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肉食文化と動物愛護 クジラは笑う
昨日、韓国の犬食いを禁止するか話し合いたいというニュースが出ていました。
ヤフコメでは、「文化なんだから、欧米から口を出されることじゃない」という意見が多かったようです。
私は以下のように書きました。
『私はクジラやゴリラを食べるのは反対だなあ。だから、まあ、よその国がどうでも、飼い犬と飼い猫は食べずに我慢して餓死を選べそう。
日本は猫の扱いは昔からぞんざいで(飼っていても)ネズミとるくらいしか脳がないからと、子猫を壺に入れて殺したり、皮を剥いで三味線にしたり、まあ、肉も食べたりと残虐なこともしてます。だから化け猫話が多い。
でも、文化だからって今は食べないし、三味線の皮にもしません。
シャチを食べるとかチンパンジーを食べるとか言わないでしょ?
集団生活できたり家族が作れたりコミュニケーション能力の高い動物は性格が優しくて捕獲しやすいと聞いたことがあります。食べるほどたくさんということですね。
海のギャングと言われるセミクジラやシャチではなくなぜ頭数の把握が難しい絶滅危惧種のナガスクジラを日本人は北極まで調査捕鯨に行って食べるのでしょうか。
本当にただ美味しいから?でもスーパーにいちいち、これはナガスとか書いてない。
美しく優しいナガスクジラ。』
犬と同じように日本では江戸時代には尻尾の短い三毛猫など好んで、可愛がって飼っていました。しかし、可愛がっていても犬ほどではなく鶏と同じようにある日牛ほども役に立たないと大した肉もないのに猫鍋にして食べて皮を剥いでしまう。その点、日本人は野蛮だと海外に思われることもあったようですが、それが辛い人もいたから、祟られるとか化け猫の話があるんじゃないかなと、勝手な想像ですが個人的には思います。
これはムツゴロウさんの本に書かれていたのですが、戦中か戦後、馬の解体を見て様々な気持ちに見舞われて泣きながら肉を持って帰ったというような話がありました。どうしても複雑な気持ちだったと。競争馬すら食べなければ生きられない、食糧難の時代だったんですね。
だからかどうか、ムツゴロウさんは肉食を否定しない人です。捕鯨とかゴリラとかについては知りません。
馬や猫は基本的には社会性の薄い動物だと記憶しています。馬は群れるので、そういう意味では猫より思いやりのある性格かもしれませんが、一般的に犬より利口とも言われていないようです。
私は、山間育ちで親も特に戦後貧しい時代にクジラ肉を食べて育ったのにどうしてクジラ肉をいつからか受け入れられなくなったのだろうと思います。
食べている人に嫌悪までは抱かないのに。
子どもの頃見た白鯨の映画や読んだ本に影響されているかもしれません。あの大きくてきれいなシロナガスクジラをどうして食べなければならないんだろうと感傷的になるだけかもしれません。
けれど、先に書いたように犬やクジラやゴリラは社会性が高く感情豊かです。
私は、昔ゴリラの密猟の現場のドキュメンタリーをテレビで見たことがあります。子どもの頃でした。大きなオスのゴリラが飛び出して群れを守ろうとするのです。
あるいは、保護活動をしている人たちに懐いてしまったリーダーのいるゴリラの群れをハンターが皆殺しにしたのだという話もありました。動物だから、死体でも映せたのでしょうか。死にゆく表情が、葬式で見た祖父母の顔に重なって見えました。
ダウンタウンの松本人志さんの深夜の番組でトナカイの解体やクジラの解体を見たこともあります。トナカイは受け入れられました。しかし、クジラは無理でした。これは、きっと私のエゴなんでしょう。
捕鯨が社会保障になっているような海外の村の話でした。クジラ一頭取ってくれば、それを村人に分けて夫を亡くして寡婦となった婦人は、もらった分を加工して物々交換をして生計を立てるというものだったのです。
けれども、そんな民族でも服は近代的なTシャツの人もいました。文明的発達の経過の中で、その進展が村の存続のために十分に行き届いているかまで取材してほしかったなと思いました。クジラ以外の産業が少ないから、クジラを取り続けるのか、ただクジラ漁が誇りだと思っている人ばかりなのかで話はだいぶ違っています。
クジラ漁は、江戸時代の日本画の場面を想像させるような、木船で行われました。村の選ばれた勇者のような青年たちが、船の舳先に立って、クジラの背に飛び乗り、クジラの背に銛を突き立て、海を蹴って、空に飛びあがり、船に戻ってきます。一瞬のことです。
それを何度か繰り返し、縄をかけられたクジラは血を流して辺りは文字通り血の海になりました。真っ赤な海です。
舟の行く先に合わせて、血の道も続いていきます。
どこか荘厳さすら感じるような迫力と静寂を併せ持ったような不思議な光景でした。
そこまでは、ただじっと見入っていられました。
しかし、海に上がったクジラの死体。忘れたいのに、忘れられません。
クジラは笑うのです。
母クジラのお腹の中には子どもがいました。
お母さんのお腹の中で、騒がしい外界の音を聞きながら遊んでいたのでしょうか。あるいは、「大丈夫よ」と必死にお腹の中に語り掛ける母の声に安心していたのでしょうか。
子クジラは、まるで無事にこの世に生まれてきたみたいに、寝息すらきこえそうな姿で微笑みを浮かべて死んでいました。
クジラは夫婦でも過ごすので、雌のクジラは雄のクジラや子どもが捕獲されたり浜辺に打ち上げられて死ぬと、浜辺まで追いかけ数日泣いて縋ることがあるという話も読んだことがあります。
日本で捕鯨をするなら、調査捕鯨というあいまいな言い方をせずに、北極まで行かないで、そこの民族みたいに日本近海で沖を血の海にして、砂浜で解体してそれでもクジラ漁が必要か苦悶の表情をあるいは穏やかなクジラの死に顔をみんなで見て議論するべきではないかと思います。可哀そうだから、猫みたいに保護してあげて殺すのはやめようとなるかどうか。
ましてや、絶滅するかもしれない種ではなく、一般的に公表されていないので、今はどうかわかりませんが、まずは頭数の多いザトウクジラなどから考えるべきではないでしょうか。
そもそも明治くらいまで四つ足を食べるのは野蛮だと思っていた人が多かった日本人は、クジラが哺乳類だということも、その知能の高さも意識しないで知らないでいられたから、良心の呵責に耐えられたということもあるかもしれないと想像します。イルカじゃなくてあくまで”クジラ”ですから。イルカは身近で可愛かったからかなと思う。もちろん、イルカ漁もあり今はクジラ肉としてイルカが売られていることも私も聞いたことはあります。
でも、クジラは絶滅危惧種だから、頭数の多いイルカをイルカとしてクジラ代わりに売ればいいとは言われませんよね。
それを全部”文化だから”で片付けられたら、他の人は議論から閉め出されてしまいます。
話を戻すと、クジラやゴリラや犬は、あるいは人間であっても、たとえ家畜のような扱いを受けてさえ、仲間とのコミュニティーを作り、生きる知恵を身に着け、信頼する人間に刃を向けられてなお、何か作業でもするのだろうかと興味津々で笑いながら死んでいくこともできる動物なのです。
その心情的な裏切りを文明の発展によって克服したいと思うのは、私の倫理観が高いからではなく、先にも述べたように、ただの感傷かもしれません。
猫や馬はよくて、いや、猫もダメだよという人もいるかもしれませんが、犬やゴリラやクジラはなんでダメか。
人間は肉を食べて生きる動物だから、どこかで線引きしなければいけないからだと思うのです。
いえ、それが、同族の人間以外ならよしという広い範囲でも線引きは線引きなのかもしれません。
しかし、あらゆるものを食うよりも、食べる範囲を減らす方が、それでも生きられる方が私の求める文明の発展の仕方ということです。
食べるモノを選んで生きられる、それが私の贅沢で豊かな生き方かなと思わないではないです。
エゴと言われれば、それまでです。私は美味しく馬を食べるし、クジラも他人からすすめられて出てきたら、波風立てずに食べることにしようと決めています。
でも、あえて食べなくて済むような世の中になった方が、私の心は平和で豊かに生きられるかなと思うだけです。動物のためにではなく、私のためにそうしてほしい、動物愛護にはそういう気持ちもこめられているというのは、私の勝手な見方でしょうか。
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