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本当に怖くない猫の話 part.15 後編
日がちょうど暮れて来て、白に紺が混じりゆく空に三日月の浮かぶ夜である。
キャンプなどというアウトドアのイベントは何でも屋にとって子どもの頃以来の経験だった。
ましてやテントいらずの豪華なグランピングに至っては、その便利さ、自然を人間に合わせた都合の良さに圧倒されるばかりで、さらに自分がもてなす側ということになると、なかなか楽しむ気持ちにはなれなかった。
事前に下見はしていたので、なんとか途中まで自分の役割が進行できてホッとした。野外施設には数人以上の手慣れた現地のスタッフがいて、特に何でも屋が準備に困ることはなかった。
客は皆楽しげで、遅れた参加者もむしろ歓迎して手を打ち鳴らし、誰かはシャンパンの新たな蓋を飛ばしたりした。
「ちょうどよかった。これからショート動画を流すところだったんで、進行をお願いしますね」
技官が到着するなり、所長がそんなことを言った。計画にあった、友人からのお祝い動画なのである。模擬披露宴のついでのこの婚活グランピングでは、唯一と言えるイベントだ。
外のコテージの中庭のキャンプ地で備え付けの野外シアター用のプロジェクターを使って披露する。普通のキャンプでは、流行の映画や星の話を流すらしい。お祝い動画を作ったのは本日もしかしたら間に合わないかもしれないと事前に連絡があった技官だ。
親族の参列しない議員秘書と猫作家の模擬結婚式。けれども、本番の結婚式を挙げたくないと渋っている二人ができるだけ本番の臨場感を味わうには、友人の一人でも参加してもらった方が良いだろうと相談所の職員と新郎新婦との双方が考えていたところ、花婿と一緒に結婚相談所に登録していた彼に白羽の矢が立ったのだった。新婦の方は、既婚者の友人が多いという理由で友人の参加は見送られた。
『私は今海外にいるんですよ。でも、お祝いムービーくらい作れるかな』
相談所から彼に電話で連絡した時には、そんな風に言っていたが、その2週間後には日本に帰ってきて、こうしてこの猫と人間の婚活パーティー&模擬結婚式に参加してくれたのだ。彼が間に合わなければ何でも屋が進行をさせられるところだった。
「そうですね。それじゃ、その前に飲み物いただけますか。咽喉が渇いてしまいまして。ホットワインで。いや、まずは紅茶で後で乾杯しようかな」
「それじゃ、猫さんをお預かりしましょうか」
飲み物は確かに何でもあるのだが、周りの飲み物を観察してすぐに注文できるところがスマートだ。
何でも屋はつい猫にさん付けして、彼の腕の中にいた猫を預かってしまった。それくらい、落ち着いた品のある猫だった。縞模様だがキジトラ猫というわけではなさそうで、ベンガルとかどこぞの純血種の猫のようだった。
お祝いムービーでは、世界各国の花婿が知らない人たちから「おめでとう!」を言われるというつかみのくだりで笑いが起こった。
花婿はずっと「誰だよ、この人たち!」と言って笑い転げていた。おそらく20か国くらいのおめでとうの言葉があっただろう。ご丁寧に、すべてに「おめでとう」という一行の字幕がついていた。
それで終わると見せかけて、本当に彼が海外の大学に進学した時にお世話になったという先生からの祝福の言葉もあった。
『まだ見ぬチャーミングな花嫁さん、世界が平和になってあなたたち夫婦に会えることを楽しみにしていますよ』
豊かな髭を蓄えた懐かしい先生にそんな風に言われて、花婿はずいぶんと感動したようだ。周りもじーんと来ていた。
さらにそれでも終わると見せかけて、イラストで2人の出会いを再現した動画が流れた。出会いの時の言葉、デートに誘った言葉、新婦からのプロポーズを実際にみんなの前で動画を止めて言ってもらった。初めての出会いの場は、今日の模擬結婚式に参列した複数人の参加者がその場に婚活パーティーのその場に居合わせたので知っていた。ハロウィンパーティーの朗読会で「写真を撮ってください」とファンだった議員秘書が緊張しながら言ったのを、その場でもその時さながらに噛み噛みで言ったので、一番の笑いが起こった。花婿の議員秘書だけでなく猫作家も恥ずかしそうであった。顔が赤かったのは酒のせいもあったかもしれない。依頼人がナレーションを入れていた。
BBQの炭も終わる頃には、デザートだ。
事前の議員秘書の提案で、星空の中、ホワイトチョコレートの滝で果物のフォンデュをした。
新郎新婦の計らいで、相談所の3人も食べていたが、何でも屋は肉を食べすぎてデザートのイチゴ一つも腹に入る余裕がなかった。
コテージの管理人が後片付けの大半を引き受けてくれなかったら、お腹の皮が突っ張って、かがんで焚火台を洗うこともままならなかったに違いない。
明日起きて朝食会を終えたら、家に帰って寝るだけなのが幸いだ。参加者も盛り上がったいたので、明日が日曜でゆっくりできてよかったと思っていることだろう。
いや、1人だけ、キャンプが終わって翌日には、海外に飛ぶという奇特な参列婚活者がいた。
議員秘書の親友の技官である。
彼は皆がそれぞれのコテージの部屋に入った後、あの上品な猫を抱えて何でも屋の部屋を訪ねてきた。
猫に餌をやってからでないと寝られないと思い、歯磨きをしていたのが痛恨だった。
すでに寝て明かりがついていなければ、彼は訪ねて来なかったに違いない。
「外でガサガサ音がするんですよ。野生動物だと思うんですが」
「・・・熊ですか?」
このあたりに熊の目撃情報など事前に聞いていなかったが、何でも屋はにわかに緊張した。
「いえ、熊はこの地方にはいないかと。もっと小さい動物ですかね?」
言いながら、技官は許可も得ずに玄関先に出てきたネコクロを抱きかかえて撫でながら部屋に上がり込んできた。上品な猫は飼い主を奪われても平然として、スタスタと飼い主の後を追いかけ部屋の隅に置かれたビーズクッションにすぐに丸くなった。
抗議する暇もないほど、自然な動作だった。
「鹿か狸ですかね」
「多分アライグマでしょう」
「日本にアライグマがいますか?」
ネコクロが技官の膝に行ってしまい、今夜はセミ猫は依頼人の部屋に泊まることになった。手持無沙汰な膝を見下ろして、何でも屋はちびりと飲みかけのグラスの酒に口をつけた。
「元はペットで飼われていたのが、捨てられてたまたま外敵もいないくて大繁殖するんですよ。今はどこの国でもあることです。生ごみを漁っていたりするかもしれないので、見に行きますか?」
「イノシシだったらどうするんですか?野生動物は危ないですよ」
「大丈夫ですよ。僕は野生動物に強いですから」
技官は促したが、何でも屋は全く乗り気ではなかった。
「行きませんよ」
「そうですか。ほらほら、あれはやっぱりアライグマですよ見てください」
技官が窓辺で手招きしてきた。窓から覗くくらいなら良いかと思い、技官が開け放った網戸から何でも屋も覗き込もうとしたが・・・。
ガシャン。
何かが強く網戸に当たる音がして、何でも屋は窓から少し身を引いた。しばし呆然として網戸を眺めると、網戸の一部がヒトの頭くらいの大きさに撓んでいた。
その網戸にそっと身を寄せて見ると、金色に光る二つの目玉があった。熊のように大柄ではなく、誰かの猫が逃げ出したのかと一瞬ひやりとした。しかし、部屋から漏れる明かりで闇夜に目が慣れてくると、それがもっと猫より大きく丸い体ととんがった顔を持つ生き物だと分かった。
狸ではない。去り際に二本足で立って、こちらに挨拶するみたいにこくんと会釈して行った。きっと技官の言う通りアライグマだろう。
「可愛いですよね。ここだけの話、私は外国でアライグマの足の切断手術をしたことがあるんですよ」
「へえ、そうなんですか」
人間の医者は獣医もできるのかと思って感心して聞いたが、「本当はいけないので、内緒の話ですよ」と彼に先にくぎを刺された。
何でも屋はむっつりと黙り込んで、元居たテーブルに戻ると、BBQで残った酒を片付けようとした。すると、これからまた飲むと勘違いしたのだろう。
「私にも注いでください。いや、すっかり眠れなくなりましたね」
いそいそと何でも屋の正面に腰を下ろして、二人で酒を飲むことを勝手に決めてしまった。
何でも屋がしぶしぶ酒を取ってくると、テレビのニュースを見ながら技官はしばらくあーだこーだと話していた。いろいろと自分が聞いてよい話ではない気がして何でも屋は憂鬱だった。
「動物のハプニングニュースはずっと国名を出してほしいですよね。外来種が繁殖しているんだから、日本のことだか海外のことだか途中から見る人にはわからない」
全然酒に酔わない技官がそんな平和な感想を述べたところで、何でも屋は初めて賛同で頷くことができた。しかし、すぐに人懐っこい技官は個人的な事情を話し始めた。
「私は猫を幸せにすることは出来ないんですよ。なぜ私は人間の医師を続けているのか、未だに迷うことがあります」
「はあ」
初対面の素性も知らない人間に人生相談でもしたいのだろうか。何でも屋はとりあえず、寝ることは諦めて聞き役に徹すればいいだろうと腹を据えた。
「私は総理の娘さんに会ってみようかなと思って、今日来たんですよ。これまで直接話す機会もありませんでしたし。彼女と知り合えば、しばらく見合い話から逃れられるかなと思いまして。こちらの結婚相談所の登録をあいつに持ちかけられたのは、まさに渡りに船でした」
”見合いから逃れるため”に結婚相談所に登録するなんて、普通の価値観からはずれている。しかも、依頼人を総理の娘だとさらりと説明したが、もしそれを自分が知らなかった場合、他人の素性を勝手に他人に明かすのは感心しない。しかし、技官には悪びれた様子もなく、何でも屋が彼女の素性を知っていることを端から疑っていない様子だった。まあ、実際、何でも屋は彼女の素性を知っていて、総理と話したこともあるのだから、間違ってはいない。
「私はそこの実家の麦わら猫のほかに、フランスと南アフリカとチベットとベラルーシと後どこだったかな?そうか、中東だ。とりあえず、5か国に5匹に猫を飼っています。普段は人に預けていますが、その辺の国に行けばその猫たちが私を出迎えてくれるので、不自由はしないわけです。私は、幸運な男なんですよ」
つまり、港々に猫たちを飼っているということだろう。多分猫だけでなく。彼のような男には結婚相談所など本来似合わないのだ。いや、だからこそ、見合いという形式がなければ、結婚しないだろうと周りが危惧しているのだろう。
別世界の事情を話されても、アドバイスどころか驚くばかりで共感すらできない。
こんな話をどうやって聞けば良いのかわからない何でも屋は、つまみをレンジで温めたりテレビの方になるべく視線を向けたりしながら、とにかく気が済むまで彼が話し終わるのをやり過ごそうとした。
「私の家は戦前のひいひい爺さんの代から政治家でして、私の弟は弁護士で姉は大学に勤めています。私の伯父は代議士ですが、父は医師でしたので、まあ子どもの頃は兄弟みな医者になって政治家にでもなるんだろうと思っていましたが、結果医者の道に入ったのは私一人だったわけです。そこで、私は選択を間違えました」
「はあ」
何でも屋が気の抜けた相槌を打ったが、相手の反応などおかまいなしに、技官は過去か酒かに陶酔するように話を続けた。
「けれども、私がこの道を選んだのは、やはり、父に対する贖罪の気持ちがあったからなんですよ」
そう言うと、これまのあっけらかんとした口調とはうって変わって、彼は父のことを話し始めた。
彼の父は、国立の大学病院に勤めたり、国境なき医師団のように紛争地域の医療にかかわった後、医系技官の道に入った。ほとんど家にいることがない父だったが、40歳を前にある日からずっと家にいるようになった。彼が小学校高学年の時だったらしい。最初は父があちこち旅行やアウトドアに連れていって豊富な知識を披露してくれたり、料理屋ピアノやバイオリンなどの習い事を手づから教えてくれるのを喜んでいた。しかし、彼は折しもその翌年に中学受験を控えていた。姉は熱心に彼を誘ってくれたが、その姉が日本の最難関の私立中学校に苦も無く合格したことも彼にプレッシャーをかけていた。幸い、姉の学校は女子校だったので、同じ学校には行かれず、合格してからは学業の成績で比べられることはない。とりあえず、塾の模試の成績では当時の姉をずっと超えていたいと彼は躍起だった。
そして、彼の中学受験の年に、父が入院した。病気だったから、あれだけ家にいて遊びに連れていってくれたのだと、彼は幾度も父たちの誘いを断ったことを後悔したが、そのことについて家族の誰も真実を話してくれなかったこともつらかった。弟や姉は、父の病気を知らない間も思う存分父と思い出を作っていた。その事実も、彼を何となく卑屈な思いにさせていた。
「俺、お父さんと同じ大学に行くからね」
父の病室で勉強を教えてもらう時、彼は父に必ずそう言った。父は、塾の先生の誰よりも算数が得意だった。けれども、その言葉で父がどれほど喜んでくれていたかはわからない。
「猫を頼むな。お前の猫だからな」
父は病室に行くたびに、昨年から飼いだした猫のことを彼に頼んだ。子猫の時に庭先に現れるようになった猫で、見つけた時にはずいぶん衰弱していた。うちでは動物は飼わないと母が厳命していたが、弟が泣きじゃくって頼み込み、何度も病院に連れていくうちにすっかり家猫になってしまったのだった。
弟が頼んで飼ってもらった猫で、食事の面倒を一番見ていたのは母だったが、猫は一番父に懐いた。その次に彼だ。
何せ二人は病気と勉強で一日中家にいた。猫は大抵夜には父のベッドで寝ていたが、父たちが出かけていた時には、彼がおやつをやったり時には猫と一緒に昼寝をしたりした。病室で初めて父に猫のことを頼まれた時、父はそのことを知っていたのだと思った。
しかし、父が入院すると四六時中自分について回る猫が煩わしくもあった。猫は真っ黒で痩せていて見た目に可愛らしいと思えたことはなかった。彼が勉強していると、邪魔して何度も学習参考書の上に乗ってきた。部屋から追い出しても、用事を済ませると、彼の部屋の前で鳴いて訴えかける。根負けした母が、彼の部屋の前に猫が寝られるように温かいクッションを入れた段ボールを置くほどであった。それでも、猫は彼がトイレに行くために扉を開けると、するりと部屋の中に入ってくるのだった。
ある日、彼は機嫌が悪かった。些細なことで母と喧嘩して、彼だけ父の見舞いに連れていってもらえなかったのだ。塾の模試の成績が落っこちて、ふてくされて母に八つ当たりしてしまった。彼は自分が悪いと分かっていたが、素直に謝れず、家で模試の復習をすると言い張った。成績が悪かったのは、その模試の1度きりのことだったが、彼にはこれがずっと続くと思われて怖かったのだ。慰めるようにすり寄ってくる猫すら煩わしくて、部屋の外に出してしまった。
そして、しばらく勉強に没頭していたが、部屋の前が奇妙に静かであることに気づいた。最近の猫は彼の部屋以外で熟睡することはなく、しばらく経てば必ず入れてくれと鳴きだすのだ。彼は心配になって、部屋を出たが、貞一の段ボールの中にはいなかった。大きな声で名前を呼び、猫の鳴きまねまでしたが、出てこなかった。もしやと思い、外に出ると、猫は大きな柿の木の上に登って遊んでいた。
彼の姿を見ると、遊んで満足したところだったのか、すぐに木から降りてきて彼の腕の中におさまった。12月の初めの冬の時期だった。猫はゴロゴロと咽喉を鳴らしたが、その体はとても冷たくなっていた。
鼻水も出ているようだ。部屋に入ると、猫は彼の部屋のベッドの上でやはり震えているようだった。暖房の温度を上げて、猫の鼻水をふいてやりながら、彼は不安になってきた。すぐに母に連絡すべきか迷った。でも、夕方には母達は帰ってくるのだからと、うっかり居間の窓を閉め忘れた自分の罪を話すのが後ろめたくて、連絡するのを躊躇してしまった。
そして、母たちは夕方に帰ってきたが、病院はもう閉まっているので行かれないと言われた。今のように深夜外来もしてくれる動物病院などめったにない時代だった。
翌朝になると、見るからに猫は風邪をひいて衰弱していた。動物病院に連れていったら、生き延びるかは半々だと言われた。それから、彼は付きっきりで猫の看病をした。受験は目前だったが、そこから勉強しなくてもなんなく中学には合格して、拍子抜けしてしまった。彼にとっては、もう猫のことで受験会場に行くことすら煩わしいほどだったのだ。
それから猫は目に見えて回復した。相変わらずやせぎすで足取りはおぼつかなかったが、ベッドを撤去してもらったおかげで、彼のしきっぱなしの布団で猫はいつもくつろいで相変わらず夜には彼のそばで寝ていた。父の容態も途中危なかったことがあったが、春にはだいぶよくなったようだった。
しかし、ある日、学校から家に帰ると猫がいなかった。彼は必死になって探した。そして、高校から帰ってきた姉に指摘されて布団の下を見てみると、冷たくなった猫がいた。あいにくと、母は出かけていたが、姉が一緒にいつもの動物病院に連れていってくれた。しかし、猫は死んでしまっていた。
母と弟が帰ってくる前に、彼は姉と猫の遺体を庭の柿の木の下に埋めた。
そして、姉に先に頼んでいたように母と弟にも「俺が猫を死なせたってお父さんには言わないで」と何度も言った。家族の誰も、彼のせいではないと言ってくれたが、彼にはそうは思えなかった。
父の病室に見舞いに行くたびに、彼は父に嘘をついた。
見舞いに行くたびに、父は猫は元気かと聞いた。
彼は、毎回生きていた頃の猫の写真を見せた。ちょうど、その頃、父が母以外に付き合っていた女性たちとのいざこざがあって、良心の呵責は少なくて済んだ。父は家族に嘘をついていた。自分も父に嘘をつくのは許されるのだと思っていた。
そして、猫の死から数か月も経たないうちに、父が亡くなった。
父も猫も白血病だった。
「私はじつは10人兄弟らしいのです。腹違いの兄弟には、父が亡くなったときに少し揉めた女性の子どもである弟にしか会ったことがありません。国籍の違う兄弟もいます。しかし、父が亡くなった時、きっと彼の面倒をみなければならないと思っていました。まだ、弟は小さな赤ちゃんだったんですよ。しかし、そうはならずに、みな自立しています。結婚していないのは、私だけで、母は私のことも平等に面倒をみなければならないという義務感に駆られているんですよ」
彼の父は、読書好きの姉に大切にしていた自分の本を残した。英書だったが、姉ならすぐに読めるようになるだろうと考えたらしい。実際に、その通りになった。弟には、弟がうらやましがっていた万年筆を残した。彼の弟は、未だにそれを使っている。彼には、猫を預けた。夫は妻に、彼なら好きなものは欲しいとはっきり主張するだろうと言っていたらしい。
しかし、父が死んだ時には、猫はいなかった。彼は確かに譲らない性格で、父の愛を独占するごとく家に一人残っては猫を可愛がって猫を自分に懐かせようとしたつもりがないではなかった。実際に、父の跡を継ぐように医者にもなった。しかし、彼は父が望んでいるようなじぶんだろうか、そうなるのが正しいのだろうかと、未だに自問自答するという。
「父は野心家だったと当時父とかかわった人たちが言うんですよ。上昇志向が強かったと。だから、私もそうだろうと思っているんですね。まあ、周りの期待することをやってあげるのは、やぶかさではありません。それが楽な道ですから。でも議員秘書にまでなっているあいつが議員になることを渋っているように、私も素直に議員を目指そうとは思えないのです。お手伝いくらいなら良いんですけどね。」
周りの者はみな、父は国を変えたいと議員を目指していたのだと口をそろえていう。実際、そうかもしれない。確かに、彼は父に似ているかもしれない。猫の負い目があるから、父の生前の願いを叶えることはやぶかさでないと思ってきた。
だが、彼の腹違いの兄弟には、すでに上に議員になった者がいる。父は女性に家と店を持たせて綺麗に別れていた。付き合った女性に苦労させなかったことだけが父の美徳だったと技官の母は口癖のように言うらしい。ちなみに、技官の母は彼が政治家になることをそれほど望んでいない。むしろ大変になって煩わしいくらいに思っているようだ。
「政治の世界に入るなら、きちんと奥さんをもらってからにしてね!」
母は彼の女性付き合いを知ってか知らずか、彼が実家に帰る度にそう言うらしい。
この国の政治に関係する家柄において、愛人を持つことはかつてはそれほど非難されることだと決まっていなかった。むしろ、愛人を持ってでも子どもの一人を持つことが美徳であるとされる文化も一部にはあるのだ。
けれども、彼の父は結婚する前から子供がいて、結婚してからも子供が3人生まれてからも他所に子どもを作った。無論、そのことに関して、評判はよくない。特に跡継ぎの長男がいるのに、次々と愛人を持つ夫に対して妻の愛情は向かわなくなってしまった。
子どもたちは、父の生前愛人も腹違いの兄弟の事も知らなかった。
しかし、
「あの人が病気になってからが、いちばん夫婦らしい時間だった」
という母の言葉は無理からぬことだった。多分、そのまま父が生きていて愛人のことを知ったなら嫌悪感も生まれていたのかもしれないが、若くして志半ばにして死んだ可哀そうな人という思いばかりが子供たちや周囲の人の間には先行してしまう。
母のつらさは、結婚しない彼にはわからない。父は早くに亡くなったが、母がしっかりしていたので、子供たちは金に苦労せずに育った。
子供の頃には、父の死後の愛人とのごたごたで父の愛猫を死なせた申し訳なさは他の感情で紛れたが、その後大人になってまた過去の過ちが彼の胸を締め付けるようになってしまった。
短い人生を悪い政治家一族の見本らしく生きた父だが、自分のやったことはあの世では綺麗に忘れて、息子の罪ばかり恨んでいるかもしれないと技官は考えてしまうらしい。
子猫は息子を父の代わりにすることに失敗し、彼もまた一途に愛情をかけることを学ぶ機会をそのときに失敗したのかもしれなかった。
冷たい人間と思われようと、何人もの女性との別れよりも、父との死別よりも、その子猫との別れがもっとも人生で涙を流し、心の傷となった出来事だったのだと彼は何でも屋に語った。
彼、医系技官である彼は、世界中を飛び回って医療に力を尽くそうと、人間以外の動物の医療にかかわる仕事につかなかったことがむしろ父に対する裏切りのように感じさえするらしい。
しかし、彼の目的は、政治家を輩出する家柄で嫡子らしくその役目をのらりくらり適当に真っ当することなのだから、動物のお医者さんは彼の人生の目的になりえなかったはずだ。
彼は、医者になってから、ふと思い出して、動物の医師になろうかと今更ながら切望したタイミングがあったのかもしれない。そう思ったきっかけがなんだったか、本人に自覚がないくらいであれば、今日あったばかりの何でも屋などその理由を知りようがない。
何でも屋は彼の述懐を聞きながら、明日の朝ごはんのや見送りの準備があるので早く寝てしまいたかったが、技官は酒を飲みながらしつこく何でも屋に話しかけた。そのうち、明かりを見た数人の男性が同じく寝付けなかったのか訪ねてきたが、何を言い訳に使ったのか、彼らをすぐに追い返してしまった。
もしかして技官は過去の思い出話ではなく、何でも屋に他に聞いてもらいたかったことがあったのかもしれない。それが言えずに、長々と子どもの頃の話をすることになったのかもしれない。
本心では何を話したかったのだろうか。ただ、過去を思い出し気持ちが高ぶって収まらなかっただけだろうか。
あるいは、何でも屋に何か期待する言葉があったのかもしれない。それを引き出したくて話し続けたのか。
しかし、何でも屋は彼にかける言葉を考えたくなかった。馴れないイベントに疲れ果てていたのだ。眠かった。眠らず付き合っただけ、よしとしてほしい。
技官は、昨夜あれだけ深酒をしたというのに、何でも屋が朝早くに起きるとその後をついてきた。明け方くらいに机の隣で横になったから、毛布だけかけてやったのだが、やはりよく眠れなかったのだろう。
ただ、技官が相変わらずとりとめのないことをしつこく話し続けるので、何でも屋は我慢の限界を迎えそうであった。一体あなたは、初対面の自分に身の上話をして、何を求めているのだと。
しかし、深夜技官のコテージに女性が一人訪ねて侵入したようだという話を何でも屋たちの後に起きてきた依頼人から聞いて、多少毒気を抜かれた。彼が一人コテージにいたら、夜這いにくる女性がいるのだ。異性に好かれやすい男性と言うのも大変である。
もしかしら、そういうことがあるかもしれないと言えずに、何でも屋の部屋にきたのかもしれない。何もなければ、他人には自意識過剰だと不快に思われることもあるのかもしれない。いくら親友でも花婿の部屋に押しかけるわけにはいかなかっただろう。
もちろん、何でも屋としてはそういう懸念は事前に話してもらった方が不審を持たずに済んだ。はっきり言ってもらわないと、こちらから気を回すのは嫌いな性質なのだ。性格的に察しもよくない。
朝食の席で、技官は甲斐甲斐しくスタッフのように何でも屋のそばで働いた。それを見て男性たちが、朝食を作るのは男の仕事かと片付けまで率先して手伝ってくれたのはよかった。女性たちの好感もますます上がったようだ。
しかし、その気の無い技官の婚活にはならなかっただろう。どのみち、彼には各国に彼の猫を預かってくれている女性たちがいるはずだ。真面目な婚活など、彼がその気にならなければ成立しないのだ。
一方で、抜け目がないというか社交性が高いというか、男性陣とは朝のうちに名刺交換をしたようだ。友人作りというのも彼にとって悪くはないのかもしれない。
何でも屋も彼から名刺をもらった。ご丁寧に手書きのプライベート用のメールアドレスまで書かれていた。
「いつでもメールくださいよ」
と言われた。彼に何か用事があることもないと思った。しかし、黙って受け取っておいた。何せ、お客様である。
ネコクロが一晩でずいぶんと技官に懐いた。彼は猫の撫で方が的を得ていた。さすが、出会った人の数以上に数多の猫に出会ってきたというだけある。
ただ、彼と別々に車に乗せられた時に、ネコクロが身も世もなく鳴き始めたのは業腹であった。たった一日だけ会った男がなんだというのだ。常に寝食ともにしてきた自分の立場はどうなるんだ。猫とはそんなに薄情なものなのか。
三毛のセミ猫の方は、朝食の後何でも屋と一緒にコテージにいる間もずっと彼を歯牙にもかけなかった。むしろ撫でさせても緊張する風で、技官も無理にセミ猫を抱っこすることはなかった。
常日頃から愛想のない目つきの悪い猫と思っていたが、こればかりは褒めてやりたくなった。実際にこれでもかというほど、撫でまわしてやった。
「個人のメールアドレス?そんなのに、巻き込まないでくださいよ。単に何でも屋さんと個人的に親しくなりたいか、何でも屋の仕事を頼みたいんじゃないですか」
個人用のメールについては、依頼人に相談を装って見せてみた。何でも屋には理解できない男だが、結婚相手として条件の悪い男ではない。
しかし、依頼人が技官に興味を持たなかったようなのに、何でも屋は我知らず機嫌をよくした。いや、彼は結婚市場では有力株であることは間違いないが、女性にとって危険な男であるかもしれないことも間違いない。結婚したら、浮気をするかもしれないし、それ以前に仕事仕事で家に帰らないかもしれない。長く家にいるなと思ったら、不治の病になってそれを隠すかもしれないのだ。
くれるのは金だけ。そんな夫婦関係はあまりに寂しいだろう。
その点、ネコは良い。番という概念が希薄で、家族になっても愛情以上を求めない。猫の性格によっては、寝床と食い物すらあればその愛情すら求めいないのだ。猫は血筋に関係なく、気高い生き物である。猫と暮らせば幸せであると言った、技官の言葉は真理かもしれない。そして、特定の猫と暮らせない彼はその幸せにしり込みしているのかもしれない。
これで、依頼人の婿候補調べは、残り一人となった。今のところめぼしい人物は皆無で、一人は結婚を決めてしまったが、とりあえず何でも屋の仕事は調査だけなのだから、残り一人がどうであろうと知ったことではない。
独身なら良い男で結婚すると不幸をもたらす男になってその男と不幸な結婚をするよりましという考え方もあると、今回の男で何でも屋は思い知らされた。
昼近くになって、一行はやっとキャンプ地を後にした。来るときと違って、花婿花嫁は技官の車で帰ることになったので、帰りの車は依頼人と猫たちと気の置けない空間で静かに過ごせた。
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