アジア料理店を求めてしまう話
昨年の10月、卒論調査(とは名ばかりのワーケーション)のためにオーストラリアはメルボルンに滞在していた。
メルボルンは芸術や文化の中心地で、シドニーと並んでオーストラリア第二の都市として知られている。世界一住みやすい街に選ばれたこともあってか、まさに人種のるつぼ。街を歩けばいろんな宗教、人種、国籍の人に遭遇することができる。
誰もマイノリティになることがない、そんな街だ。
食べるのが好きということもあって、私は旅行先のご飯には常に一食一魂で臨んでいる。その土地のローカルフードに触れることは旅行の一番の醍醐味と言っても過言でない。
なので今回のメルボルン滞在でもフィッシュ&チップス、ミートパイ、BBQ等々、伝統的なオージー料理に舌鼓する気でいたのだが、渡豪してから食べてきたものを振り返ってみると、全くそんなことはなく(大好きな黒パン以外)ずっとアジア料理ばかり食べている。
もともとアジアンフードは大好きで、日本にいるときも外食となればかなりの確率でアジア料理店を選んでいたが、メルボルンにきてからその傾向が顕著になっていた。
このことを友達に話したら「日本食は恋しくならないの?」と言われたが、不思議とそれはなく、ベトナム、インドネシア、タイなど東南アジアの食ばかりに惹かれるのである。
なんでかな〜と思ったときに、高校留学のときの思い出がふと蘇ってきた。
「アジア料理」との出会い
私がアジアンフードラバーになったのは高校時代の留学がきっかけだった。
私は高校2年のときにも交換留学でオーストラリアに来ていたのだが、そのときはダーウィンという豪州最北端の街に約一年間滞在していた。
ダーウィンは東南アジア系の移民がとても多くて、タイ、ベトナム、インドネシア、チャイニーズなど、マーケットやショッピングモールのフードコートには常にたくさんのアジア料理店が軒を連ねていた。
家でもホストマザーがインドネシア人ということもあって、パーティーなどがあれば必ずインドネシア料理が振る舞われていたっけ。
ホーム・アウェイ・ホームの食卓は、常にケチャップマニスやスイートチリ、オイスターソースやナンプラーなど俗に言う”エスニック”な味と香りで溢れていた。
異国での連帯
ダーウィンで食べるアジア料理は本当に美味しかった。
単に美味しいだけじゃなくて温かさと強さ…「安心感」みたいなものを感じた。
ダーウィンのアジア料理店で働く人たちは、その料理と同じ国の出身と思しき人たちだった。
異国の地にやってきて、ビジネスを築き上げて、必死で「美味しい」を提供する…。
彼らの逞しい生き様は料理にも表れていて、いわゆるオージーフードにはない、血の通った「美味さ」があった。
当時私がダーウィンで闘っていたのは、日本人/アジア人であることのフラストレーションだった。
ダーウィンはアジア系が多いのでそれほど酷くないとは思うが、アジア人に対する偏見や軽蔑の目はやはり捌けない塵のように存在していた。
数学が得意でしょ?
アニメが好きでしょ?
日本人って”kawaii”よね?
“cute”と言われることはあっても、ヨーロッパ系の留学生のように”cool”と言われることはない。
発言も真に受けてもらえない。
白人と対等に見られることは殆どなかったように思う。
だから留学で辛い時、彼らがつくったご飯を食べると、不思議と力が沸いた。
「アジアの中のアメリカ」、「バナナ(外見はアジアなのに中身はホワイト、ホワイトかぶれであること)」と揶揄される日本出身の私がこんなことを言ったら笑われるかもしれない。
でもアジアのご飯は確かに自分の国を思い出させた。
似てないけど似ている、似ているけど似ていない、同じ異国の地で頑張る彼らのつくるご飯は特別だった。
多様なアジア
先ほどから「アジア料理」「アジア人」と「アジア」と一括りに読んでしまっているけど、「アジア」は広くて多様だ。
日本や中国、韓国、台湾などの東アジアに加え、タイ、ベトナム、フィリピン、インドネシアなどの東南アジア、インド、バングラデシュ、スリランカなどの南アジア…。
西洋に括られた「アジア」には、異なる歴史や文化を持つ国がひしめき合っている。
隣り合った国でも取れる作物によって使う食材(米が小麦か、魚か肉か等)が違ったり、互いに影響しあいながらも、やはりそれぞれの文化を持つことにご飯を通して気がつく。
なんでジャパレスに惹かれないのか
私が出会ったダーウィンの日本料理店は殆どが現地展開されるチェーンの寿司店で、他のアジア料理店に比べて泥臭さがなく、イマイチ私は提供されるものに同じ美味しさを感じられなかった。
そこそこ美味しいのだが、基本的にハイエンド。現地に暮らす日本人というより、オージーたちに合わせたご飯で、どこか冷たい感じがした。
日本人がやっている日本食レストランに遭遇することも稀にあったが、マーケットで食べるタイ料理やインドネシア料理ほどの感動は正直得られなかった。
彼らを蔑むつもりはまったくなく、むしろ異国の地で事業を行っているというのは凄まじいことで、大変なリスペクトに値する。ただ、なんだろう。
現に"Japanese Food"は既に様々な国や地域で受容・消費されていて、日本食も波を立てずに相手の懐にスッと入りやすい気がするのだ。
それは素晴らしいことなんだけど、あまりにもその一部始終が綺麗すぎて、個人的には面白みがないと思ってしまう。
ホームアウェイで寄り添ってくれる料理
オーストラリアのジャパレスがオーストラリア人のため、のものが多かったのに対して、ダーウィンのアジア料理店(主に東南アジア系)は同郷の人たちのためのものだったように思う。
自分たちが故郷で食べてきたメニューをさほどローカライズさせることもなく、その美味しさを信じて曲げずに提供する。
料理の表記の仕方も「Fried〇〇」とか「Simmered〇〇」といった英語訳ではなく、その国で呼ばれている名前そのままなところが多い。
異国の地で自分も戦いながら、同郷人をあたたかく包む彼らのご飯は、出身は違う私のお腹と心も満たしてくれた。
ダーウィンで一番大きい(とか言っときながら普通に小さい)ショッピングセンターのフードコートにはよくお世話になっていて、辛いことがあると駆け込んでアジア料理をかっくらっていたっけ…。
ジャパレスよりも逞しく生きる東南アジアの料理店の方が、ずっと私の心に寄り添ってくれていた気がする。
ホームアウェイ(家から離れた場所)で安心感をくれたのは自分のホームの味ではなかった。
でもここで気がついたことがある。
ホームでない味に安心を感じるようになったとき、私は自分のコンフォートゾーンから脱していたのだと思う。
理解できない言語、初めて受ける日本人・アジア人に対する蔑視や差別、持つホストファミリーとの生活。
いつも側にいた何かあったら頼れる、守ってくれる大人はいなくて、悔しさや寂しさを感じながらもただ必死にもがいていた。
ダーウィンのアジアの味は、ホームを去って、ちょっと成長した自分にジャストフィットするものだった。
寄り添いつつも鼓舞してくれる。
甘辛いけど、爽やかで、キリッとしてるあの味は
今でも私にパワーをくれる。