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我が家の庭の風景 part.114「銅葉から考えるわたしの二面性」
シクラメンの魅力は葉っぱにある。表面の斑入りのグラデーションに、葉の裏側は赤銅色だ。紅葉など、日本人は赤い葉っぱの色に魅力を感じている。落ちている枯葉でさえ、コレクションにするほどだ。
私のガーデニングは一向に上達しない。
積み木遊びが趣味で、いつも完成しないまま、途中で崩してしまっているような気分だ。そして、何度もやり直している。何を作ろうと思っているのか、自分でも判然としない。例えば、お城を作ろうとしているとしても、どこの国の城なのか、ヨーロッパの城なのか、日本のお城なのかわかっていないのだから、自分で呆れるほどのいい加減さだ。
少しのことで集中力が切れて積み上げるのをやめてしまう。本来は、積み木であれば完成しないまま、いつか崩れてしまうか自分で崩してしまうわけだ。
しかし、ガーデニングの場合は、人間に勝手に植えられた植物が途中で放置されたとしても、自力で育つ場合もある。
自分で手塩にかけて、育てた植物でもなく、そのように育てようと思ったわけでもないのに、意図したような形ではない育ち方で達成感や満足感を得てしまう。その矛盾が面白くて、悲しい。私の園芸技術を上達させない要因でもある。
シクラメンはしおれた枝葉を切り落として、生き延びさせることに成功した。しかし、これは私の技術が上達したわけではない。たまたま切るタイミングが良かったのだ。その時の気候条件だとか、シクラメンの生育状況を分析して、科学的な見地や知識を持った上で手入れをしたわけではない。
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しおれた葉っぱをそのままにしておいてはいけないだろうという気がして切ってみたらたまたまうまくいった。
我が家には、私が手ずから植えて育てた赤い葉っぱの植物はない。
落葉広葉樹は、今は亡きご先祖様が植えたもの。シクラメンですら、昨年買ったのは母なのだ。植え替えたり、水やりをしたのは私であるが、意図的に葉のの裏側だけでも赤い植物があればいいと思ったわけではない。
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銅葉の木を植えなくても、探してみれば、1部分だけでも赤い植物というのは我が家にはある。例えば、南天や千両は季節によって赤い実をつける。
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葉っぱではないが、今の季節であれば4月からさつきやツツジなどもわが家で咲いていて、赤っぽい色の花もある。
ユキノシタもそうだ。誰が植えたわけでもないだろうが、我が家で増えている。育つのに邪魔な石やゴミを私が去年少しは片付けたのだ。それでも動かせないカーペットなどが庭にあって、ユキノシタの繁殖を妨げている。
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ユキノシタは、全体のどこもかしこも表面に毛が生えていて、ゴミが絡む。先日天ぷらにして食べたらおいしかった。しかしゴミ取りは面倒だった。
他の朽ちた植物の残骸に毛が絡んで離さない。いちど洗ってからまだ汚れているのに気づいて、キッチンペーパーなどでゴミを拭き取り洗って、また洗ってと繰り返し葉っぱの掃除をした。葉っぱにくっついた枝野根本の部分に泥が詰まっていたので、完璧に取ることを諦めて、茎は泥ごと折って捨ててしまった。
食べるために採取した数枚の葉っぱのゴミ取りですら面倒なのだ。庭の片付けは私の手に余るに決まっている。
家族にゴミの処分の事を言っても一向に聞き入れてもらえない。このどうしようもないゴミが残ったままの庭で、私は死ぬまで生きていく。けれども、広いスペースがあるから、一部分だけは自分の好きな植物を増やしてままならない気持ちを満たしている。
代償行動によるカタルシス。趣味の園芸で成功体験ができず、結局は、その不満足を新しい植物を育てることによって、慰めようとしているようだ。悲しい気持ちの時に、悲しい音楽を聴いて、心が慰められたりするように。
自分が住む家のことだから、目をそむけては生きていかれない。この我が家での庭の出来事を、社会に当てはめて考えてみると、私は世の中に不満ばかりあるようで、それが代償行動で慰めを得られずに爆発してしまうことが怖い。
社会には、自分の手では解決できない大きな問題というのがたくさんある。
例えば、選挙制度とか法律とか戦争とか。物事を動かすのは簡単ではない。私はその手段も実行力も持ち得ない。
新卒で就職活動に失敗すると、ボランティアに勤しむ人が多いというコメントをSNSで見た。私も新卒で4月入社できなかった。しかし、ボランティアしようなんて思いもつかなかった。ただひたすらに見込みのない面接を受け続けた。
ボランティア活動は、果たして就職できなかった自分を慰めるための代償行動であろうか。それが社会によって良いことなのであれば、周りにとやかく言われる筋合いはない。エントリーシートをひたすら書きまくればいいというものでは無い。
世の中には自分ではままならないことというのが大いにある。どうしても解決をしたいならば、そこにたどり着くために努力するとか、あるいは時間がかかることを覚悟しなければいけないものだろう。
「それは間違った世の中の制度なのだから、今すぐにどうにかしろ」と言ったってすぐにそれはなくならないのだ。
戦争には口でやめろというだけでなく、解決手段が必要だ。そもそも、戦争という手段が、世の中に不満足な人たちの代償行動である可能性もある。
ひとときの慰めで、心は満足するだろうか。私は不満を間違った方向に発散させはしないだろうか。絶対解決できない手段を用いても何の役にも立たない。
例えば、我が家の家事や庭の片付けだって、家族に不満をぶつけても仕方がないのだ。必要なのは、自分の心との折り合いだ。
※全文無料です。
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