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最期の一杯は何色か?

最期の晩餐というものがある。
イエス・キリストが処刑される前夜に十二使ととった夕食と、そのとき起こった奇跡のことをいうようだ。
日本の神仏教徒として何となくお寺や神社にお世話になって生きてきた。
キリストの奇跡に関する知識はないが、クリスマスと同様に異文化を理解しないままなんとなく自分が体験すべき行事として「最期の晩餐」をとらえている。

とはいえ、現実問題として、自分の死期を悟ったとき、自分のためのごちそうを食べる元気があるだろうか。なんとなく自分が死ぬことを知らぬまま去っていくかもしれない。なんとなく食べたくない気分のまま息を引き取るかもしれない。
「最期」をどのくらいの期間ととらえるかにもよるかもしれない。
たとえば、とても長生きして、後はもうごちそうを食べて死ぬだけだと感じている時期は、もしかしたら、毎日最期かもしれない。

特別なことが何もなければ、最期は病室か自宅の布団の上で迎えると思う。
その時に、明日何を食べたいか?と考えながら暮らしているかわからない。
もっと違うことに興味を持っているかもしれない。
もしかしたら、noteに何を書こうと考えてばかりいるかもしれない。
明日は、何の本を読もうかと思っているかもしれない。
何かを考えている時に、実は常に食事しているとは限らない。
食べる時は、食べることに集中していることも多い。

しかし、何か考えているときに、ふと手を止めて何かを飲むことはできる。
おにぎりひとつを食べる気力はなくても、何かで口を湿らせてもらうことはできるだろう。

最期は笑って死にたいと思うものだ。
苦しい思いはしたくない。
香りのするお茶を飲んで、ふわりと笑んで死んでいきたい。

緑茶か?
コーヒーか?
カフェオレか?
紅茶か?
ミルクティーか?

私が選ぶ最期の一杯は「さくらラテ」だなと先日思った。
特別桜の花が好きというわけじゃない。
けれども、日本人の私には桜を認識する色と香りの記憶があるものだ。
目を閉じても香る桜。
散るときを思わせる穏やかな桜色。
そのしょっぱい味も知っていた。
いや、味は桜茶も梅茶も似たようなものかもしれない。

日本人はみな花は何より桜が好きと決まっていない。
しかし、桜の花を知らない人はほとんどいないだろう。
桜についての思い出が特別なくとも、「あ、桜だ」と思うだけで心は穏やかだ。

しみじみと和む桜。
生きるためにはエネルギーが必要だ。
真っ赤なエネルギーを持って赤ちゃんは生まれてくる。
そのエネルギーが負の方向に向くこともあった。
怒ってばかりで疲れてしまった。
欲ばっかりかいていた。
しかし、死ぬときにはもはやその情熱を手放したい。
この世と対決せず、さっとお湯に溶かされてインスタントに死んでいきたい。
この間出来損ないの俳句で見つけたこの発想。
自分で悪くないなと悦に入っている。
ミルクはいらない。インスタントのさくらラテが香れば、それでいい。
死ぬときは「さくらラテ」。
私の最後の飲み物。桜色。

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