見出し画像

我が家の庭の風景 part.114 「違う花」

 電線を突っ切るように飛行機雲が走っていた。昨夜の雨の雫は電線にはなく、鳥の声は遠く美しかった。春の鳥はそばに来ない。
冬の鳥が懐かしい。冬鳥はのんびりとして人懐っこい。

4月の飛行機雲


 草むしりをはじめた途端に額が汗ばむ。長袖の綿ジャンパーを脱ぐか迷いつつ、いつも脱がない。朝7時の空気はひんやりとして、日差しはシャンプーブラシのように棘を持っている。

 草むしりの手を止めると、飛行機雲が二本に増えていた。パイロットが遊んでいるようだ。訓練ならご苦労様だ。

 太さも色も違いのない飛行機雲から視線を落とすと手元の花が青かった。ネモフィラの周りにオオイヌノフグリが咲いていた。
 一瞥しただけでは、オオイヌノフグリに混じって、ネモフィラの花が咲いていることには気づかない。どちらも、蕊の周りが白くて花弁の先まで薄青のグラデーションになっている。葉っぱがまるで違うから気づいたのだ。ネモフィラの美しさは本当は葉っぱにあるのではないかと思う。レース編みの模様にしたいようだ。野の花は刺繍にした方が良い。

 ネモフィラの花とオオイヌノフグリの花の違いを手芸でどうやったら表現できるだろうか?花の刺繍を実物内でやるとは限らない。草花など到底実物大ほど小さく縫う事は難しい。

 色が違えばどうだろうか。一斉に咲き誇らなかったチューリップ。1つずつ数日おきに花開いて、一番最後の端は、他のチューリップが壁を落とした後で相当のねぼすけさんであった。

 別々の花壇に植えた赤いチューリップは同じタイミングで咲いた。赤いチューリップでも同じ赤色ではない。赤の深さが違っている。よりわかりやすいのが蕊の周りの色が違うことだ。片方は黄色で片方は黒だ。これなら刺繍で違いを表現できるだろうか?
 しかし、チューリップを絵に描く時など、真上から見ないのだ。典型的なチューリップの絵というのは大体横から見ている。違いのある赤色で、チューリップを並べて刺繍したらかわいいだろうか?なぜ、同じ色にしなかったのか、糸が足りなかったのかと思われるのではなかろうか。

 人間は違いを大切にしている。似た答えしか生まれなかったら、新たな発想が生まれず、社会が発展していかないと思われているからだ。植物やペットの品種改良が進むのも、やはりこれまでのものと違いを出したいからだろう。世の中は流行を追い求めている。せっかく新しいものを作るのだから、世の中に周知されて欲しいのだ。みんながそれを利用してそれを楽しんで、もっと便利で豊かな世の中になってほしい。

 流行は、社会の発展に必要不可欠だ。一〇〇〇年変わらず同じことをしていても、それは知性や違いにはならない。固定種は過去の努力の賜物であっても、昔の人と同じものを見て同じものを食べる。生活は目新しさにかけるのだ。

 しかしどうだろうか。以前からあるものも、似ているけれど、違っている。園芸植物のネモフィラと、野草の青い花が、同じ日当たりの良い場所を好んで咲くのも、それも発見ではないだろうか。世の中の役にたつかわからないものは発見と呼べないだろうか。

 人間は何かを生み出すとき、それは他の人と必ず違いがあると知っているものだろうか。ずっと同じものを作り続ける。ただの趣味でも、ずっと同じことをしていても発展はある。継続の中に知性もあるだろう。そんなふうに思うのは、私に知性や向上心が足りないからだろうか?

 ミントは繁殖力旺盛だ。日当たりの良い場所を野草と場所を取り合っている。ハーブはそのほとんどが新しい植物ではない。ハーブや薬草は古来より生き物に利用されてきたが、近年になって役割が見直されている。役に立ち続けるから愛されるのか。もっといいものがあれば、ハーブは誰からも愛されなくなるだろうか?今まであったものは新しいものと必ず違っているのに、違いが良さを発揮するのは新しいものだけだろうか。

 4月から幾度か激しい雨の日があった。視界が白い。歪むとでもいうのだろうか。漫画などでよく目にする瘴気の表現に似ている。

 瘴気は悪い空気だ。山川から発せられる毒気。熱病を引き起こすもの。体に悪いとなると空気中に漂うエアロゾルを想像するだろうか。私はそういった微粒子よりも、もっと陰鬱な雰囲気であるだろうと思う。

 常に新しいものを追い求め、違いを探そうとする。違いを探そうとしない人が浮いてしまう。以前からの物を愛する人や、自分の性質から離れられない人たちが置いてけぼりを食ってしまう。ずっと早く競争して進み続けること、歩みを止めないこと、話し合う暇もないほど次々と新しいことを決定していく。この今の世界の雰囲気が瘴気に満ち溢れているのではないか。魔物中でそうな空気。 1800年代からずっとそうかもしれない。けれども、今の世界にはドラゴンよりも恐ろしい魔物がいるかもしれない。もっと言えば、この瘴気はもっとたちが悪いかもしれない。

 人々は何かの好事家になることに執心している。日々の暮らしを安定させようとする。進歩的な違いではなく、依然として貧乏な暮らしでは、社会と交わってはいけないのだ。

 果たして、世間は、ゴミと野草とハーブに満ちた我が家の庭と、あの独特の臭いが川やビルの隙間から発せられている新宿の景色とどちらに瘴気を感じるだろうか?
 都会暮らしの人が田舎に憧れるのは都会の方が瘴気を感じるからではないか。妖怪は多分、田舎より都会にいる。そんな考えは正気ではないか。

 都会には賢い人が残るから、田舎者より賢い人が生まれ続けるという。本当にそうであれば、きっと都会の人が望む通りに、都会の生活は田舎よりずっと明るいだろう。チューリップの赤と黒の違いがわかる。ネモフィラと野草の区別がつく。それこそが、多分知性なんじゃないか。私には持ち得ないものだ。

 私にとっては、東京の空も福岡の空も暗かった。

芝桜。
赤白紫

 3月から我が家の庭には、芝桜が一部広がっている。同じ色で揃えた方が良いのだろうが、私と同様に私の家族もつい違う色をスリーポットで買ってしまったようだ。
 同じ色の花で揃えられない。平凡。「おんなじやつはいらないでしょ」って考えてしまう人間のやり口が嫌いだ。だから、私は人間嫌いなのだ。

 地球が今と同じように永遠に存在してくれたなら。そっちの方がいいと思いませんか。戦争なんかしない方が、地球がずっと存在してくれるかもしれないのに。 



※全文無料です。

ここから先は

0字

¥ 300

よろしければサポートお願いします。いただいたものはクリエーター活動の費用にさせていただきます。