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【エコーチェンバー】ネットの世界で滝に落ちる

 もうすぐ国政選挙です。情報を遮断するのではなく、正しい情報を取り入れて、自分の意見をまとめたいと思い、参考になるサイトを探しました。なかなか見つからなかったのですが、Yahoo!のコメント欄でエコーチェンバーという言葉を知りました。そこで、ネットで検索をかけてみると、総務省の説明にぶつかりました。

 インターネットは同じ思考主義を持っている人がつながりやすいと言われています。つまり、その思考の中で孤立してしまい、他の新たな考えを受け入れられなくなっていくのです。これはなるほど、今世界が陥りやすくなっているところだと思います。SNSの登場以降、特に私の記憶にあるのが「ジャスミン革命」です。あれは一体何だったのか、いまだによく解りません。

 自分が決して幸せでない状況に置かれて多少過激な思考に陥った時に、自分と似たような考えを持っている人がいるということに人はとても安心するのでしょう。

米国の法学者サンスティーン(2001)はネット上の情報収集において、インターネットの持つ、同じ思考や主義を持つ者同士をつなげやすいという特徴から、「集団極性化」を引き起こしやすくなる「サイバーカスケード」という現象があると指摘した。
集団極性化とは、例えば集団で討議を行うと討議後に人々の意見が特定方向に先鋭化するような事象を指す。討議の場には自分と異なる意見の人がいるはずなので、討議することで自分とは反対の意見も取り入れられるだろうと思われるが、実際に実験を行ってみると逆に先鋭化する例が多くみられた。
「カスケード」とは、階段状に水が流れ落ちていく滝のことであり、人々がインターネット上のある一つの意見に流されていき、それが最終的には大きな流れとなることを「サイバーカスケード」と称している。
こうしたもともとある人間の傾向とネットメディアの特性の相互作用による現象と言われているものとして、「エコーチェンバー」と「フィルターバブル」が挙げられる

総務省HPより

 ここで私が特に注目したのがエコーチェンバーという言葉です。

エコーチェンバー

「エコーチェンバー」とは、ソーシャルメディアを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況を、閉じた小部屋で音が反響する物理現象にたとえたものである。
サンスティーン(2001)は、集団分極化はインターネット上で発生しており、インターネットには個人や集団が様々な選択をする際に、多くの人々を自作のエコーチェンバーに閉じ込めてしまうシステムが存在するとしたうえで、過激な意見に繰り返し触れる一方で、多数の人が同じ意見を支持していると聞かされれば、信じ込む人が出てくると指摘した。
また、サンスティーンは無作為に選んだ60の政治系ウェブサイトを対象に、各ウェブサイトのリンク先を調査した。その結果、反対意見へのリンクは2割に満たない一方で、同意見へのリンクは約6割と高くなっていた。さらに、反対意見へリンクがある場合でも、「相手の見方がいかに危険で、愚かで、卑劣であるかを明らかにするのが目的」としていた。そのうえでグループで議論をすれば、メンバーはもともとの方向の延長線上にある極端な立場へとシフトする可能性が大きいと指摘している。

同上の総務省HPより

 要するに、滝壺に落ちるように、人々は急な流れの方向に流されていくのです。より過激な意見である方が耳に残りやすく、元は疑心暗鬼であったとしても、反対意見の方が卑劣だと何度も言い含めれば、そんな風に強い意見に流されてしまうということでしょう。

 日本の政治系のウェブサイトでは、未だこんなことが行われているようです。YouTubeを見ると、それがかえって活発化しているようにも感じられます。トランプ大統領が誕生したアメリカでも、「強いアメリカ」という発言が集団の耳に残ったのかもしれません。ただ、一方で、この総務省のまとめだと、エコーチェンバーに陥らない人たちの傾向が分かりません。6割の集団が強い意見に流されるとしていて、流されない人たちはどういう傾向があるのでしょう。あるいは他人の意見に耳をかさない人かもしれませんよね。私はそういう人間です。情報に広く接して取捨選択する能力が高いから、過激な思想に陥らないとは限らないと思います。例えば、日本の多数派であれば、今は自民党支持者だと思います。その人たちに、私よりも立場があって、賢い人たちがいっぱいいるという事は否定するところではありません。同じ思想の派閥や、仲間で固まることも、弊害だけではなくて、いいところもあったのでしょう。ただ、その中でより大きな集団にしたいがためにどんどんエスカレートして意見が先鋭化してしまった部分も確かにあるのだと思います。

 同じ思想の人たちで固まってしまう孤独。あるいは集団で行動することが嫌いであるために、過激な意見に流されないけれども、多数派になれない人間の孤独。人間は社会があって群れで暮らす動物だと言われますが、その社会性も、どんどん薄れてきているのかもしれません。

 ちなみにフィルターバブルは以下のような考え方です。私はこれについては懐疑的なのですが、興味深くはあったので、こちらも総務省のサイトから拝借して添付しておきます。

フィルターバブル

 アルゴリズムがネット利用者個人の検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーにとっては望むと望まざるとにかかわらず見たい情報が優先的に表示され、利用者の観点に合わない情報からは隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立するという情報環境を指す。
米国のインターネット活動家であり、バイラルメディア"Upworthy"の最高経営責任者でもあるパリサー(2012)は、フィルターバブルの登場により、新たな3つの問題が生じてきたと指摘する。
第一に、ひとりずつ孤立するという問題である。例えば、テレビの専門チャンネルでごく狭い分野を取り扱うものを見る場合でも、自分と同じ価値観や考え方を持つ人が他にも見ているが、インターネットにおけるフィルターバブルの中には自分しかいない。これにより、「情報の共有が体験の共有を生む時代において、フィルターバブルは我々を引き裂く遠心力となる」としている。
第二に、フィルターバブルは目に見えないという問題である。テレビを見る際には自分が何を見るかを選択している限り、なぜその番組が選ばれたのか理解しているが、パーソナライズされた検索エンジンによって表示された結果は、なぜそれが選ばれたのかその根拠が明確に示されることはない。フィルターバブルの内側にいると、表示された情報がどれほど偏向しているのか、または情報が偏向のない客観的真実であるのかが分からないことになる。
最後に、フィルターバブルの内側にいることをユーザー自身が選んだわけではないという問題である。テレビや新聞、雑誌を視聴する際、どのようなフィルターを通して世界を見るのかをユーザーは自ら能動的に選んでいる。しかしパーソナライズされたフィルターの場合、自ら選択してフィルターを使用しているのではなく、避けようにも避けにくい状態になっていると指摘している。
広告主にとっては、ユーザーごとにパーソナライズするアルゴリズムを用いることは、顧客獲得コストを低下させる効果的な広告戦略であり、また利用者にとっても自分の好みの情報が少ないエネルギーで手に入るという利点がある。一方で、パーソナライズされたフィルターバブルにより、自分の関心とは異なる情報に触れにくくなり、他の意見が存在することに気づかなくさせる可能性をもたらすとされている。

総務省HPより

 例えば、世間には立憲民主党の支持者全くいなくて、自民党支持者しかいないんじゃないかと思うことがあります。実際には立憲民主党が議席をとっているので、そんな事はあるはずがないのですが、もしかしたら自民党以外を支持している人たちは、孤独感を持っている人たちもいるかもしれませんよね。
 ただ、おすすめ機能が、そういう同士との出会いをなくしていると言われると、人と人はそんなに簡単に出会えるものではないと思わざるをえません。そこに同じ価値観を持っている人がいると思えばこそ、飢餓感からその人たちと出会いたいと思うのでしょう。仲間の存在を知らなければ出会いたいと思えないので、そこで孤独は感じ得ないような気がします。仲間がいることを知らないから自覚なく陥る孤独。おすすめ機能によって人間は調べなくなった。そういう人ばかりではないでしょう。そしてそうやって、広い世界にいる人と狭い世界にいる人と分けるというのは、私はあまりよくないことのような気がします。

 かつては、海外留学が推奨され、世界旅行をすることが、さも見聞を広めるような風潮があったでしょう。そのこと自体は否定しませんが、地球上の全ての人々が旅人であることなどできないでしょう。いつも旅をしているように見える人だって、一時ぐらいは定住することもあるでしょう。

 情報を共有するだけで体験が得られる。そして出会いが本当は生まれるはずなのに、なぜかかえって人を引き裂くと決めつけられるでしょうか。同じ作家が好きな人でも、同じような生き方はしないでしょう。共有する情報の中に今は物語の世界がほぼないのかもしれませんが、その物語を読むときに、その物語のような生き方をしたいと思う人と、自分とは違う生き方の人に感銘を受ける人それぞれです。同じ本が好きだからといって、必ずしも意気投合するでしょうか。

 結局、このような科学的な分析も、情報の断片でしかありません。この情報に接したからといって、みんなが同じ価値観になれるなんてありえないのです。

 ただ、今ちょうどこの世の中の意見が先鋭化しているという時にその原因が分析できるのであれば止める術はあるのかもしれません。言葉があまりにも攻撃的になっている世界で、人々の自由意志が損なわれないことを願います。

 私も選挙って何かってあまり重く考えずに、私ができる人生の選択の1部だと、自分の知見や能力の限界を知った上で、そこそこの期待を持って選挙に行きたいと思います。

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