【全話】東と西の薬草園 第一話修正「茴香(フェンネル)と梔子(クチナシ)」他まとめ
あらすじ
九州の片田舎の果実町にフルーツフレーバーティーという新たな事業を持ち込み、町を活性化させた飲料メーカー山鳥(やまどり)を経営する富居家。地元にUターンしてきた山脈遥は、富居家が果実町に買った別荘の管理人として働き始めた。そこで都会からIターンしてきた庭師・井中野人の孫のカエルと富居家の次女の香(かおり)と出会う。田舎の自由な生活に憧れるカエルと体の不調を抱え、田舎に癒されにきた香。野人は遥が管理人をしている別荘地の山に美しい庭を作っていた。管理人をしてぼうっと過ごしている遥を野人は庭作業(ガーデニング)に誘い、親しくなった。あまり気乗りしない遥だったが、カエルと香も美しい庭に魅せられてガーデニングに興味を持つようになる。
さらに来遥の高校の同級生で地元の霧山酒造の息子の霧山霞に誘われてレンタルガーデン事業を四人で一緒に始めることになった。
第1話
到着した駅の線路沿いには紫陽花が咲いていた。白から薄緑、そして青から紫へとだんだんと濃いグラデーションを作っている。駅のプラットホームにも壁際に紫陽花のプランターが列をなして、改札口まで案内してくれる。
「雨か・・・」
数日前に買ったばかりのスーツは、人生で一番値段が張るものだ。できれば、濡らしたくないと思って駅の軒下の壁際ギリギリに引っ込んだ。
入り口付近で、迎えに来た人には見つけやすい場所のはずだ。
「すみません。お待たせしました。山脈遥と言います。えーと、カエルさんですか」
万が一人違いでも困らないようにと慎重な口調と言葉遣いをしている。
スマホ画面に落としていた視線をあげると、雨で蒸す土臭さの中にふわっとフルーツの香りが混じった。
一瞬香水のように思えたが、目の前の人物はそれにしては化粧っけがなかった。
「井中です!えーと、迎えってじいちゃんは?」
初対面相手に祖父をじいちゃんなんて幼稚な言い方をしてしまって、頬が熱くなる
「よかった。ちょっと、道に迷っちゃって、お待たせしてすみません。えーと、井中さん、おじいさん?の方は、最近運転されないので私が代わりに来たんですよ」
「そんな!すみません、わざわざ」
「あらあ、山脈さんとこのはるかちゃんやろ!久しぶりねえ。おばさんのこと覚えてる?」
タクシーでも良かったのにと言い差したところで、背後から静かな雨音をかき消すほどの大きな声が聞こえた。
駅の軒下で傘を差して滴をぽたぽたと落としたまま、よそ行きの格好をした70歳過ぎくらいの背筋の伸びた女性だった。
二人の前に立ちふさがって、そのまま勝手に話し出した。
「こんにちは」
「こんにちは。遥ちゃん、こっちに帰ってきたの?知らなかったわあ。結婚?隣は旦那さん?」
「いえいえ、4月から富居さんところで働いていているんですよ。ほら、富居さんの山のところの庭があるでしょう?庭は井中さんがやってるんで、そのお孫さんを迎えに来たんですよ」
「どうも、井中です」
視線を向けられて、戸惑いつつも挨拶した。しかし、人好きの良い笑みをを浮かべていたおばさんは、すっと表情を消してしまった。
「ああ、井中のじいさんね。はるかちゃん、富居さんところは止めた方がよかよ。仕事は、こっちにこだわらなくても他にもあるでしょう。まあ、富居さんとこには、みんな頭が上がらんのだけど・・・。御免、駅の前でこんな話をしても、ダメたいね。じゃあ、また、お母さんによろしく言っといて」
急に鼻白んだ顔をしたおばさんは、勝手に話を打ち切り、足早に去っていった。祖父と知り合いで、以前に喧嘩でもしたのだろうか。何が何だから分からずぽかんとしていたら、「すみません。話かけられて、じゃあ行きましょうか」と声をかけられた。
言いながらパッと自分の傘を差して、もうひとつのビニル傘を差し出す仕草はどこか緊張感が漂っていて、人見知りな感じがした。 だから、車の中でそれほどお互いのことを話すことになるとはカエルは思いもしなかった。
「すみません。本当に運転を代わってもらっちゃって」
「いえいえ、いいんですよ。でも、俺がぶつけてこすっても怒らないでくださいね。その時は、お互いさまということで」
冗談交じりに言った言葉は半ば本音だった。親名義の借り物という車の運転に傷でもつけたらおおごとである。迎えに人を寄越すと言われて、まさか見知らぬ人が来るとは思いも寄らない。
今年80歳になる祖父が先月免許を返納した。そこで、誰が迎えに来てくれるか考えれば良かったが、誰か親戚が来てくれると思っていたのが甘かったようだ。
親戚の誰も手が空いていないなら、駅でタクシーを拾ってよかったのだ。祖父も、タクシー代を心配するくらいなら、初対面の人間に乗る居心地の悪さの方に配慮してほしかった。
「それにしても、この辺に住んでいてペーパードライバーに近いなんて珍しいですね」
九州の山に囲まれた盆地の片田舎である。車がないと、コンビニに行くのすらままならない。
促されるまま助手席に乗って、黙ってスマホを見ていたら、見通しの良い上り坂に入ったところで、ガタンと車が音を立てて傾いた時には何事かと思った。
聞けば細い道に差し掛かって後ろから車が来たので、運転に自信のない彼女は後続車を追い越させようと、ちょうど脇に広い駐車できるスペースを見つけて車を停めようとしたということだ。ところが、そこで車に勢いがつきすぎて縁石に乗り上げてしまった。一歩間違えば、木々が生い茂った崖に落っこちるところだった。
その運転の腕前で他人を迎えに来ることが恐ろしい。しかし、地元民の彼女がまさペーパードライバーと思わずに祖父が頼んでしまっただろうことなので、迎えに来てもらった方は文句は言えない。
「運転代わりましょうか」と申し出ると、一度の遠慮もなく、申し訳なさそうに頷いた。人付き合いも運転もいかにめもの慣れない雰囲気だった。
「4月になる前にこっちに帰ってきたばかりなんですよ。その前は東京の方で働いていて、車が必要なかったので」
「そうなんですか!奇遇ですね。俺も4月にこっちに就職してきた口なんですよ。埼玉で育ったんですけど、母の実家がこっちで、今はじいちゃんが一人で住んでいた家にやっかいになっているんで」
「そうなんですね。その割には運転が板についてますね」
「不動産会社の営業の仕事をしているんで、否応なしに運転する機会が多いんですよ。本当はSEとか事務で入ったんですけどね」
「なるほど」
ぼんやりとした返事が来て、助手席の人物が眠たげだとわかった。「寝てもいいですよ」と言いたいところだが、寝られると行き先までの道順が分からなくなる。
「えーと、カエルさん?で良かったですか?あの、カエルさんは関東生まれなら、なんでこっちに仕事を変わられたんですか?ご結婚とか?」
眠気を振るうような問いが返ってきた。糠のように細かい霧雨は、車の優しくフロントガラスを叩いて、水滴になって流れていった。ワイパーの音よりずっと雨音は会話する声を邪魔しない。
駅で彼女がつけている香水の香りかと思ったものは、車に乗せてあった箱入りの桃の香りだった。このあたりで人気の土産物であるフルーツフレーバーティーも段ボールで2箱も後部座席に乗せてある。
市町村の境を超えると、少しだけ開けた窓の隙間から、それまでと違った空気が社内に流れこんできた。
建物に遮られることなく、四方をぐるりと囲む山々が見える。青々とした杉山は普段にはあまり風情がないが、雨の日にはもうもうと煙霧を立ち上らせて姿がかすみ、さながら水墨画の世界である。
田植えの終わったばかりの水田が、灰色の雲を映し、柔らかい雨に打たれている白鷺が水鏡に姿と同じ大きさの影を落としていた。
雨だけではない外のフルーツの里でフルーツフレーバーティーの香りが朝霧にけぶる果実町。車の中の香りを胸いっぱいに吸い込むと、改めて良い町に引っ越してきたと彼は思えた。
ぐるりと里を守る山はまるで、この里を要塞にしているようで頼もしい。
「結婚はしていないですよ。よくある理由というか、都会の生活に疲れちゃって、田舎で暮らしてみたかったんです。こっちには子どもの頃からよく来てましたからね。名前らしい生活をしてみたかっていうか。カエルって言ったのじいちゃんでしょ?本名は井中かわずです。家族全員俺のこと、カエルって言うんです。生まれた時鳴き声が大きくてうるさかったから名前をカエルにしようっていう親のセンスを疑いますよね。親戚なんて、もしかしたら、本名がカエルって思ってるかもしれないくらい呼ばれ慣れてます」
名前に由来は、井中かわず、もとい、カエルにとって鉄板ネタだ。生まれてこの方何度も人に話してきて、最近は営業の時に最初の掴みのひとネタにもなっているので、語りは滑らかで饒舌だった。
反抗期だった中学生の頃は、名前が嫌で親に文句を言ったことがあったが、そのたびに父と母が責任を押し付けあって、両親の方が口論になるので、いつの間にか言わなくなった。父いわく、「反対したけど、(母が)聞かなかった」ということで、母いわく、「(夫も)ノリノリで、別に反対された記憶がない。止められてたら、わたしだってつけなかった」ということだ。
どっちにしろ、カエルを思いついた時点で二人とも他の名前は候補に考えなかったというのだから、同罪だ。
子どもの頃には、多少からかわれはしたものの、大人になると他人との話のきっかけになるというのも悪くはない。
目的地までの30分のドライブで会話が途切れることはなかった。
「じゃあ、ハルさんは富居家の別荘の管理人をしているんですね」
「管理人なんて言っていいのかどうか分からないんですけど、空いているロッジに住まわせてもらって、事務的なことがあったら、対応する留守番係ですかね。暇だから、井中さん?あ、おじいさんですね、、、と庭作業せるのが楽しみなんです。草むしりくらいなんですけど。あ、着きましたよ」
二人が目的地に着く頃になると、一日大雨の天気予報を覆して、雨は小休止した。
カエルは目の前に広がる世界に目を見張った。上り坂の狭い小路を抜けると、鉄格子の塀で囲まれた要塞のようなお屋敷が建っているのかと思っていた。
しかし、車のドアを開けた途端にまず、花の甘い香りが鼻をついた。霧雨を揺らす風に乗って、ハーブの爽やかな香りも届いた。個人の屋敷にも関わらず、ちょっとした観光所並みの駐車場には、庭に抜ける道に薔薇のアーチがあった。そこを抜けると石畳で作られた道沿いにやはり石造りの花壇があちこちに作られ、山の中に人の手が入った美しい庭が広がっていた。
「綺麗な庭ですね」
「来られたことないんですか。どのくらい広いか分かりませんけど、花の手入れとか井中さん、えーと、おじいさんが一人で手入れされているんですよ。すごいですよね。あんまり、立派な庭だから、後を継いでやる人がいなくって、未だに井中さんが頼まれているんだって聞きました」
遥の説明を、カエルは歩きながら夢見心地で聞いていた。野人は造園業の社長をしていた、建築士だ。会社は20年近く前にカエルの叔父にあたる父の弟に引き継いでいたが、頼まれて個人で庭仕事を請け負うことは多かった。
庭仕事の腕前は東京で商社の会社員をしている父の自慢でもあり、夏休みに田舎に帰って車でこのあたりを走るたびに、「あの土地の庭はじいちゃんが作ったんだよ」と父から耳にタコができるほど聞かされた。
それでも、当時は子どもだったせいか、これほどの感動を覚えたことはなかった。学生時代くらいから、こちらに移住してくるまで、祖父の庭はとんとご無沙汰だった。祖父と一緒に住んでいる家の前は、ほとんど畑になっていて、梅雨に入った今は、ナス科の野菜が多く実っている。
しかし目の前に広がっているのは花園で、まるで夢の庭である。
花壇の一画に緑に埋もれるように作業をしているツナギ姿の祖父を見つけた時には、まるで野人がおとぎ話の住人のように見えた。
「師匠!まだ作業されていたんですか?」
遥は野人のことを最近庭作業の師匠と呼んでいた。
「ああ、ハルちゃん。そうね、ちょうど雨が止みんさったからね。いまんうちに、もうこの辺は収穫しようと思って。種も出とるしね」
遥が遠くから声をかけると、野人は、作業する手を止めて二人の方を振り返り皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべた。
「おお、カエル、仕事は終わんしゃったとね」
「うん。昨日県外に仕事に出て泊まりだったから、今日は直帰よ。じいちゃんもほどほどにしないと」
5年ほど前に妻が亡くなって、野人は仕事はもう引退すると言っていた。しかし、腰が痛いと言いながら、富居家の庭に毎日のように通っている。これほどの美しい庭を作るのは、もはや祖父の生きがいなのだと、今日初めてこの庭に来て納得した。
祖父の隣に立つまでに、カエルは屋敷の庭を一周してみた。屋敷の表側の西側は薔薇園とハーブ園が広がる洋風庭園で、裏の東側には砂利が敷かれ、松の木や錦鯉が泳ぐ日本庭園があった。
建物の外観は、洋風だ。真っ白い外壁、玄関口の二階にはせり出したバルコニーがある。明治時代に学校建築を手がけた建築家の作と伝わる建物は趣があり、洋風と和風のどちらの庭園とも似合っていた。
「ばってん、来たんからには、この辺はしてしもうな、気がすまんけんね」
「じいちゃん、それなら、暇だから、俺も手伝わせて。じいちゃんが言ってた通り、一見の価値があるすごいお屋敷だね。これを抜けばいいの?」
「うん、全部抜いて別んとば植えようと思っとるけんね」
野人が答える前に、カエルは腕まくりした。そうなると、特に予定もない遥も手伝うと言わないわけにはいかない。
ここの管理人の仕事は、本当に暇なのだ。いてくれたら、特に用事を頼むとき以外は自由にして良いと言われている住み込みの仕事は、普段見張りの住人もおらず、何もすることがなかった。
何とか一日のルーティンを見つけようとこの2ヶ月半試行錯誤しているが、全然上手くいっていない。
「だんだんなあ。ハルちゃんには、悪かったなあ。朝も早うから起こしてからに。カエルの迎えを頼んでしもうて」
遥は自分も草むらにしゃがみこんだ。
雨が上がったばかりのむっとした湿度の高い空気が、身体にまとわりつく。すぐに背中に汗がにじんで、フェンネルを身体がひっくり返りそうになりながら素手で抜き取る時に飛び出した無数の濡れた土が、小さく顔に飛び散り、手をはたくとぬるりと土の感触がした。
尻もちをついた遥を見てカエルが声を上げて笑った。
笑い事ではない。慣れない庭作業で、虫に刺されないかばかりが気になる。
野人が取ってきてくれた軍手をつけながら、ため息を飲み込んだ。
生活は梅雨に入ってはいっそう怠惰になり、今日は野人が来る時間に起きられなかった。野人は作業する前に必ず遥のところに来る。外から何度も大きな声で呼んだのだろう。
声に起こされた遥は慌てて身支度を済ませ、野人に挨拶をして、あり合わせのもので朝食を摂った。
そして、もうすぐ駅に着くというカエルの迎えを頼まれた時には、普段習慣のない化粧をする暇もなく、慌てて迎えに行かなければならなかった。
カエルが駅に着く時間は前もって野人に伝えてあったので、今日になってギリギリの時間に頼んできたのはわざとだろう。
野人はまだ若い遥が山奥で一人籠って生活をしていることを心配している。
実家は山を降りてすぐなので、頻繁に顔を出しているが、訪ねてくる野人以外とはほ没交渉だ。
それを知って、わざわざ必要もないのに、庭仕事の前に野人は声をかけるのだ。庭師で信用があり、敷地のどこも自由に出入りできる野人が富居家の住人に会ったこともない新参者の遥に許可を取って、庭作業をする必要はなかった。
遥は地元住民だから、田舎生活なんて子どもの頃に十分に満喫している。都会に疲れて帰ってきたわけでもない。ただ、転職を繰り返し、どこの職場でも居場所がなく、前の職場でも向いていないと言われたところに、たまたま地元のこの管理人の求人を知って、流れで帰ってきた。
「じいちゃん。これはディル?葉っぱを食べていいなら、少しもらっても良いかな」
「良かよ。庭のもんは自由に使うて良かって言われとっけんね。午後にお嬢さんたちと料理人の人が来なっそうばってん。こぎゃん使わんやろ。これはフェンネルたい」
「へえ、ディルとよく似てるね」
カエルは抜いたフェンネルの葉の一房の香りを嗅いだ。カエルは自炊が好きで、ハーブも使うがフェンネルを見るのは初めてだ。放射状に広がった黄色い小花は控えめだが、香はハーブらしく強い。ディルと同じように魚や肉の臭み消しに使えそうだと思った。
「ディルとフェンネルはよう似とっけんね。でも、フェンネルの方があますところなく料理に使ゆっと」
野人が作業しながら、顔を向けてきたので、カエルはしまったと思った。植物に愛の深い野人は、話始めると長い。特に薬草は亡くなった妻が料理好きでそのためによく研究していたから、一人になってからは妻の思い出がまじって話は倍の長さになった。
長い思い出話にうんざりしつつ、フェンネルという植物について大体のことが分かり、隣で聞いていた遥も興味深かった。
フェンネルは多年草、ディルは1年草だ。
多年草というのは、数年にわたって枯れず、毎年花を咲かせる。1年草は、生育が早く、1年で開花、結実まで終わる。
1年草の方が育てやすく、ガーデニング初心者にはおすすめ。フェンネルの方が、ディルより草丈が高い。
フェンネルは葉も茎もシードも料理に使える。
「ここん人な、料理人を呼んで庭のものば使って料理してもらいなっとよ。育てがいのある。生活に根付いた庭づくりばよう分かっとんなっさあ。だけん、西も東もたくさんの生薬を植えとっと」
「いいなあ、うちも野菜ばっかりじゃなくて、庭に薔薇を植えようよ。アーチとか東屋とかおいて、イングリッシュガーデン風にさ。家の外観だって純和風じゃないんだから、きっと似合うよ」
「自分で育てるならよかばってん。薔薇は初心者には向かんよ。手のかかる。ばってん、ハルちゃんな、住んでるとこんのそばにゃ自由にして良かとよ。富居さんに聞いてみたばってん、良かっていいなさった。野菜でも花でも苗でも種でもうちから分けるし、もらゆっけん。経費たい、経費」
野人が快活に笑って、遥を見た。野人は以前から、何か作物を育てるように遥に勧めてくる。そのたびに、富居家の住人の許可がないからと言って断ってきたが、野人の方で確認を取ってくれたらしい。
「へえ、ハルさんこのお屋敷に住んでいるんですか」
事情をよく分かっていないカエルが明治からある重要文化財の母屋を振り返って言った。
「いえいえ、ここに複数建っているロッジの一棟を借りて住んでいるんですよ。お掃除は月に一度業者の人が入っているから、私は母屋の方にいくこと」
だから野人の言う通り、何にもしていない暇人なのだと口にしそうになっとのを、遥はすんでのところで踏みとどまった。
「いいなあ。ロッジに住んでガーデニングやるなんて良いじゃないですか。憧れるなあ」
「そうですね。でも、薔薇はトゲもあるし、手入れも大変だし」
遥はどうしても気が進まずに、先ほどの野人の言葉を借りた。今はとにかく、何もやりたくない。田舎育ちだからと言って、庭仕事に慣れているわけではない。子どもの頃から、活発に外で遊ぶ方ではなかった。
「大変なら、カエルば手伝いに寄越すよ」
「そりゃ、いいや。手伝いますよ」
カエルは乗り気になったが、「とんでもない」と遥は強い口調で断った。
カエルがあからさまにがっかりした様子なのも信じられなかった。
ガーデニングをすること自体億劫なのに、そのために、他人が訪ねてくるなんてとんでもない。
しかし、黙ってしまった野人を見ると、罪悪感を覚える。
フェンネルをあらかた取り終えると、むっとした熱気を払うような甘く上品な香りを思い出して、頑なだった遥の気持ちも少しほぐれた。
「じゃあ、向こうの方にあるあの白い花をいただいても良いですか。あるものを飾ってみて、何を植えたいか考えます」
遥は適当に近くにあった花を指差した。
「うーん、作るなら、イングリッシュガーデンみたいなのが良いんじゃないかな。最近流行ってるガーデニングっていったらそういうのじゃないかなあ。いざとなれば、プロのじいちゃんが手伝ってくれるわけだし」
遥の譲歩も知らず、あわよくば、野人の手ほどきでここで一緒にガーデニングをやりたいと思ってカエルが口を出す。
遥はそのカエルの言葉に引っ掛かりを覚えた。庭を作るのはそんな簡単ではない。実家の庭は雑草だらけで、この辺の田舎は庭を綺麗に飾っている人が多いからずっと肩身が狭かった。
この庭を一目見て、憧れてしまったカエルの気持ちは分かる。しかし、本当にガーデニングをするつもりなら、この庭をもう少し冷静に観察すべきだ。
自然と人工物の融合を是とする野人は、人の快適さにばかり重きを置かない。
カエルは気にならないようだが、この庭は蜂の羽音が相当うるさい。庭にいれば、鳥の声も集団で絶え間なく聞こえてくる。
それこそ、夜はこの梅雨の時期、毎日”カエル”が大合唱している。広々とした富居家の屋敷の中はともかく、借り物の小さなロッジの中では田舎育ちの遥でも外の虫の声で寝付かれない日があるほどだった。
理想と現実は違う。
庭木の手入れは重労働で、草むしりは夏は毎日必要だ。
庭作業は虫に刺される。
なにより、庭に花を綺麗に飾るにはセンスがいる。
適当に選んだ花を適当に植えれば、美しい理想の庭が勝手に出来上がるわけではない。
そんな遥の気持ちを知ってか知らずか、野人は淡々と作業を終えて、見慣れた鍵をはるかに渡した。
「フェンネルと野菜ば、台所に置いてきて。カエルが庭ばしたかなら、ここを手伝うのはよかよ。そいで、今日も野菜は、うちの畑から持ってきたたいな。ああ、そうだ、肉ば買い忘れてきた。お嬢さんたちが来なっとに」
「え、富居さんたちが来るんですか」
「そうね。あら、言うとらんかったかな。お嬢さんたちば迎えに行かんばいけんよ。頼むね」
野人があっけらかんと言って、遥は蒼褪めそうになった。
そういえば、さっき会話の途中でもそんことを言っていた気がするが、聞き流してしまっていた。「電話がかかってきた時、伝えてほしいって言われて、忘れとったよ」と野人は弁解したが、きっとわざとだ。前もって伝えたら遥が配達を頼むのを見越して、直前に言ったに違いない。そうやって、カエルの迎えに行かせたり、富居家の送迎を勝手に引き受けたりして、遥を何くれと外出さえようとする。
「それなら、じいちゃん迎えにはハルさんの車を借りて俺が行ってくるよ。ハルさんは家の中を整えたりして準備していた方が良いと思う!」
カエルが助け舟を出した。
空は雲行きが怪しく、また雨が降り出しそうである。そんな中、遥に細い山道を運転させるのは危険だ。
「ばってん、カエルな富居さんたちと会ったことがなかろうもん。顔も知らん人間が迎えに行っても不審がらるっやろうもんね」
初対面のカエルを迎えに行かせたくせに、どの口が言うかと二人とも思ったが、言う通りではある。富居家といえば、多角経営で日本を代表する事業家で、山鳥(やまどり)という日本の誰もが知っている飲料メーカーも手掛けている。その事業の一環として、この別荘が建つ、遥の生まれ故郷の果実町で果実町のフルーツを使ったフルーツフレーバーティーを開発し、近年大ヒットさせた、この町の大恩人だ。お金持ちで、他人への警戒心は強いかもしれない。
「それなら、じいちゃんも行けばいいじゃん」
「3人も乗すっと車は狭かよ」
「じゃあ、じいちゃんは駅で下ろすよ!富居さんたちに挨拶した後、おばさんにじいちゃんを迎えに来てもらおう」
「そうね。1時前くらいに着くとやったかな。そうそう、お嬢さんの方を旅館に迎えに行かんといけんとよ」
野人があっけらかんと伝えてきた時間に、二人とも血の気が引いた。もう11時を過ぎている。今すぐ、出た方が良い。
「それで、旅館の料理人の人もきなっけんね。お客さんが来て、夕食ばいっしょにとっとっかもしれんげな」
さらに、客人が来るなんて心構えができていない。富居家の人は親しみやすいとは聞いているが、さすがに泥を落として化粧して着替えなければならないだろう。
「カエルさん、送迎お願いしますね。私はちょっと着替えて建物の中を確認してきます」
「わかった。じいちゃん、ほら、帰るよ。ハルさんこれから忙しいから」
遥がここに勤めてから初めて忙しい日だ。二人を見送った遥は震えながら、富居家の母屋の重厚な扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。
「こんにちは。こちらの管理人として働かせていただいております。山脈といいいます」
玄関先で出迎えた遥に少しだけ笑顔を向けたのは、遥より少し若そうな20代後半くらいの女性だった。「ああ、もうやだやだ」とぐちぐちと言って、バッグの水滴を払いながら、部屋に入ってきた。
「ごめんなさい。濡れたので、タオルを持ってきてもらえますか。それに、”かえる”さんも入ってきてください。この雨で山道を帰るのは危なすぎますから」
土足のリビングのソファに身体を投げ出すようにして座った香は、入り口に突っ立っていた蛙に向かって言った。
遥も視線を向けると、二人分の傘を手に持ったカエルが傘立てがどこにあるか分からず所在投げに立っていた。
びしょ濡れである。シャツが貼りついて肌が透けるほどだった。遥は管理人で家政婦ではないので、この家のタオルの場所など分からない。とはいえ、疲れた様子の目の前のお嬢さんも遥がどういう立場の使用人か思いつかないようである。
とりあえず、どっかからタオルを見つけて持ってくるしかないと、遥は黙って足早にその場を離れた。
「すみません。飛行機が飛ばなくて、母が来られなくなったので、私も勝手がわからなくて。4月から、こっちの旅館で働き始めたばかりなんです」
富居家の次女・香は、タオルを受け取って、できるだけ濡れたところをふき取ると、ようやく冷静さを取り戻した。落ち着いて、遥のことを改めて聞いて、家政婦さんとして屋敷の中の細々としたことを預かっているわけではないと知って、自分の態度を反省したようだ。富居家のお嬢様の香が、居丈高な怖い人じゃなくて、遥もほっとした。
「私もそうなんです。慣れなくてすみません。タオルを探すのに時間がかかってしまって」
「いやあ、僕も4月からの移住組なんですよ。みんなそうなんて、奇遇ですね。よろしくお願いします」
大雨の音をかき消すように香の向かいに座るカエルが明るく声をかけたが、そのタイミングで稲光が走り、直後に雷の轟音が響いた。近くの木にでも落ちたかのような音だった。その後も何回も雷が鳴って、停電する前触れのように電気が点滅した。
「どうしようかな。お客さんが来るんですけど、旅館の方が忙しそうで、板場の人を借りて来られなかったんです。夕方までに雨が止むっていうんですけど、断った方がいいのかな。私てっきり、こっちに誰か分かっている人がいると思ってたんです。私一人で話すなんて聞いてないし、夕食もどうしていいのか、断れば良いのか分からないんですよね」
「えーと」
香に助けを求めるように見られても、遥としてもどうしてよいか分からない。遥はこの山一帯の富居家の別荘の管理人であって、富居家の事業のことなど何も分からない。秘書などの仕事を経験したこともない。富居家のお嬢さんの香を目の前にしているだけで緊張しているのだ。
別荘に香着替えがなく、同じくぬれねずみになったカエルと、二人には遥の服を貸した。香は遥より背が高いが、ほっそりしているので、遥には少し大きめのワンピースを貸したら、問題なく切られてほっとした。立ち居振る舞いが違うのか、香が切ると少し上品な服に見えた。カエルも細いので遥のジャージがなんとか着られた。丈は短いが、そういうデザインに見えるくらい黄色いジャージが似合っていた。
「えーと、とりあえず、お腹すきませんか。じいちゃんが用意してくれた野菜があるので、借りて良ければ、僕が台所でないか作りますよ。この雨で本当に来るかお母さんに電話して確認されたらどうですか」
黙り込む二人に助け舟を出してくれたのは、カエルだった。営業で培っているおかげか、明るく物慣れたしゃべりで雰囲気が和む。
「そうですね。そういえば、車に桃とお茶のパックがあるんですよ。お茶とお茶請けくらいなら、食べ物が何もなくてもどうにかなるかもしれませんね」
「じゃあ、それ、取ってきますよ」
カエルがちょっとだけ身震いして、すぐに立ち上がった。建付けのクーラーのスイッチの場所がわかったのは良かったが、冷房が効きすぎるようだ。吹き抜けの天井が高いので、加減が難しい。冷房を入れないなら入れないで蒸し暑い。
「でも、濡れますよ。私は着替えがあるから良いですけど」
「もうどのみち一緒ですよ」
カエルは自分の服装を見下ろしてちょっと苦笑すると、遥が何か言う前に外に出ていった。
「そうですね。母は私一人でも話くらい聞けるでしょうっていうんですけど、とりあえず、この雨だから、先方の霧山さんの都合を聞いてみます」
「ちょっと待ってください。霧山さんですか」
カエルの様子に勇気づけられて、木を取り直したようにスマホを取り出した香に遥はストップをかけた。
「はい。霧山さん、知ってますか。そっか、こちらでは有名な酒造メーカーですもんね」
「そうなんですけど、霧山さんなら、もしかして、高校の同級生かもしれません。弟も同級生だったような。調べたら、自宅の電話番号分かると思います」
「そうなんですかあ。それなら、話しやすいですよね
「いや、、、まあ、とりあえず電話番号を調べてみますね」
同級生だったが、一学年しかクラスが同じでなく、遥は霧山とそんなに親しくはなかった。弟の方が高校の時友達だった気がするが、それはあまり役には立たないだろう。
しかし、雨脚は弱まって、霧山は来ると言ってきた。
遥はカエルが車に取りに行っている間にお湯を沸かし、カエルが戻ってくると、3人分のお茶を淹れた。たかだかティーパックと侮るなかれ。果実町の特産品だ。遥はこの数ヶ月こればかり嗜んできた
今日は常になく美味しく淹れられ、一口含むと、湿気でべたついた身体に一服の清涼感がもたらされた。
味は、無難に巷で一番人気の梨の緑茶のフレーバーティーである。
三人が手に持ったカップから、立ち上る湯気がフルーツフレーバーティーの甘いお湯の香りで鼻腔をくすぐる。
カエルはお茶を飲むとどうしてもお腹が空いたと台所に行ってしまった。
「すみません、お茶の準備から食事までお願いしてしまって。霧山さんが来るなら資料に目を通しておきたくて。ここ数日、具合が悪くて、あまり目を通せていないんです」
「具合が悪いなら、横になっていなくていいんですか」
「大したことはないんです。ちょっとお腹が弱くて、ふらふらするときがあって。でも、いつものことですから」
香はそう言ってカバンからクリアファイルを取り出し、一つ一つ、紙に目を通し始めた。
せっかく切った桃に二人とも手を付けなかったので、遥は自分で一片だけ摘んだ。
しかし、すぐにファイルをめくる手を止めて、身体を深くソファに沈めた。
霧山は、地元ホテルだけで飲める新商品の酒の打ち合わせに来るらしい。それを山鳥が数年前に果実町の旅館を買い取って運営している「霧山乃里ホテル」で期間限定で売り出し、その後ネットで全国販売する計画ということだ。内容は固まっているのでと容器のラベルのデザインの最終的な相談をするということだ。
「話は固まっているから、私は頷くだけでいいんです。資料見るだけ無駄なんだけど」
香は体調が優れず、田舎の空気が良いだろうと思って、自らの希望で移り住んできた。
「贅沢ですよね。自然がいっぱいで、綺麗な場所で、旅館の従業員さんたちもみんな親切でいい人ばかりなんですよ」
「贅沢ですか?山しかない場所ですけどね」
生まれ育った遥にとっては、何もない場所でしかない。
「そこがいいんじゃないですか!私、山登りとかしてみたいんですよね。いつか一緒に行きませんか」
したくありません!とは答えられずに、「私、案内できるほど山に詳しくありませんよ」と曖昧に濁した。
身体の弱い人はかえって登山に憧れると聞くが、体力のない遥は登山など考えただけで怖気づいてしまう。
田舎で育った人間であれば、誰でも山や自然に慣れていると思うの間違いだ。
遥が乗り気じゃないと分かってか、会話が途切れた。
布団がちゃんとあるか気になり、遥が確認しに行くと香もついてきた。この山にはロッジがいくつも建てられ、シーツや布団カバーは新品が常備してある。それをいくつか空けて寝られるように寝室の準備すると、香はベッドの縁に腰かけてうなだれた。
「今日派お客さん多いのに準備だけして抜けてきたんですよ。まだなれないからストレスが溜まっているのかなあ」
「慣れない職場は疲れますよね。リラックスするのが一番じゃないですか。そうだ。アロマとか興味ありますか、私もあまり詳しくないんですけど、ガーデニアっていい香りがして落ち着くんです。取ってきますね」
「いいですね。何から何まで、すみません」
「いえいえ、私もここの従業員ですから、お互い様です。ちょっととってきますね」
雨は小降りになっていたので、カエルの買ってきていたビニール傘をちょっと拝借して遥は自分の借りているロッジから戻ってきた。
「ここのお庭も今クチナシがさいているんです。あまりに香りがいいから、つい見かけて買ったんですよ。ネットで調べたらクチナシから素人が香料をとるのは難しいって書いてあって。わざわざアロマポットからいろいろ揃えて買ったんです。クチナシって別名ガーデニアっていうらしいですね」
遥は会話の糸口が見つかって饒舌になった。幸いなことに遥が勝手に説明するのを香は興味深そうに聞いてくれた。アロマキャンドルは臼のように括れた形をしている。先にキャンドルに火を着けて、上から水と少量のアロマオイルを垂らした。
すぐにふわっと甘い良い香りが漂ってくる。お手頃値段の合成調合だが、初めて買ったこのアロマオイルを気に入って、遥は3日に一度は夜に火を灯していた。
キャンドルの小さなオレンジの火がなんとも温かい。
真っ白い陶器のアロマポットに三毛猫の柄が大きく一つだけ入っているのが気に入っていた。
「うわあ。本当にいい香りですね。ガーデニア。今度から使ってみようかな」
「おすすめですよ」
「ディフューザーばっかりだったので、ポットも良いですね」
「でしょう?私、こういう小物すきなんです。それじゃあ、私たちはご飯を軽く頂くことにして、降りて来られなかったら、1時間半後くらいに呼びにきますね」
「すみません。何から何まで」
「いえいえ、具合の悪いときはお互い様ですよ!」
香がアロマを気に入ってくれたことに気をよくし、遥は意気揚々としていた。
香の寝室を出た遥は台所のカエルの様子を覗いてみた。
手伝いを申し出ると、カエルは道具の場所が分からないと言って、ボウルや鍋などしばらく二人で探し回った。
「へえ、同級生が来るんだったら、話が早くてよかったじゃないか」
遥とカエルも同学年と知って気安さで、二人で台所に立つうちにすっかり口調が砕けた。
「そんなに親しくないからなあ。私と同級生のお兄さんの方なら年齢的に結婚してるのかな?結婚してたら弟くんが来るのかなあ」
雨の山道の運転は自信がないと伯母に断られたカエルもこの山に足止めになってしまった。暇なのでフェンネルのフルコースを作ると意気込むカエルの隣で、遥は憂鬱に言葉を吐き出した。
簡単な仕事の打ち合わせであれば、オンラインでも良かったと思う。あいにくと雨でネットのつながりが悪かったが、悪天候にわざわざ来るのは香と会っておきたいからではないのか。
学生に厨房を任せるイタリアンなんてどんな店だったのか。卒業後も店に残らないかと頼まれたというだけあって、カエルの包丁さばきは手馴れていた。
鍋でフェンネルを煮込んでいるだけの遥の方が、手つきに迷いがある。
邸宅のキッチンは、設備は豪華だった。だがパスタやキノコなど乾物や缶詰や調味料や小麦粉はあった。
ネットで調べたというレシピで作っている鍋の中の未完成のフェンネルのポタージュはとても美味しそうな匂いがした。
フェンネルとジャガイモと牛乳と生クリームと塩コショウ。シンプルだ。
しかし、見た目にはレストランのメニューにあっておかしくない。
「別に仕事相手が結婚していようがいなかろうが関係ないんじゃないの」
遥の横からそろそろ出来上がりの鍋を持ち上げて、カエルは上機嫌に聞いた。
料理をするのが息抜きの人間だから、状況がどうでも、料理を作っているだけで楽しいのだ。
三食台所に立つほど料理好きではない遥は、カエルに言われた指示しかできない。
香も料理を手伝おうかと言ったが、濡れた上に冷房にあたったのが悪かったのか、香の顔色が悪かったので、シャワーで温まってやはり一眠りするように遥が勧めた。
「霧山酒造は山鳥のフルーツフレーバーティーの事業に参画したがってるって聞いたことがあるんだよね」
「つまり?」
料理に集中していたカエルも興味をそそられたのか、話の先を促した。
「この果実町はね。10年前まで、何もない町だったの。霧山の酒造メーカーは焼酎で全国展開しているけど、焼酎がお酒の中で取り立てて大流行りしてるわけではないし。温泉しかなかった。それが、富居家が経営する飲料メーカーの山鳥さんが10年前にここでフルーツフレーバーティーを開発してヒットした数年前から急に開けた町になって戸惑っている人が多いっていうのかな」
1年の半分は霧で覆われる町だ。霧の中には何の魅力もなかった。けれども、今は、フルーツの里だ。フルーツフレーバーティーの香りが朝霧にけぶる果実町。
その大ヒットのおかげで交通の便の悪いこの町にもテレビの取材が頻繁に来るようになって、遠方からフルーツフレーバーティーの原料の果物の聖地巡りに自分たちで来るお客さんもいる。最初は自分で調べてくる人ばかりだったが、昨年から果樹園を回るコースまでできた。
果実町への恩恵は、フルーツフレーバーティーの売り上げとそのちょっとした観光ブームだけではない。
山鳥からお茶の売り上げの一部が給食費として寄付されており、私立の学校はないので、小学校中学校も、給食費は全部無料。
さらに子どもたちには、1日200円の飲料費が支給されている。
学校に自販機があり、500mlまで1本無料。
また、山鳥からはその飲料の売り上げの一部が寄付され、町の図書館には毎月希望の本10冊が届けられる。
町の人は投書で、好きな本を希望できた。
車椅子は100台貸し出し無料。
山鳥の工場の従業員の送迎するためのバスもあり、それは1時間に1本動く町のコミュニティバスになっている。街の中の30キロ圏内どこの停留所まででも100円で乗れる。
年寄りと子どもに親切な町になったのは、すべて山鳥の発想の賜物だ。
イイこと尽くしのようだが、その山鳥の手腕には町では反発が出ていた。
フルーツフレーバーティーは若者に特に人気で、そのおかげでかえるのような比較的若い人もぽつぽつと移住してくるようになった。
しかし、町の町議会議員は高齢者が多い。
田舎は、狭いコミュニティで完結している。よそ者に警戒心を抱いている。見知らぬ他人の観光客大変親切だが、移住者になるとなかなか警戒心を解かないという表に出にくい良くない一面もあった。
富居家のおかげで町は明るく色づいた。
山鳥では様々な飲料水を売り出している。ウイスキーが特に有名で、果実超ではここ10年様々は公共の場所にウイスキーの樽が大きな花の鉢植えとして飾られていた。
しかし、ここは元は焼酎の里でもある。最近では、山鳥に対抗してか焼酎樽はハーブの付け樽として霧山酒造で使用しているようだ。霧山のバジルソースは美味しいと最近よく聞くようになっている。
「そういう戦いなら平和でいいじゃん。霧山のバジルソースは美味しいからよく買うよ」
「それだけですめばいいんだけどね。」
遥は玉ねぎのように膨らんだフェンネルが目に沁みないことに感動して刻みながら、うーんとちょっとだけ口を歪めた。
フルーツフレーバーティーという発想は今まで日本のどこにもなかったわけではない。しかし、山鳥が素晴らしかったのは、無駄のないその生産システムだ。
山鳥はフルーツフレーバーティーのために果実町産の果物にこだわり、果樹農家を囲い込んだ。
傷んだ果物はお茶に、傷がないものはそのまま出荷できる果樹農家は、自立した事業主になり、農協に入らなくなった。
この富居家の山も元は文化財の屋敷だけのつもりだったところ、自然公園のキャンプ場があると知って何か事業が出来ないかと予定より広く買い取ったようだ。
富豪家のおかげで町に雇用が生まれ、住みやすくなった。
しかし、次々と組合員の抜けている農協は面白くない。
農協は郡部の山鳥から酒造組合に引き取らせてなんとかフルーツフレーバー事業を行いたいらしいという噂が街には誠しやかに流れている。
加工工場は果実町にあるとはいえ、すでにフルーツフレーバーティーの事業に参加する農家近隣の市町村にも増えている。
農家としてはフルーツフレーバーティーを地元だけでやってうまくいく保証もないから及び腰だ。しかし、酒造会社としては、事業を引き継ぎ、山鳥の関連会社化するのは、魅力がある。
あまり多くはないが、今果実町とその周辺には地元で事業を丸抱えしたいという一派ができつつあった。
農協と酒造組合の圧力に頭を痛めている町長は、何とか町の有力者の力を取り除き、焼酎vs紅茶の対決を終結させて引退したがっているという話だ。
それも山鳥に事業を続けてもらいたい周囲の議員さんが必死に引き止めているらしい。山鳥の事業提案にすぐさま乗っかった町長が町の人の反発を治めるべきだと思われているのである。
「もしかして、今朝会ったおばさんは、農協の人か何かで富居家をよく思っていないってこと」
駅で話しかけられたおばさんのことをカエルは思いだした。
「旦那さんがね。たぶん、もう定年してると思うけど。でも、私も町の人の思いとかよく知らん。お茶で街が潤ったならいいじゃんとしか思わないけどなあ。でも、そうとばかり思わない人がいるなら、なんらかの落としどころを探ってるのかも」
「それじゃあ、霧山の息子が香さんに会いにくるのは政略結婚ってこと?」
すくなくとも富居家の社長夫妻は、あわよくばと思っているのではないか。結婚まではいかなくても、次世代の若い者同士が仲良くすれば丸く収まるのではないかという淡い期待があるかもしれない。遥はそんなふうに想像した。
一部の町の人間は富居家に事業から手を引いてほしくないと思っている。富居家がうまくいかせた事業を町で引き取ってもそのまま上手くいくかわからないからだ。
香は個人的にここでの暮らしを気に入っているようだ。そこに周囲の余計な思惑が入るのは、なんだか香がかわいそうに遥には思えた。
「香さんが霧山家に入ったら、親せきになるもんな。関連会社化するのか」
農協に諦めてもらうか、農家に組合員に戻ってもらうか、穏便な方法で解決の橋渡し役になれるのは誰なのだろうか。
「まあ、決まった話ではないんだから、部外者は成り行きを見守ろうよ。それより、お腹もすいたし、香さんを呼んできたら?何も食べてないって言ってたよね。そろそろ先方さんが着く前に」
「そうだね。呼んでくる」
出来上がった料理は皿の上でおいしそうに湯気を立てている。人間に食べられるのを待ち望んでいた。
呼ばれて降りてきた香は、寝る前よりすっきりした顔をしていた。
「アロマのおかげですごくリラックスしてよく寝られました」
「いいですよ。そうだ、きょう摘んだクチナシも花瓶に飾ってみました。カエルくん、とっても料理上手なんですよ。プロ顔負け。お客さんに出してもばっちり」
なんだかんだ準備は出来た。遥が煽てるとカエルもまんざらではなさそうな顔をした。
「おいしそうないい匂いがしてますね。そうだ、申し訳ないんですけど、このアロマちょっとまた使ってもいいですか?体につけてみたくて。ちゃんと後日買ってお返ししますから」
「いいですよ。そんな高いブランドのやつとかじゃないですから」
「ありがとうございます」
香は嬉しそうに手の甲に落として、慣れた手つきで塗り込めた。
乾かした服に着替えて身だしなみを気にするのは、もしかして、お見合いとわかっているから?と一瞬気になったが、変な邪推はしまいと自分の中で打ち消した。
打合せにあまり慣れていないようだし、単に重要な仕事を一人で任されたことにプレッシャーを感じているだけかもしれない。
「うわあ、きれいな料理ですね。フェンネルの香りがいい」
テーブルに並べられた料理を見て香は感嘆の声を上げた。
フェンネルのポタージュ、タコと豆と朝どれ野菜のマリネ、野菜のテリーヌ、フェンネルと鶏肉のパスタ。桃のデザートだけまだ冷蔵庫で冷やしていた。
どれも美味しそうで、まだ桃一切れしかつまんでいない遥もお腹が鳴ってしまいそうだった。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「すみません。遅くなりました。霧山です」
玄関口で挨拶した霧山は、遥の記憶にたがわず、折り目正しかった。
「いえいえ、実はちょうどいいタイミングだったんですよ。霧山さん、覚えているかな。高校の同級生だった山脈です」
来たのは、遥の同級生の兄のほうだった。記憶になかったらとドキドキしたが、玄関で出迎えた遥を見て、霧山はすぐに思い出してくれた。
「ああ、ハルさんやん。覚えとるよ。こっちにおったんだね。懐かしかねえ」
「うん、富居さんところで働いてる。じゃあ、中へ、どうぞ、実は今日ちょっとみんなバタバタしていて、香さんから打合せがあるのは聞いとるけど、先に夕食をとってもらえたらなと思っとると」
遥が懐かしいクラスメイトの前でつい砕けた方言で促すと、霧山は人好きのする笑みを浮かべてテーブルの席についた。多少雨に濡れていたが、今回は傘立てもタオルもばっちり準備できていて、床に滴をしとらせるようなことはさせなかった。大切にしよう、富居家の屋敷の床は重要文化財の床である。
「うわあ。ちょうどよかった。じつは、僕も昼ご飯を食べそこなったんですよ。プロの人が作ったんですか?」
「いやいや、霧山君。それが、この料理は、最近こっちに移住してきた井中さんのお孫さんが作ったのよ。すごいでしょ」
「井中かわずです。みなさんにカエルと呼ばれてます。まだこっちのことよく知らないので、機会があればいろいろ教えてください」
「いやいや、同級生やろ。そんな固くならなくていいよ。それなら、遠慮なく食べようかな。打合せはそのあとで良いですか」
「いいですよ」
香が快く応じて、和やかな夕食会が始まった。
「でも、久しぶりに見ましたけど、夜でもわかるくらい建物もここの庭は綺麗ですよね。さすが井中さんだなあと感動しました」
「薔薇のアーチが良かったですよね」「クチナシの甘い香りがしませんでした?」
カエルと遥の声が重なり、ちょっと沈黙が落ちて、そしてみんなで笑った。
「カエルくんが薔薇推しで、ハルさんはクチナシかあ。ハルさん神社仏閣巡りとか好きそうだもんな」
地味なイメージだということだろう。実際その通りなので、遥も大人気なく反論はしなかった。
「イングリッシュガーデンと和風庭園なら、霧山くんはどっちが良いと思う」
「イングリッシュガーデンかな。日本のものは見慣れている」
霧山が間髪入れずに答えたので、遥はちょっと機嫌を損ねた。
見慣れているかっらこそ、比べて日本のものの良さがわかるのではないか。
「香さんはどちらが好きですか」
「え?」
ご飯をぱくぱく食べていた香はちょっとむせて、息を整えた。そして、しばし考える顔をして、「ここの庭ならやっぱり薔薇が目にはいっちゃうかな」と答えた。しかし、けど、と付け加えた。
「このフェンネルのポタージュも良い香りで本当に美味しいです」
「いやあ、僕もネットで調べて初めて作ったんですけど、会心の出来でした。おいしいですよね。フェンネルにハマりそうです」
「そうですか。じゃあ、ガーデニングとかされたらどうですか。ハーブは結構簡単に育てられるといいますよ。じつは、山鳥さんのレンタルガーデン事業にうちも参画しようとしているんです。俺も実験に始めるつもりなんで、井中さんもハルさんもどうですか」
「いやあ、私は植物はすぐ枯らすから自信がないなあ」
遥の腰が引けると、はい!とカエルが元気よく手をあげた。
「それなら、うちのじいちゃんが教えてくれると思います。じいちゃんがよそからキャンプ場の土地でガーデニングをする事業にはガーデニングを教える人材を育てなきゃならんよなあって言ってたんです」
ここまでやる気を見せられると、遥だけ拒絶はし難い。
「面白いですね。いきなり登山はきついけど、ガーデニングなら私もできそう。それに、この綺麗な庭を造っている井中さんに教えていただけるなんて最高の機会ですよね」
香もとても乗り気である。
かくして、霧山が来るまではあんなにバタバタして陰鬱した雰囲気が、花と美味しい料理で吹き飛び、話しが進んで大きくなり、山鳥の会社の保養地のキャンプロッジにレンタルガーデンを開設するプランの実験を霧山と香たち一緒にやる約束が取付られてしまった。
「よかった、これで、なにか果実町の人間になれた!って感じます」
「俺も」
都会から来た二人は意気揚々としている。しかし、遥は断れなくて憂鬱だ。
住む世界の違う人たちと明日から、草むしりか。ちょっと異様な光景ではなかろうか。
ガーデニングが全く楽しみでないわけではないが、面倒そうだ。
ご飯は食べたり作るのは楽しいけど、片付けが億劫なので作りたくないと同じ気分であ。
食事会が終わり、打合せも無事に済み、霧山を見送って、食器洗いを申し出た遥は、食器を洗いながら、真っ黒な窓の外に目をやった。この広大な山の草取りをするのかと思うとため息が出そうだった。