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8月10日

今日8月10日、毎年この時期あたりから夏本番といわんばかりの暑さに見舞われ、どこか湿気のある僕の地元の夏の匂いをかぐと、お盆の時期だなと思ってしまいます。

これまでのお盆前は、お盆で久しぶりに会う親戚の集まりを想像してどこかウキウキしながら扇風機にあたり、片手にアイスを持って甲子園をぼんやり見ていました。

パンデミックに見舞われ、入学式もなく、ワクワク楽しみであった大学生活は初めてのひとり暮らしの下宿先でずっと一人。3年前ですね。中学校3年生から夢見ていた大学に晴れて入学することができたのに、外すら出れない。覚悟を決めた浪人生活の賜物はどこへ?思い描いていた大学生活とは大きく異なり、1日1日が過ぎるたびに何も為しえない、達成感のかけらもない。いろんな負の感情に見舞われた僕の身体はこれまでの努力とこれからに対する希望の無さに限界に達していました。ウイルスということもあって世の中の誰もがこのような感情を抱いていたと思います。みんながそう。そう思って、誰かに自分のモヤモヤを出すこともありませんでした。

そんな中、心身ともに限界がきていたことを家族に告げ、夏実家に帰省することになりました。自営業をしている家族にとっては最大の決断だったと思います。ウイルス感染でギランバレーになり、一瞬心臓が止まってしまった父は特に気をつけろと念を押して感染対策に注力。実家に帰ってきたものの、慣れない条件付きの生活でした。つらい。ある日、僕は家を抜け出して、近所に住む親友に会いに行きました。ぽっちゃり体形のこの子は小学生からの友達で、僕の周りの子の中では一番といってよいほど心優しき理解者。お互い中学に上がって地元の私立に通うことになったその子とは、頻度は多くないものの時々会っては近況報告をする仲。浪人生活が終わってから久しぶりに会い、その後は実家でオンライン授業を受けているその子と神戸の下宿先の僕はその子のダイエット企画というテイでビデオ通話をほぼ毎日していました。少し体のお肉が邪魔しながら健気にストレッチだの体幹だのしているその子を画面越しに、1日中家にこもって淀みきった体を一緒に動かす。孤独の一人暮らしで唯一僕が笑顔になっていた時間はその子とのビデオ通話の時間だったと思います。

そんな親友の家に急に行った際にも、笑顔で「お帰り」と優しく一言。コロナでどこかに出かけることもできないため、小学校のグラウンドで一緒にサッカーをしたり、その子の部屋でボードゲームをしたりと、一緒に過ごした小学生の時間にタイムスリップ。やっていることは子供の時と何ら変わらない少し幼稚な遊びで、オマセな20歳の遊び方ではないが、やはりこの子といる時間は嫌な現実を忘れられるひと時でした。

今となっては親友ですが、僕とこの子の出会いは最初ちょっとしたイジメからでした。ここまでの彼の紹介から分かる通り、悪いのは僕。小学3年生のクラス替えで同じクラスになったのがきっかけです。この時の僕は、スーパーで物を盗んだり、何かと解決方法は暴力だったりと本当に情けない少年でした。クラスの中でお調子者だった僕は、自分が楽しければよいという理由だけで、色んな子に少しずつ迷惑をかけていたんです。一緒に遊んでくれる友達が多かったのは幸いでしたが、周りから見ればボケたりちょっとしたおふざけだったりとは捉えにくい行為だったと思います。一緒に遊ぶ子の中でその被害にあっていた一人が彼です。そんな僕は放課後毎日学校の相談室に先生に呼び出されては説教。でもどこか説教が負に落ちず、学校生活は自分の楽しいように生活していました。

ある日、クラスにあるたった一つのボールを他グループの子たちが占領してサッカーをしていました。僕たちもサッカーがしたいと僕は率先してそのグループの子たちに言いに行きました。ただ、ボールを貸してくれないその子たち。腹が立って、僕は一人でその子たちに手を出してしまいました。そのグループのリーダーのような子に対しては昼休みが終わって5限に入っても、誰もいない雨の中のグラウンドでひたすら殴っていました。そこに駆け付けた先生たちは僕を引っ張り出し、クラス前の廊下まで連行。クラスの子たちは自習となり、教頭先生、担任の先生二人体制の説教がスタート。ある程度の時間で担任の先生と二人の時間に。この日の先生との時間は今でも忘れませんが、僕と本気で向き合ってくれました。まずはこの日のケンカの経緯について。その後はこれまでの自分の素行について。端から見れば完全に僕が悪いのですが、先生は僕の正直な思いでもあった「友達と一緒に遊んでいたい」という思いに、僕の心の中に入って今後どうしていくべきか夕暮れになっても一緒になって考えてくれました。その時間で一番腑に落ちたのが“コトバ”の力。「お話が上手ければ、問題だって解決できるし、誰かを笑わせることだってできるよ。」この教えを今でも覚えているくらい僕の心の奥底にスッと入ってきました。

この日を境に、これまでの自分の行動を見直し、酷い接し方をしてしまっていても友達でいてくれた仲間たちを大切にしようと心に誓うように。そこから小学校の友達とも今でも仲の良い親友に。今思えば、クラスがずっと一緒で、放課後も塾も晩御飯もお風呂も一緒だった、これぞ親友!と呼ぶべき子が小3の時に親の転勤で急に離れてしまったことが周りの子へ手を出してしまう要因だったのかもしれません。あの時は自分が自分でない気がしていた。周りの子もどこかおかしいと思っていたと思います。憶測ですが、手を出していた僕の周りに友達としていてくれたみんなは、僕の心の拠り所としていた親友との別れで心にぽっかり穴が開いていたことに気づいていたんだと思います。

この経験から僕自身少しずつ変わっていったことで、昔イジメていた子が今となっては親友となっていったのです。

僕が大学2回生の夏。コロナが落ち着いたかと思えば、また感染者が増えるといったパンデミックの波に怯えていた頃。

夏休みに向け、実家の帰省時期を彼とLINEで連絡を取り合っていました。僕としては1回生の夏以降実家に帰れてなかったことからものすごく帰りたい気持ちではいましたが、自営業の影響で家族から帰ってくるなと。大概の親は、親元を離れた息子に対して「いつ帰ってくるの?」と帰りを待つものとイメージしていた僕はそのギャップにまた心やられていました。彼はお盆の時期を避けてお盆前に少しだけ帰ると言っていて、うらやましい気分。お互いに「また遊べるといいね。」と、彼の帰省日に連絡していました。

二日後、彼から連絡が入りました。

○○の母です。突然の報告ですみません。○○は10日の早朝、心臓にかかる突然死で亡くなりました。今まで仲良くしてくれてありがとうございました。

2021年8月11日、お昼時、下宿先のベッドの上でこの連絡を目にしました。すぐさま電話をかけ、彼の母が電話に出ました。小学校の時から彼の家族と僕は仲良くさせてもらっていて、いつも友達の僕にも元気に接してくださるパワフルお母さん。電話越しに聞こえる彼の母の声は、いつもと変わらずパワフルな声。淡々と報告。僕は呆気にとられ、親友の死を受け止められずに心此処に在らず。パワフルな声に余計嘘だと思いました。でも無意識に涙が出ている。そんな状況で聞いていたため、聞こえてくる単語だけを頭の中でつなげて淡々とした話に聞こえていたのかもしれません。報告内容によると、2日間の帰省で東京に向かう3日目の朝に起きてこない彼を不思議に思い、部屋に行ったところベッドで寝ている間に息を引き取ったという。彼の家族も突然のことで、すぐに救急車を呼んだがもう遅かったらしい。彼の友達への電話とあって、元気にすっぱりと手短に報告したかったのだと後から聞いきました。亡くなった自分の息子の代わりとなって元気にお別れを言いたかった一人の母としての思いだったと感じます。

電話の後、僕はずっと天井を見上げていました。

実家にも帰れない。どうしたらいいんだ。

とりあえずお母さんに電話を。

「もし僕がコロナで帰ってきちゃだめなら僕の代わりに家に行ってほしい。」

とっさに言ってしまった。

次は、亡くなった彼と僕の共通の友達に何人か電話を。

「○○知ってるやろ?昨日突然亡くなって。、、、彼の家族が落ち着いた時に家に足を運んでほしい」

共通の友達といっても、彼が私立中学に行ってしまったことで最近の彼を知らない友達も含まれていました。ただ、一心に僕が彼にできることは何かとっさの判断がこの行為だったんです。

彼の家族にとって、迷惑な行為だったのかもしれません。ただ、突然亡くなってしまった彼にできることはないか。彼を忘れてほしくない。そんな思いだけが先行していました。

この年の夏は、やっと大学生らしく色んな友達ができていたものの、その子らが帰省のため自分の近くには誰もおらず。誰にも言えないこの感情。感情がそもそもあったのか。ずっとうなだれ、何もできない鬱状態。煙を見れば、彼とのこれまでの一瞬のひと時が蘇る。タバコしか味方がいなかったと思います。

その年の10月、帰省したタイミングで彼の家に足を運び、彼の家族と夏に感じていた感情を全部吐き出しました。

彼の母は、いつも通りのパワフルな声でこんなことを言っていました。


まだ帰ってきてよかったと思うよ。これまでお思い出が詰まった家、家族が周りにいる本当の自分の家で。

ほんとは自分(彼の母)が医療従事者だから帰省も考えもんだったけど、どうしても、少しでもいいから帰ってきたいって。

多分、○○(親友)はいなくなるまでに家族にお別れをしたかったのかな。

こうなるのはどうしてもつらいけど、親としてはお別れの最期に話せて、顔が見れてよかったよ。


楽観的な言葉。これまでもこれからもパワフルでいる彼の母の言葉が聞けてどこか嬉しかった。


そんな彼の死で考えさせられることがいくつもありました。

「人はいつか死ぬ」てこと。

鬱になった原因の大きな一つにこのことが大きかったです。

これまで親戚やおじいちゃんの死に直面したことはありますが、ここまでの感情は湧かなかった。中3の時にクラスが同じだった子が高1になって自殺してしまい、県で大きな問題となりました。お通夜にも行きましたが僕としては今回ほどの感情ではなかった。つらいというより、悲しいが強い。どこか他人事のように思っていたんだと思います。自分の人生の半分以上親しくしてくれた身近な人の死はつらいものがあります。ですが、この経験で人生の学びとして大事なことを教えてくれた気がします。

自分がいつか死ぬかもしれない。

自分は何で生まれてきたのだろう。

自分事として捉えるようになってから、自分がしたいことはまず言葉にして、行動してみることが1番だと思うようになりました。できない理想や野望でもとりあえず言ってみる。言うってことは、誰かが聞いたってこと。誰かが聞いたってことは言ったことに関して向かわなければ嘘になる。向かうってことは、言ったことが叶うようにどうすればよいか逆算することに。逆算すればいくつか道が見えてくる。その道が見えたなら優先順位を決めてがんばってみる。がんばっていれば、色んな人に言っていれば、自分の考えだけにあった道じゃなくても叶うことができる。そんな気がします。

実際に、当時無謀だと考えていたイタリア留学も一応行くことはできました。

このイタリア留学も最初は自分の情報のみでもがきながら頑張っていましたが、行けるきっかけの一つに思いがけない所で手助けしてもらった人が何人もいます。留学の費用だって親や家族がいてこそ叶えられました。自分一人では絶対に叶えられなかったです。

彼の死から、したいことへの気力みたいなものは上がったような気がします。興味があること、好きなこと、叶えたいことは人に言いながら自分の思いや行動に責任を持ってがんばってみることが僕の人生なのかと。

この考え、みんながみんなではないと思います。ですが、僕の場合はいろんな人の知恵や情報をもらって、誰かに頼っていることに変わりはありませんが、自分の周りの環境を形成して、その環境をうまく使いながら、その環境に恩を返していく。恩の形も様々だと思いますが、僕にとってこれも自立だと思います。周りの人の恩恵は直接「恩返し」。あるいは、次世代への「恩送り」として紡いでいけたらいいなと今はそう考えています。

自分の心にしまって生きている生き方は刺激的でないし、自分の心が満たされるものではないと自分の経験からも学びました。

あの手を出してしまっていた自分勝手な少年の本質な部分は変わっていないかもしれません。自分勝手です。でも僕の人生です。もしうまくいかなければまたやり直せばいい。もし本質的な部分が変わらなければ、そこは変えずに、やり方を変えればいい。誰かと生きていくことも自分が生き抜くことにつながっているのかなと。そこは臨機応変に対応しなければなりませんが。

今、たぶんこれからも、自分がどういう人でありたいか常に思っていることがあります。

それは、世の中の人に「きっかけ」と「選択肢」を提供していき、より豊かな暮らしへの貢献ができたらいいな、ということです。

誰もが皆、それぞれの人生があると思います。考え方も、価値観も、センスも、知識や知恵だってみんな持っているものが違う。ある人から見れば普通だし、ある人から見れば個性的だと。感覚は人それぞれです。そんな世の中の人たちと一緒に生きていかなければ、自分も生きていけない。誰かから必要としてもらうこと、あるいは面白いと思ってもらわないとお金ももらえないし、一人になりかねないです。そこで僕が多種多様の世の中に貢献できるには、「きっかけ」づくりと「選択肢」を増やせるようなことをしたいと思いました。それこそ、幸せに生きるってことも考え方人それぞれです。なにが幸せなんだろう。僕にとって幸せのひとつに情報=知識を持つことが浮かび上がりました。それこそ、イタリア留学だってある人から教えたもらった情報です。この誰かから教えてもらった情報は知識となり、時には知恵にもなります。これらは別に活用しなくてもいいんです。ただ、何かを突き動かしてくれる「きっかけ」になったり、悩んだ時に選べる「選択肢」が増えることにもなるんです。知って良くない情報、あるいは知らなくていい情報も世の中には少なからずあります。これは僕の力量次第です。ですが、考え方を変えれば知って良くない情報から学べることもあります。もし、このような貢献をしていく立場に慣れれば気を付けてはいくのですが。

このような考え方を持つようになってから、好奇心も相まって「取材」にものすごく興味がありますし、もう実行に移しています。これまでも大学の裏に住んでいた際に、二輪の自転車を颯爽と巧みに乗りこなす大学生に憧れて、「この横についてる二つのタイヤ取るにはどうすればいいの?」と補助輪なしを懇願した3歳児の僕も、無意識的に取材のようなものをしていました。「取材」とは?で検索すると、「作品や報道の材料をある物事・人から取ること」と書かれています。書かれ方的にあまりいい印象ではないのですが、僕のしたい取材は「ある物事や人から分け与えてもらう知識や知恵」を収集したい、そして自分なりの色で工夫しながら届けていきたいです。「取る」てより「収集」ですね。「取る」て言い方だと、スーパーでよからぬ経験がある僕にとっては勘違いされてしまうような表現。

この思いは後に詳しく話せたらと思います。

ここまで記せたことで、今年の8月10日も自分にとって転機になったと思います。誰かにもしかしたら見てもらっているかもと思えば、やる気も責任感も少しは湧いてきます。
ある人にとっては、自分の誕生日や新年などなにかの節目の日に、自分と向き合う時間を設けていると思います。僕にとっては2年前から8月10日です。昔もこれからも親友に支えながらがんばっていきたいです。

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