人生に哲学を持ちたい。「ジョジョの奇妙な冒険」の吉良吉影に学びたい。
僕は人生の目的を考えている。
もうこんなこと、何度ブログに書いているだろうか。だけど考え続けている。もしかしたら人生の目的を考えるだけで人生が終わってしまうかもしれないぐらいの勢いだ。
道標がない。
自分が迷った時に、行く道を照らしてくれるような光がない。大きな目的がない。浮き草のようにただ漂っているだけだ。
人の役立つことがしたい。でもしたくない。そこまで他人の幸福に関心がない、
何らかのプロフェッショナルになりたい。だが無理だ。そこまでタフじゃない。
何らかのオンラインゲームで1位を取ることさえ至難の業だ。1対1で勝つことさえ難しいのに、どうやって数十万人、数百万人に勝てるだろうか。
目的はなくても哲学があれば良い
たとえば人生が暇つぶしだと思って、それで割り切れるならばそれで良い。
たとえば浮き草のように世界を漂って、最後にはチリのように消える。それも本人が納得できているならば良い。
大きな目的を持って進まなくても良い。大事なのは哲学と、自分の納得だ。
スマホは痛み止めだ
何ひとつ目的がないことを紛らわし、痛みをゆるめてくれる。
仕事も痛み止めだ。進む方向が分からない時には、とりあえず仕事を頑張れば良い。
だけど痛み止めが切れた時には、また痛みが始まる。
スターバックスでゆっくりとする時間のために生きている
スターバックスに来るとたまにそんな気分になる。ジョジョの奇妙な冒険で言えば吉良吉影のような考え方に近いかも知れない。
どこかに向かうことではなく、向かう途中にこそ「意味」はあらわれる。
もしスターバックスでゆっくりと抹茶のティーラテを飲む時間に意味がないのだとしたら、一体この世界の何に意味があるというのだろう?
僕は形に残すのが好きだ
たとえばブログ。たとえばYoutubeの動画。たとえばカラオケアプリの動画。たとえば作詞作曲した音楽。何かを形に残したい。
だけど本当に好きなのは形のないものなのかもしれない。ひとりで、あるいは友人や恋人と一緒に過ごす平和な時間こそが。
たとえば恋人と一緒に手をつないで眠る時、生きている意味を感じる。
オキシトシンを未来のAmazonで箱買いしたくなる。(どんな表現だ?)
僕らは生体ホルモンの脈動と共に生きている。
それ次第で死にたくもなれば生を祝いたくもなる。このブログを書いている最中にだって刻々と意識の状態が変わる。
好きな時間の中に生きる意味はある
たとえばサウナに行って満身に心地良さを感じれば、このために生きているのだとさえ感じるだろう。
逆に自分が空虚な気持ちのままでは、生きる意味をいくら考えても見つかりづらい。
好きと意味は近い場所にある。そんな気がした。
僕はまだ探している途中だ
少しずつ答えを探し、答えに近いものを見つけ出す。