記憶の家、現実の地【2025/1/2】
祖母の家に行った。毎年1月2日に、彼女と会うことが恒例行事となって久しい。物心ついた頃にはそうだったから、もう慣れたもので、この日に別の予定を入れることはない。家族全員、前もって予定を空けている。
家には正午くらいに着くでしょ。で、新年の挨拶を交わす。それから箱根駅伝の「往路」を見ながら昼食をとって、そのあとは大学ラグビーの試合を観たり、カードゲームで遊んだりする。最後にうどんを食べて、夕方5時から6時の間に散会。バイバイ。
毎年だいたいこんな流れになっている。いわば、年単位のルーティンだ。こういうお決まりの行事に参加をすると、僕には「楽しい」という感情よりも、「安心する」という気持ちが湧く。楽しさを超えて、イベントが「いつもある」ということ自体にホッとするのだろう。
祖母の家を出た僕ら家族は、かつて我が家があった方へと車を走らせた。そこの近所にあるお店に、用事があったためだ。用事を済ませた後、家が建っていた場所に車で向かってみた。
数年前から始まった道路建設に伴い、この辺りの住人は立ち退きを命じられた。近隣住民が一人、また一人と別の地へ移り住む中、僕らも今の自宅がある場所へと引っ越しをした。2023年の秋のことである。
それからもたまにこっちに来ていたが、その時は、まだあの頃と変わらぬ風景が広がっていた。が、今、久しぶりにこの地にやって来た僕の眼前に広がる景色はなんだ。かつての僕が模写したゴッホ「ひまわり」のように、本物っぽいけど本物じゃない。記憶の中の風景と、目の前の景色を照合しようとすると、脳内でエラーが生じる。
夜の暗がりだったのもあり、ちゃんと辺りを見れたわけではない。よし。今度また行ってみてみようかな。スマホの画像フォルダに入った「かつての景色」を開いたりなんかして、感傷にひたってみるのも悪くないかもしれないね。
以前この場所にあった我が家は、すでに取り壊されてしまった。初めて更地を見た時は、寂寥の念が募った。ここにあった思い出は、一体どこに消えてしまうのだろうと、うろたえた。でも、今日分かったんだ。ちゃんと僕の中にあることが。僕の中に、色鮮やかな状態で残っていることが。車は少しずつこの地から遠ざかり、新しい我が家へと向かっていった。