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人生の大半を○○として過ごすなんて耐えられない ~星の王子さまを読み終わったあとの人たちへ~ ㉖

翌日も山の公園に行った。しばらくお姫さまについて川沿いを歩くと、石垣の崩れた場所に行きついた。その川の中に湧き水があった。
私は湧き水の縁の石垣をきれいにつみ直そうと試みた。小さなお姫さまは水の中をじっとのぞきこんでいる。
冷たい水の中に前足をちょっと入れてみて、その冷たさにびっくりして引っ込めることをくり返していた。
「水の中のあなたをよく知っている気がするけれど、誰だか覚えていないんだ」
お姫さまは昨日の賢者みたいな顔をして、川面を見ていた。川の中にはだれもいなかった。
「ちがうちがう。川のなかにいるのは、きみなんだ。川にきみが映っているんだよ」
私がにやにやしながら言うと、お姫さまはこっちも見ないで、相変わらず賢者みたいにしていた。
「わたしは、ここにいるよ。水の中にはいないよ。わたしがすっかり川の中に入っていたら、流れていってしまうもの。映像だって流れていってしまうもの。川は一体どこからあなたを運んできて、あなたはどうやってここにとどまっているんだろう」
お姫さまは陸地にいて、ほんの目と鼻の先に川面を見ている。お姫さまが川面に顔をつければ、そこに猫がいないことはわかっただろう。けれども、お姫さまは猫だから、川に入れないのだ。
「あなたのきばはするどいね。毒があるんじゃないかな?」
私は思わず吹き出しでしまった。猫の牙に毒なんてあるわけがない。

「じゃあ、もう行って。わたしはあなたにかみつかれたくないから。あなたが行かないなら、わたしが立ち去るよ」お姫さまが言った・・・そのままどこまででも駆けだしそうになったお姫さまを私は抱え上げた。「わたし、おりたいから!」そこで、私はお姫さまを腕からおろそうとして、跳びあがった!足元に人間すらひと飲みにできそうな巨大なへびがいたのだ。

巨大な青いヘビがお姫さまにむかって鎌首をもたげていたのだ。わたしは水鉄砲を取り出しで、必死で川の水を水鉄砲に入れて威嚇射撃をしようとしたが、川の水をばちゃばちゃやる音でへびはちょうど噴水が終わるときのように、すうっと後ろに下がった。そうして、草の上をはいずるかすかな音を立てながら、石の間にまぎれこんだ。

お姫さまは腕の中で固まって息を殺していた。

「どういうことなの、これは。へびとしゃべっていたでしょう」
「以前にテレビの砂嵐の中で会ったんだ。そのヘビとは違うヘビだったけど、わかってくれたよ」

お姫さまの足には地面をはいずる蔦が巻き付いていた。それをほどいてやると、お姫さまはふたたび川の水を飲んだ。もう川面に映る自分の姿は見えなくなったようだった。すると、もう私はヘビの事は聞けなくなってしまった。お姫さまは水を飲み終わると、細くなった瞳でわたしをじっと見つめ、両手を伸ばして私の首に抱き着いた。爪が肩に食い込んで痛い。お姫さまの胸の鼓動が伝わってきた。それは小動物のような鼓動で、毛がふわふわしていて身体がやわらかく、まるで今にも消えてしまいそうだ。

「わたしがここでずっと遊んでいたいと言ったら、きみはここにわたしを置いていくんだろうね」
「そんなことはいつも言う冗談じゃないの」

まさに私は、いつまでもここにいたがるお姫さまを叱りつけようとしていたのだった。お姫さまはもう日が暮れるというのに、今日も遊び足りないのだろう。

「もう家に帰りたいんだよ・・・」
私は猫に気持ちを見透かされて、情けない気持ちでつぶやいた。
「でも、きみがまだ遊びたいなら難しい・・・お腹もすいたけど・・・」
私はお姫さまをぎゅっと抱きしめた。
「あつくるしいよ。しょうがないから、きょうは、もう家に帰ろう・・・」
お姫さまは、それから悲しそうにつぶやいた。
「わたしにとっても家でいいんだよね?今から帰るところが家じゃなかったら、わたしはどこかに行かなくちゃいけなくなる・・・もっとずっと遠い」
私はお姫さまが何かとんでもないかんちがいをしているのではないかと恐れた。
「家だよ。私たちの家に帰るんだよ。だって私たちは家族だもの」
私を見上げるお姫さまのひたむきなまなざしは、はるかなところをさまよっているようでもある。
「わたしたちはいつ家族になったんだろう。あなたがわたしに首輪をつけてくれたから?龍の絵をくれたときから?それとももっとずっと最近・・・?」
そうして、そのキラキラした目はさびしそうに見えた。
「いつからだっていいじゃないの。わたしたちは出会ったときには友だちだってわかった。そして、いつの間にか家族にもなった。人間と猫だって友だちにも家族にもなれるということだよ」
私たちは長いこと抱き合っていた。お姫さまのぬくもりが、心に伝わってきた。
「わたしは一人でも平気だった。こわくなんてなかった」
「いいや、きっとこわかったでしょう」
「今度一人になったら、こわいかな。きっとまた一人でも平気になると思う」
またも、お姫さまが何か取返しのつかない感情にとらわれるのを私はおそれた。お姫さまがどこかに行ってしまって、もうその鳴き声が聞けなくなるなんて耐えられないのだ、と。お姫さまの存在は、私にとって砂漠のなかの泉だったのだ。
「きょうも、ごはんを食べたらなでてもらいたい・・・」
お姫さまは、ただこう言った。
「今夜でちょうど1年なんだよ。去年、このまま冬を迎えると思ったらいてもたってもいられなくて、きみを家のなかにいれたのよ」
「ねえ、みんな夢なんじゃないかな、へびも、砂漠も、戦争も、この星の数さえ・・・・・」
あたりはすっかり暗くなり、空には無数の星が瞬いていた。
「たいせつなことは、目で見えない・・・・・」
「そうだね・・・・・・」
「花のことと似ているね。この山里のどこかに咲いている一輪の花を愛したら、山を見上げ、空を見上げるのは、心のなごむことだよ。山という山のぜんぶに、花が咲いて紅葉しているように思える。本当は杉山ばかりで、花のほとんどが絶滅にひんしているとしても」
「そうだね・・・・・」
「水のこととも似てる。きみがわたしに飲ませてくれた水は、音楽みたいだった。滑車が歌って、綱がきしんで・・・・・・ほら、思い出すでしょ・・・・・心にもおいしい水だった」
「そうだね・・・・・・」
「夜が明けたら、外に出て花を探そう。わたしたちの新しい花だよ。庭はわたしたちの世界なんだ。花は地上の星かもしれない。花が星なら、夜は星を見上げて、昼は窓から花を眺めていれば、きっと人生が好きになるでしょ・・・・・。ぜんぶの花と星がわたしたちの庭にあるの。わたしたちが作った庭がおたがいの贈り物よ・・・・・・・」
お姫さまがあまりに夢のようなことを言うので、わたしは笑った。
「ああ!きみの笑い声を聞くのがわたしは大好きよ!」
「私は笑えない猫が大好きだよ!」
「人はみんな、それなりの庭を持っている。旅する人も、じぶんの世界があるんだ。星や花はその世界の案内役だよ。庭師にとっては真理だし、学者にとっては読書する場所、料理人にとっては美味しい材料の採れる場所、大事な薬草のしげる場所でもある・・・・・・」
「あなたにとってはどんな場所だろう?」
「わたしにはわたしの世界がわからない。だから、わたしにとって我が家の庭がどんなものか、まだわからないんだ。でも、花が星が笑っているときみが言うなら、きみの笑顔みたいにわたしにとって、大好きな場所だよ!」
お姫さまは、楽しそうに鳴いた。
「悲しいきもちでわたしは、わたしたちの庭に行きついた。でも、そこでわたしたちは出会った。きみはわたしと出会ってよかったって思っているでしょ。これからもわたしといれば笑いたくなるよ。だから時々、窓を開けて、こんなふうに気晴らしにつれ出してね・・・・・・・きみが夜空をながめて笑っているのを見たら、みんな驚くだろうね。そうしたら、こう言ってあげて。『そうなの。星空や花には、いつも笑わされちゃってさ!』って。みんな、きみの頭がおかしくなったって思うかな。わたしがいつもきみに、いたずらしているみたいになるね・・・・・・」
そして、お姫さまは、また鳴いた。
「そうしたら、星々や花のかわりに、小さな鈴の入ったボールを山ほどあげたみたいになるね。笑わせるボールだよ・・・・・・」
お姫さまは、また鳴いた。きょうは、よく鳴く。
「今日は、夜ごはんを食べそこなうかもしれないね」
「もう、そろそろ帰ろうと思っているよ」
「もう、お腹がすいてたまらないよ。わたし、死んじゃいそうになるよ・・・・。そんなだもの。車に戻っても、外を見ようとは思わないよ」
「そりゃ、キャリーの中でおとなしくてけっこうね」
お姫さまはいつも大げさなので、わたしは何も心配しなかった。
「夜に車に乗るのははじめてだ」
「わたしは絶対に安全運転するよ」
ふとお姫さまは安心したように、くたりと腕の中で身を預けた。
「そうだ。眠たいから、眠っていればあっという間に家につくんだっけ・・・・・」

あくる朝、お姫さまがでかけたことに、わたしは最初気づかなかった。お姫さまはひっそりと、音もたてずにいなくなった。
家の前の通りの真ん中でお姫さまを見つけたとき、わたしの足は震えた。
ようやく私が追いついても、お姫さまはちょっとふり返って、わたしのわきをすり抜けて、庭の真ん中でごろりと横になった。
顔をあげて私を見ても、ただこう言っただけだった。
「ああ、来たの・・・・・・」
「来たのって、何なの。きのうの感動を返してよ・・・・・・」
お姫さまは、いちおうわたしの言葉に耳を傾けてくれた。どこかにいなくなる気はないようだった。
「やっぱり、息抜きが必要だよ。あくせくしていても、つらいばかりだよ。心が死んだみたいになるから。でも、それはほんとじゃないの・・・・・・」
私はじっとお姫さまを見た。
「それらしいことを言っても、もう信じないから。家に帰ろうよ。ひっかかないで。外にいたいなら抱っこでもいいじゃない」
「自由じゃない生き物なんて抜けがらみたいなものよ。いつもいつも自由にしてってわけじゃない。たまには自由を許してほしいの。自由をこわがらないで・・・・・・」
私は黙っていた。お姫さまは、ただしかられたくなくて、いいわけしているのだと思った。
「ありがとうね。落ち葉がいっぱいきれいだよ。きっと春には花が咲くよ。話しかけるのは、気をつけよう。また、わがままな花ができて、お世話が大変になるから」
私は黙っていた。花のお世話をしたのは私で、わがままな花になったのは、お姫さまがあまやかしたからだ。
「でも、おしゃべりな花がまた咲いたら、とっても楽しそうね!庭には五億の花が咲き、空には五億の星が輝いて・・・・・・」
まだ庭にいたいから、お姫さまは話を長引かせているだけだとわかった。でも、私は、お姫さまの話が楽しかったから、もっと付き合うことにした。

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マガジンが増えて収拾がつかず、普段の日記と区別するために有料にすることにしました。 素人短編を書いていこうと思います。内容の保証はできませ…

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