これからのミュージアムの役回り–善になりうる計算不能性
1.問題意識
1.1 近代化に伴い軽視されたコミュニケーション
資本主義のもとで行われた自由市場や自由競争などがもたらした影として、「格差の問題」や「環境問題」に対しては近年注目度が高まっている傾向がある。これらの問題は一国の問題ではなく、グローバル規模での問題として認識されるようになった。前者の「格差の問題」に関してだが、まさにワクチン格差として目下直面している問題でもある。先進国ではワクチンを備蓄する動きも確認される一方で、後進国では十分なワクチンが確保されず変異株流行の発端になっているケースも多数発生している。後者の「環境問題」に関しては個人レベルでも強く意識されるようになり、マイバックやマイボトルの持参は当たり前となった。また、企業の取り組みを考えてみても、CSR情報に環境保全に関する記述をすることはある種のスタンダートとなったし、ESG投資に多くの投資家が注目するようになった。
しかし、筆者がとりわけ主張したいのはこれらと同様に「コミュニケーションが希薄化」したことに対して問題意識を持ち、もっと議論されるべきだということである。資本主義を推し進め、目まぐるしい経済成長を可能にしたわけだが、そこでは資本合理性が第一に求められた。近代化とともに資本主義化が進んだと言えるが、社会学者の宮台真司は「近代化とはマックス・ウェーバーによれば、「計算可能性の上昇をもたらす形式的手続きの一般化のことである」(宮台 2018:237)としている。つまり、近代化は計算可能化であり、計算可能化することにより複雑なシステムを営めるようになった。それゆえに資本をさまざまなところに流し込むことで、著しい経済成⻑を可能にしたということである。そのなかでコミュニケーションは計算不能な存在であり軽視されるようになった。実際に恋愛コミュニケーションを考えてみると理解は容易である。「草食系男子」という言葉に象徴されるように恋愛コミュニケーションに消極的な若者は増え、未婚率が増加していることも事実である。また、恋愛コミュニケーションの中に市場メカニズムや資本合理性が介入したことで、生身で本気の恋愛コミュニケーションがなされなくなった。恋愛コミュニケーションに市場メカニズムや資本合理性が介入したということは、「婚活」「ビジネスカップル」「恋愛はコスパが悪い」などの言葉にも表象されているといえる。これらの言葉の広がりや価値観の蔓延から鑑みても純粋なコミュニケーションからの対極が進んだ現状を把握することができる。
1.2 バラバラになった人々の共通基盤としての文化
かながわ国際交流財団理事長の福原義春は「つい江戸時代までの人々は、幸せは経済力より生き方と文化の豊かさにあるということを知り抜いて、実践してきたのではないでしょうか」(福原 2013:7)との仮説から、人々の価値観が分散し多様化して求心力を失った現状を問題視し、共通基盤を求めるのだとすると文化しかないと主張している。しかし、日本では具体的な文化の担い手であるミュージアムに対する議論が少ない現状について同時に問題意識を示している。
これらの問題意識を考慮し、かつての純粋なコミュニケーションを取り戻すたに、または人々の共通基盤を文化としたときにミュージアムはどのような存在になりうるべきなのかについて考察を進めていきたい。
2. ミュージアムとコミュニケーション
2.1 来館=ミュージアムとのコミュニケーション
「読書は著者との対話である」という表現を参考にし、「来館はミュージアムとのコミュニケーションである」という表現を用いて、ミュージアムとコミュニケーションの関係性を記述することに試みたい。幼い頃に遠足などで博物館や芸術館を訪れたが、あの時に感じた特別な高揚感は今でも覚えている。大学生になった現在でもミュージアムを訪れると感覚が研ぎ澄まされ、知的好奇心が刺激される感覚がある。これらの実体験から、ミュージアムを訪れると言語情報だけではなく非言語情報からも影響を受けていることがわかる。北海道大学総合博物館教授の湯浅万紀子は、ミュージアムの教育活動の文脈の一部で、
芸術作品から受けた感銘、初めて目にした貴重な資料から受けた驚き、工作教室で苦労して作品を作り上げた達成感などもあろう。また、教育活動には、それに参加する「人」だけではなく、それを企画し運営するスタッフが関与している。来館者が体験することの中には、丁寧に応対してくれた案内スタッフとの心和む人と時があったり、専門的な情報をわかりやすく解説するミュージアムスタッフに憧れを覚える場面もあるかもしれない(湯浅 2018:48)
と、筆者が先に示したようなミュージアムとのコミュニケーションに付け加える形で、ミュージアムでのコミュニケーションのさらなる可能性について言及している。
前述した中で、「感覚」や「高揚感」、「感銘」、「達成感」、「憧れ」という言葉が使われたが、ここには「気持ち」という概念が共通していると考えられる。「気持ち」という言葉をもう少し細分化すると、「物事を捉えた時に抱いた感情や考え」ということになる。ここで再度、宮台の主張に手を借りたい。彼は社会の空洞化や行きすぎた資本合理性の追求に対する問題を「感情の劣化」をキーワードに啓蒙的に発言し続けている。「感情の劣化」を平易な言葉に置き換えると、人々がコミュニケーションに素朴に向き合わなくなったということである。彼の問題意識のベクトルは社会、そしてその社会に生活する個人に向いている。彼はこれらの主張を展開するなかで、「ケツ舐め」や「クソ社会」、「クズ」などと過激な表現を使う。しかしながら、単にラジカルなだけではなく実は古典的な思想が土台となっている。例えば、「クソ社会」や「クズ」は、ウェーバーの思想に影響を受けており、それぞれはウェーバーのいうところの「鉄の檻」や「没主体化」を意味している。「流動性が高く多元的で複雑な社会に適応するには、過剰さによるノイズを持ち込まないために、相手に深くコミットしない」をベタに実践したらダメ。社会に適応する「フリ」だけでいい。そもそも社会はクソ。クソな社会に適応しきったら、頭の中もクソになっちゃうぜ」(宮台 2018:239)というのが彼の主張の大筋である。つまり、彼はクソ社会に適応してクズになることに対して批判的に立場をとっている。要するに、合理や損得ばかりを追求するのではなく、それらの要素を排除した純粋なコミュニケーションにこそ人間にとって本質的なコミュニケーションの価値があるということである。まさに、ミュージアムのコミュニケーションはこれらの純粋なコミュニケーションを体現する場になっているといえるのではないか。
2.2 ミュージアムの資源を活用したコミュニケーション
筆者はミュージアムでのコミュニケーションそのものに美点を見出したが、他方で湯浅はミュージアムの資源を活用したユニークな学生教育「ミュージアムマイスター認定コース」を展開する中で、「ミュージアムのスタッフや他のプログラム参加者とのコミュニケーションを通して、何かを得ているかもしれないことに気づけば、ミュージアムは学習の場にとどまらない特別な場所になっていくのではないか」(湯浅 2018:49)と、コミュニケーションを通して学習の場が発展することについて新たな可能性を見出している。
3. ミュージアムに求められる身体性や場所性
3.1 等閑視された身体、場所、時間、記憶
「身体」や「場所」に関しても、感情と同様に計算不可能であるために軽視されてきた経緯がある。合理化を図る近代化が原因であることは前述した通りだが、金賢京はリチャード・セネットの労働者に課せられた過剰な移動性についての記述を参考に、「場所」の意味がいかにして蔑ろにされてきたのかを説明している。
リチャード・セネットは新自由主義が労働者に過剰な移動性を強要することをもって生じる精神的な苦痛について述べている。労働者にとって転勤発令はそのかん親しくなった隣人と別れて見知らぬ地での生活を新しく始めることを意味する。しかし使用者たちは労働者が味わう喪失感を考慮せず、あまりにも簡単にこのような決定を下す。人々は過去を無理やり忘れて愛着を断ち切ることを持って新しい状況に適応しようとする(金 2020:280)。
近年「モビリティ」という言葉が頻繁に使われ「未来のモビィリティ社会は?」などのような切り口で注目を集めている。効率を求めるときに考えられる「モビリティ」には身体性や場所性が含意されていないと思われる。また、金の主張には「身体」や「場所」に加えて「時間」や「記憶」といったことも同時に等関視されたということが暗示されているのかもしれない。
3.2 バーチャルやオンラインの長短
2012年に「Oculus Rift」が登場したことにより、VR(仮想現実)が再び脚光を浴びることになり、まさに2022年現在はVRブームの渦中と言える。ミュージアムもまたVR技術を用いて、バーチャルミュージアムとしてコンテンツを提供している。これらのバーチャル事業に関する取り組みに、コロナウイルスがさらなる拍車をかけた。リアルでの移動や接触がリスクとなりうることから、安全な家の中で享受できるコンテンツに需要が生まれたのだ。実際に、北海道博物館は2020年3月に新型コロナウイルス感染症拡大のため全国各地の小中学校が臨時休校となったことをきっかけに、おうちミュージアムと題した取り組みを始めた。具体的には「おうちで楽しく学べる」をコンセプトに、全国のミュージアムとともにオンラインでの発信を始めたのだ。これらの取り組みに参画した関係者はバーチャルやオンラインの可能性または問題点について実感を伴いながら理解できたわけだが、とりわけここで取り上げたいのは「身体性」や「場所性」に関する記述である。
「来館しないと得られない経験を、インターネット上で何かに置き換えることは可能なのか今一度考える必要もあるのかと感じています」
「実物の展示の意図をきちんと汲み取ってもらえないこともある。それがインターネットだと画像だけ切り取られて一人歩きする可能性が高く、デマをまき散らす道具とされることもあるので、どう防ぐのか、どう伝えるのかは課題と感じている」
(渋谷 2021:127-128)
後者の課題意識については特に興味深い。身体を伴って実際に訪れ作品と触れ合うこととワンクリックで作品と対峙することの両者には大きなギャップがある。後者を採用した場合には、齟齬、誤解が生まれる可能性が高まるといった意味で一定の危険性が懸念されるだろう。
また、文化人類学者の広瀬浩二郎はレプリカでの代用の可能性について留保しつつも、さわって味わうことに重きを置いている。「なんといっても素材の質感。物が持つ本当の質というものは、これはやはりさわってみないとわからない」(広瀬 2012:46)とし、さわるという身体性を伴う行為はそのものの本質を理解する上で非常に重要であると主張している。バーチャルやオンラインには、数多の優れた点や将来性はあるが、ある程度の限界や不得意とする分野もありそうだ。
4.総括
福原の「過去の価値、現在もある価値、未来につながる価値を、あえて力を強めていくことが大事だ」(福原 2013:16)という旨意に則って、本稿の総括をする。過去の価値については論及できなかったが、現在もある価値、そして未来につながる価値については論及することができた。現在もある価値とは、伝承され続けている文化や伝統である。さらに言えば、先人たちが実践してきた純粋なコミュニケーションである。加えて未来に繋がる価値とは、今後共通基盤となりうるであろう文化である。ここでの文化とは、これまでに築き上げてきたものもあるし、今後生み出すものもある。これらの文化を守り、創造することが今後のミュージアムに期待されている普遍的な役回りなのではないか(4816字)。
参考文献
金賢京,2020,『平等な社会のための3つの概念 人、場所、歓待』青土社.
広瀬浩二郎,2012,『さわって楽しむ博物館―ユニバーサル・ミュージアムの可能性」青弓社
福原義春,2013,『地域に生きるミュージアムー100人で語るミュージアムの未来Ⅱ』現代企画室.
宮台真司,2018,『社会という荒野を生きる。』ベストセラーズ.
湯浅万紀子,2018,『ミュージアム・コミュニケーションと教育活動』樹村房.
渋谷美月,2021,「全国のミュージアムと取り組んだ「おうちミュージアム」―参加ミュージアムを対象としたアンケートの調査の結果報告」『北海道博物館研究紀要 Bulletin of Hokkaido Museum』6:127-128.