高校生外交官プログラムの書類選考を突破したことを知っていたのだろう、「お前ならいける」そのようなメッセージを私に伝えるような力強さを感じさせるお顔であった。

コロナという未知のウイルスが猛威を古い始める直前にいたその当時の私が、RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」の「世界が背中を向けてもまだなお 立ち向かう君が今ここにいる」という歌詞に身震いしたのは、その先生とのエピソードをコロナ禍直前という情勢に合わせると、すごく深い意味を持つものだったと感じるのである。

4月、高校2年次になり、高校生外交官プログラムが中止の連絡が来る。あわよくば高校生外交官プログラムに合格して研修になれば、部活ではなくそちらを優先することができるのでは、という淡い期待が外れた瞬間を体験する。しかし、私は義務感で続けていた部活をどうしてもやめたかった。自分にとって意味がないと感じていたためである。そして、私は学年主任兼所属部活の部顧問と衝突し、先生の信頼を第一に考えて学校生活を営んできた私自身の価値観、すなわち「自分が学年主任に認められている優等生だという価値観」が崩壊する。他人の評価に縛られる優等生というレッテルが、自分自身にとってどれほど恐ろしいものなのかを知る。

まだ高校1年生であった3月、私はよくRADWIMPS「大丈夫」も聴いていた。「世界が君の小さな肩に乗っている」のところが中毒になった。おそらく、まだ高校生外交官プログラムに合格してるんじゃないかという淡い期待を胸に、日本代表として渡米できる期待感全てを表しているからこその中毒だったのだろう。残酷な未来が待ち受けていたのにも関わらず、あの初々しい期待感を持っていた瞬間を、5年経った今でも忘れられないのはなぜなのだろうか。

残酷な未来もぐれずに生きて、過去にしてきた今の私でも、不思議に思うのである。親の車の中で、田んぼ道を走ってるとき、こんな田舎出身の、ちっぽけな私が日本代表として渡米なんて、なんと素敵なことだろうと思えた時代がとても不思議なのである。

東日本大震災の日。私は母屋で祖父母とこう約束した。「今日は金曜日。おばあちゃんの手作り料理楽しみにしてる」。元気に学校へ行き、元気に下校しようとしたとき未曾有の大地震が来たのである。当時、栃木県寄りの茨城県にいた私でも、生まれて初めて、これはただの揺れではないことを体感したのである。当時、小学1年生である。この時と同じで、そうなるであろうと思えた未来が来ない時もある。でも、そんな未来をもう一回作りたいと思う時もある。私の場合、その未来を5年の時を経て作った。

この文章を読む方は少ないだろうけれども、もし読まれた方で不登校経験者であったり、今の学校生活が理想ではないとしても、そういう日々があったなと懐かしく感じることがある。振り返ったとき、この道でも正解だったと思える日が来ることを祈念する。 

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