【エコーチェンバー】ネットの世界で滝に落ちる
もうすぐ国政選挙です。情報を遮断するのではなく、正しい情報を取り入れて、自分の意見をまとめたいと思い、参考になるサイトを探しました。なかなか見つからなかったのですが、Yahoo!のコメント欄でエコーチェンバーという言葉を知りました。そこで、ネットで検索をかけてみると、総務省の説明にぶつかりました。
インターネットは同じ思考主義を持っている人がつながりやすいと言われています。つまり、その思考の中で孤立してしまい、他の新たな考えを受け入れられなくなっていくのです。これはなるほど、今世界が陥りやすくなっているところだと思います。SNSの登場以降、特に私の記憶にあるのが「ジャスミン革命」です。あれは一体何だったのか、いまだによく解りません。
自分が決して幸せでない状況に置かれて多少過激な思考に陥った時に、自分と似たような考えを持っている人がいるということに人はとても安心するのでしょう。
ここで私が特に注目したのがエコーチェンバーという言葉です。
エコーチェンバー
要するに、滝壺に落ちるように、人々は急な流れの方向に流されていくのです。より過激な意見である方が耳に残りやすく、元は疑心暗鬼であったとしても、反対意見の方が卑劣だと何度も言い含めれば、そんな風に強い意見に流されてしまうということでしょう。
日本の政治系のウェブサイトでは、未だこんなことが行われているようです。YouTubeを見ると、それがかえって活発化しているようにも感じられます。トランプ大統領が誕生したアメリカでも、「強いアメリカ」という発言が集団の耳に残ったのかもしれません。ただ、一方で、この総務省のまとめだと、エコーチェンバーに陥らない人たちの傾向が分かりません。6割の集団が強い意見に流されるとしていて、流されない人たちはどういう傾向があるのでしょう。あるいは他人の意見に耳をかさない人かもしれませんよね。私はそういう人間です。情報に広く接して取捨選択する能力が高いから、過激な思想に陥らないとは限らないと思います。例えば、日本の多数派であれば、今は自民党支持者だと思います。その人たちに、私よりも立場があって、賢い人たちがいっぱいいるという事は否定するところではありません。同じ思想の派閥や、仲間で固まることも、弊害だけではなくて、いいところもあったのでしょう。ただ、その中でより大きな集団にしたいがためにどんどんエスカレートして意見が先鋭化してしまった部分も確かにあるのだと思います。
同じ思想の人たちで固まってしまう孤独。あるいは集団で行動することが嫌いであるために、過激な意見に流されないけれども、多数派になれない人間の孤独。人間は社会があって群れで暮らす動物だと言われますが、その社会性も、どんどん薄れてきているのかもしれません。
ちなみにフィルターバブルは以下のような考え方です。私はこれについては懐疑的なのですが、興味深くはあったので、こちらも総務省のサイトから拝借して添付しておきます。
フィルターバブル
例えば、世間には立憲民主党の支持者全くいなくて、自民党支持者しかいないんじゃないかと思うことがあります。実際には立憲民主党が議席をとっているので、そんな事はあるはずがないのですが、もしかしたら自民党以外を支持している人たちは、孤独感を持っている人たちもいるかもしれませんよね。
ただ、おすすめ機能が、そういう同士との出会いをなくしていると言われると、人と人はそんなに簡単に出会えるものではないと思わざるをえません。そこに同じ価値観を持っている人がいると思えばこそ、飢餓感からその人たちと出会いたいと思うのでしょう。仲間の存在を知らなければ出会いたいと思えないので、そこで孤独は感じ得ないような気がします。仲間がいることを知らないから自覚なく陥る孤独。おすすめ機能によって人間は調べなくなった。そういう人ばかりではないでしょう。そしてそうやって、広い世界にいる人と狭い世界にいる人と分けるというのは、私はあまりよくないことのような気がします。
かつては、海外留学が推奨され、世界旅行をすることが、さも見聞を広めるような風潮があったでしょう。そのこと自体は否定しませんが、地球上の全ての人々が旅人であることなどできないでしょう。いつも旅をしているように見える人だって、一時ぐらいは定住することもあるでしょう。
情報を共有するだけで体験が得られる。そして出会いが本当は生まれるはずなのに、なぜかかえって人を引き裂くと決めつけられるでしょうか。同じ作家が好きな人でも、同じような生き方はしないでしょう。共有する情報の中に今は物語の世界がほぼないのかもしれませんが、その物語を読むときに、その物語のような生き方をしたいと思う人と、自分とは違う生き方の人に感銘を受ける人それぞれです。同じ本が好きだからといって、必ずしも意気投合するでしょうか。
結局、このような科学的な分析も、情報の断片でしかありません。この情報に接したからといって、みんなが同じ価値観になれるなんてありえないのです。
ただ、今ちょうどこの世の中の意見が先鋭化しているという時にその原因が分析できるのであれば止める術はあるのかもしれません。言葉があまりにも攻撃的になっている世界で、人々の自由意志が損なわれないことを願います。
私も選挙って何かってあまり重く考えずに、私ができる人生の選択の1部だと、自分の知見や能力の限界を知った上で、そこそこの期待を持って選挙に行きたいと思います。