俳句10句以上よんでみた part.12 初めて自分の句を説明してみた
自分の句の意味を初めて説明してみます。伝わってなさそうなことや自明のことを改めて言うって恥ずかしいですね!あと、ここまで深読みはできないよなと思います。新しいテキストエディタを使ってみたのですが、なかなか慣れないです。時間がかかりました。引用機能を使って一つ一つの句を飾ってみたのですが、もちろん、自分で作ったいい加減なものなので、出典は自分です!
2021.11.21
→最初は牧場→野辺に変えた。ここではもっぱら野辺とは野原の意味であるが、野辺には野辺送り、火葬場に付き従うという意味がある。秋雨の乾いた静けさに亡くなった家族の魂が滑っていくイメージである。コロナ禍で火葬に付き添えず家族の遺灰だけを受け取った人の悲しさがいつか詠めるようになりたい願望がこもっている。カラカラと吹く秋風が寂しくて、いっそ雨でしっとりと濡れてこの呆然と乾いた気持ちを湿らせて少し泣けたら良いのにと考えるのではないかと突然の死を受け止める家族の心情を想像した。
→最初にイチョウが来ているが、紅葉の句である。紅葉というのは紅葉だけではない。秋景色にはいろいろな色があるわけで、そのとりどりの中に紅葉の赤が混じっているのも、群れて燃える紅葉と変わらぬくらい美しいものであるという情趣をよみたかった。
→うちの猫は、日が暮れる頃になると、風呂場に行き、その小窓から夕日が沈んでいく空を眺めている。365日変わらぬ空の景色を飽きずに見ているのである。秋晴れの日は、特に夕日が眩しくて見ていられないほどだ。けれども、だいぶ太陽が低い位置にきたその短い時間だけ、猫のそばで一緒にぼうっと暮れる景色を眺めるのである。秋の日の幸せな日常をよみたかった。
→コロナ禍に対する句である。書かれている以上の意味はない。コロナ禍で旅の予定もないのに飛行機を見に行った11月の鹿児島の空港のロビーで青一色に飾られたクリスマスツリーを見た。コロナ禍で旅は以前よりも危険が増したが、12月のクリスマスには誰も彼もが温かい家の中で束の間の幸せを感じられればよいと思う。
→同じくコロナ禍に対する句である。空港のロビーで、旅が少しでも安全なものとなるよう祈った。
→いつまでも変わらぬ東京駅の外壁の煉瓦の赤がノスタルジーを感じさせる。
→一回大当たりすればそれまでの損はチャラ。
→晩餐という些か大仰な食事の言葉に病人用の玉子粥を食べるわびしさを添えることによって、冬の孤独の寒々しさを表現したかった。
→11月漫才コンテストMー1のシーズンである。今はYouTubeの台頭によって、予選のネタを動画で見ることができる。中には世を風刺した漫才もあって他の出場者のネタとは一線を画するが、何か心にくるものがある。
→吹き荒ぶこがらしの寒さの中、見知らぬ人との邂逅の喜び
→冬のカサカサの乾燥肌。
→先日、生姜、蜂蜜、柚子、砂糖、蜂蜜、クミン、シナモンスティック、ナツメグを混ぜて煮て、ジンジャーティーの原液をはじめてつくった。はじめてにしてはなかなかの出来だったが、季節外れの蠅が家の中に2匹入り込んできて、飲みさしのジンジャーティーのカップの中に落ちて、それ以上飲めなくなった。手作りの達成感に水を差されたと悲しむべきか、虫が退治できたことを喜ぶべきか。
どちらの句がその時の心情に近いか迷い、両方のせることにした。
2021.11.27
→1人で鍋の味を考えるほど滑稽で孤独なことはないと言いたかった。説明的で詩情がない気がするが、ストレートに自分の感情を表す練習のつもりである。
→食事をしていることを汁、夕餉、鍋の3語で現すことはいささかしつこいかもはしれないと思った。しかし、それによって食事風景に似つかわしくない一人ということの孤独を引き立たそうとしたのだ。
→女性のセーターにはもこもこした可愛らしいイメージがある。しかし、そのセーターが似合うことは私にとって、美徳ではなく、一種の垢抜けなさであった。
女性のイメージをはっきりさせるには、最初に考えた我に→彼女と自分を他者化した。だが、あるいはそこにセーターの肌感を加えて、彼女→ふわり、もこもこなどの擬態語をいれるか迷ってもこもこにした。これでセーターの持つ可愛らしさと歳を経た自分の風貌とのアンバランスの滑稽さを対比しようという結論に至った。
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