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ストッパー起用の歴史

現代野球においては投手の分業化が進行し、とりわけリリーフ投手に関しては、終盤3イニングを1イニングにつき一人ずつ担うようなケースが一般的となっています。

しかし近年、MLBにおいては「ストッパー」とも称されるリリーフ投手の起用法が注目されており、2016年POにてCLEが、当時の絶対的なセットアッパーであったA・ミラーを試合終盤に機械的に投入するのではなく、試合中盤のピンチの場面から投入し複数イニング跨がせることで、相手の流れを食い止める役割を見事に果たしました。

昨年には、MILのJ・ヘイダーが登板間隔を空けながらも、試合終盤の複数イニングを投げる起用法で、チームの地区優勝に大きく貢献するなど、リリーフ投手起用の手法として、今後活用を検討する球団も多く出てくるでしょう。

上記のような、試合を左右するような場面でリリーフエースを投入する「ストッパー」起用ですが、NPBにおいても過去にはそのような起用法が取られており、江夏豊なんてのはその代表格でしょう。

また、「ストッパー」というと、最終回限定の抑え投手をそのように呼ぶことも多いですが、試合を締めくくるという意味では「クローザー」という呼称の方がより実態を近く捉えているようにも思いますので、ここでは「ストッパー」と「クローザー」は区別して使用していきます。

そして、本noteでは、NPBにおける「ストッパー」起用の歴史について探っていくことで、今後のリリーフ投手起用の方向性を考えていこうと思います。

1.黎明期

プロ野球の黎明期は周知されている通り、先発投手とリリーフ投手という垣根が低く、優秀な投手が先発をこなしつつ、場合によってはリリーフとしてもマウンドに上がるというスタイルで、とにかく優秀な投手にイニングを稼がせるという手法が取られていました。

国鉄(現ヤクルト)に所属していた400勝投手の金田正一は、ダブルヘッダーの試合の第一試合で先発をこなし、次の試合は勝てそうであれば途中からマウンドに上がり、一日で2勝を挙げるといった離れ業をこなしていたのは、伝説のような話として耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

ここで言う勝てそうな試合の試合途中からマウンドに上がる行為は、チームの勝利の確度を高めると言う意味では、「ストッパー」の走りとも取れるように思います。

各チームのエース級の投手が、金田のような今の概念で照らし合わせると「ストッパー」のような事を行っていた一方で、勝ち試合で登板する専任のリリーフ投手が存在せず、初めてそのような役割の投手として認識されたのが、8時半の男と称された巨人の宮田征典になるでしょう。

実力は当時の川上監督も認めるところでしたが、心臓疾患を患ったことから、短いイニングの登板で済むリリーフ専任投手へ転向し、1965年には69試合に登板し46の交代完了(試合途中での登板から最後まで投げ切る)+20勝を挙げてV9を成し遂げた川上巨人において、貴重なピースとなりました。

ちなみに、かの有名な板東英二も中日にて同時期に似たような役回りで、50試合以上に登板しリーグ最多の交代完了+二桁勝利を挙げるなど、巨人以外の他球団にても同様の起用法が取られているケースも見受けられます。

宮田のような象徴的な存在が出てきたものの、まだ分業化が成立するには程遠く、力のある先発投手におんぶに抱っこ状態であり、運用という概念がないも同然でしたし、確かに「ストッパー」のような存在はありましたが、特に呼称はなく、概念化されていたとは言えないものでした。

2.発展・成熟期

上記のような状況から一つ転機となったのが、1974年のセーブの公式記録化です。これにより、リリーフ投手にもチームへの貢献度を測る指標が公式的に導入されたことで、より現代野球へと近い形に変容していくこととなります。

また、これに伴い、宮田のようなリリーフ専任の「ストッパー」の役割を果たす選手が各球団に生まれていきました。

それが、江夏豊であり山口高志や郭源治らに代表されるような存在になってきます。

彼らは早い時には6回や7回の試合中盤から登板し、そこから9回まで投げ抜くような形式の「ストッパー」という役割を務めました。これは、序文で上げたMLBで見られる「ストッパー」起用とも酷似しており、NPBにおいても既に昭和から行われていた戦術であることが確認できます。

数値の特徴としては、勝敗が付くケースが多く、現代の「クローザー」と比較して、セーブ数が少ないことでしょう。これは同点からの登板も多く、直接勝敗に携わるような場面での登板が多かった表れでしょう。

また、下手すれば1試合で3〜4イニングを投じるケースもあったため、先発をシーズン中片手で数えるほどしか経験することなく、規定投球回に到達し、防御率のタイトルを獲得するケースもしばしば見られました。(1982年大洋の斉藤明夫、1984年広島の小林誠二、1992年近鉄の赤堀元之や大洋の森田幸妃らがその代表格)

という意味では、先発とリリーフの間の役割のボーダーこそ出来始めたものの、現代ほどの細かな分業制までは確立しておらず、「ストッパー」という役割がセットアッパー兼クローザーのような役割を果たすものであったと評せましょう。そのため、投球回が増えて規定投球回まで達するような投手が出てきても、何ら不思議ではないでしょう。

今話題のお股本にて、先発とリリーフの垣根が低くなっているとの指摘がありましたが、過去の歴史的には、明確な垣根が生まれ始めた1970年代後半〜1990年代前半のこの時代にも、まだ垣根が低かったという意味では、ある意味似たような事象が起きていたわけです。

3.衰退期

昭和は上記のような「ストッパー」起用は各球団が行う常識的なものでしたが、平成に入るとともに、それが再び変容の時を迎えます。

その大きな契機となったのが、大魔神・佐々木主浩の登場です。

これまでの「ストッパー」と比べ佐々木の異質な点は、1イニング専任であった点です。

上記表は、セーブが公式記録として導入された後の歴代のタイトル獲得者の一覧です。

1登板あたりの投球回の欄をご覧になると一目瞭然かと思いますが、導入当初は2〜3イニングを平均的に消化していますが、徐々にその数値は低下していき、近年はおおよそ1イニングに落ち着いていることが分かります。

その変化点的な立ち位置にいるのが佐々木であり、大魔神と他球団から本格的に恐れられるようになった1995年以降は、佐々木に限らず1イニング専任に近い形になっていることがこの表でも確認できるでしょう。

このように1イニング専任の形になった背景としては、打者のレベルアップのためか先発投手が楽をして抑えられる打者の減少により、必然的に完投型の先発投手が減少し、打者を抑えるためより高出力の投球が求められた中で、担当イニングの細分化・分業化が進んだといったところでしょうか。

また、勝利の方程式の概念が生まれ、岡田阪神時代に誕生した「JFK」に代表されるように終盤のイニングを複数投手に負担を分散していく手法が流行り、かつ最優秀中継ぎ賞が公式に制定されたことも、リリーフ投手の価値を高めるとともに、分業化の加速に拍車をかけたと言っても良いでしょう。科学的なトレーニング法の発展などで、全体的な投手のレベルが底上げされたのも上記の根本的要因として考えられます。

以上の要素が複合的に絡み合うことで、「ストッパー」という存在は1990年代後半からその姿を消していき、1回専任の「クローザー」という形へと変容していきました。

4.まとめ

「ストッパー」に関しては、細かな分業制が生まれる過程での副産物的な形で誕生し、分業の細分化が進んだことにより、自然とその姿を消すことになったことが分かりました。

文中でも触れましたが、NPBでは規定投球回に乗るような投手も徐々に少なってきている中で(両リーグ規定投球回到達者は、2014年の28名→2018年の17名へと大幅減)、今後はより先発とリリーフのボーダーレス化が進むのは間違いないでしょう。

そんな中で、リリーフ投手が複数イニングを投球するケースは間違いなく増加するでしょうし、「ストッパー」起用という戦術は、相手の勢いを断ち切りチームに流れを引き寄せることの出来るという点で価値も高く、NPB内でも間違いなく検討されていくに違いありません。

ですので、まだまだ始まったばかりの2019年プロ野球も、リリーフ投手の起用法に着目して見ると案外面白いかもしれません。

#野球 #プロ野球 #ストッパー #抑え #投手

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