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人生の大半を○○として過ごすなんて耐えられない ~戦争編~

*これはフィクションです。実際の国際情勢をモデルに想像しています。そのような妄想をご不快に思われる方はご遠慮ください*

人生の大半を戦禍を耐えて過ごすなんて耐えられない。

とはいえ、アリサには現状することもできることも何もなかった。娘のイリーナの病状は刻々と悪くなっている。隣国の侵攻によって、イリーナの脳腫瘍の手術は延期になり、彼女の頭の中にいる癌細胞の増殖がどれほど進んでいるかを想像すると、アリサはそれだけで眠らないで夜を過ごすことができた。

忘れもしない2022年2月24日の早朝5時を過ぎた時間だった。アリサは日本にいる母親に娘の手術が決まった喜びを数時間以上説明している最中だった。ドーンと建物が揺れるような地響きがして、手に持っていたスマホを取り落とした。

『どうしたの?』

石床に落としたスマホの負傷具合を気にしながら、アリサはまた元のようにスマホを持ち母とまだ通話が繋がっていることを確認した。日本ではちょうど正午を過ぎた頃で、通話が途切れたことを心配する母の声には昼ご飯の巻き寿司を咀嚼する不快で暢気な音が混じっていた。

「分からないわ。何か外で物音がしたの。雷かしら。ちょっと外を見てくるわ」

進学先に日本の高校を選ばず、離婚した父の故郷である国を選んだくらいアリサは世間に敏感で、かつては海外ニュースを早朝見ることを欠かしたことはなかった。しかし、当時まだたった8歳だった娘のイリーナー今は2月13日に誕生日を迎えて9歳になったーが忌々しい脳の癌に侵されていることを知った1年前から、数々の不幸を垂れ流すニュースというものを意識的に見なくなった。

「ああ、どうしたのかしら!隣人のポリーナが家の中にいろって叫んでいるわ。そう、あの親切な奥さんよ。下水道管でも爆発したのかしら」

母に電話で説明しながら、玄関先で真向かいの家のポリーナに追い払うような仕草をされたアリサは、その時全く隣国の侵攻や近所が爆撃を受けた可能性を考えても見なかった。それくらい世情に疎くなっていたのだ。

何事もなかったかのように、食事を終えたらしい母と電話を切り、ここ数か月の”懸案事項”が解決されたことで、神経が緩んで久方振りに数時間以上の睡眠を経験した。そして、隣人のポリーナから最悪の知らせを受けて、訪れたはずの春が黒く塗りつぶされ、春眠の微睡は経験できなくなってしまった。

夫のアレクセイは1年前から世間に関心を示さなくなった妻の神経質な態度に気づいて、ネットニュースが溢れるこの時代に、柄にもなく新聞を取り始めた。しかし、その夫の気遣いもむなしく、彼が隣国の支社に転勤になったこの半年というもの朝刊はほとんど日本人のアリサの目にその見だしすら目に留まることがなくなって、飼っている猫のトイレ掃除に使われるだけになった。何か病気を持っているらしい飼い猫のスノウは、いつも快便で一日トイレを欠かすことはなく、アリサにその習慣を怠らせることがなかった。

アレクセイは猫に特別なトイレなど必要ないと度々アリサに忠告した。それが夫との唯一の喧嘩の種で見解の相違であり、そのたった一つのことくらい歩み寄っても良いだろうと夫が思っていることは重々アリサも分かっていた。しかし、実家では完全室内飼いで猫を飼っていたアリサにとって、極寒の北国で砂漠由来の猫を外と行き来させることはどうしてもできなかった。

『人間みたいに猫を大切にするアリサも素敵だけどね』

喧嘩になる前にいつも折れてくれるアレクセイとは、共通点が多くお互いに理解し合える仲だった。

アリサは、日本人とこの国のハーフとして生まれた。アレクセイは、この国と隣国のハーフだ。お互い両親が国際結婚をして離婚して、その後母親独り身を通して一人っ子であるということまで同じだった。父の方は再婚して家族がいるので、厳密には兄弟がいないわけでない。ただ、父の再婚は遅かったので、兄弟はまだ小学校にも上がっておらず会ったことはない。アレクセイは、隣国人の父が4回離婚と結婚を繰り返していて、アレクセイの母とは2度目の結婚であったので、何人かの兄弟とはアリサも含めて親交があった。

ただ、再婚相手の子も含めて10人以上の兄弟がいるので、アレクセイ自身、付き合っている兄弟が自分と血のつながりのある人なのか確証は持っていなかった。

アリサ自身は彼と結婚して10年の間に何度も日本に帰っているが、夫のアレクセイは仕事の都合で、まだ結婚の挨拶に行った1回だけしか日本に行ったことがなかった。しかし、その1回で彼はすっかり日本のとりこになったようだった。新婚旅行を兼ねていたので良い料理を食べて良い景観を見て良い経験ばかりしたのだから無理もない。

『日本なんて住んでみればそんなに良いものじゃないわよ。街の景観はどこもにたり寄ったりだし、国民性は陰険で差別的よ』

アリサはそう言い切った。日本でそんなに悪い育ちをしたとは思っていなかった。けれども、結婚してこの国に家を建てて暮らすことを夢見ていたので、夫に日本に過剰な期待を抱いてほしくなかったのだ。

『近代的で割り切りが良いんだろう。少なくとも君と君のお母さんは朗らかで陰険で差別的なところなんて何もないよ』

アリサの意図を察していないのかかどうか、冗談とも本気ともつかず日本に住みたいと彼はたびたび口にした。それが、却ってアリサを頑なにして彼を小旅行にも連れていくことが躊躇われた。

念願叶って、この国に家を建てた時には、娘は3歳の可愛い盛りで人生のすべてが完璧に整っているように思われた。だが、人生とは思い通りにしようとすればするほど、思いがけない出来事が訪れるものだろうか。

4回目の離婚をした義父のミハイルが妊娠中のアリサたちの仮住まいに来た頃からその兆候があったように思う。義父は生活費を入れるという名目でアリサたちのところにいつまでも居座りー実際、不動産業を生業とする義父のおかげで家を建てられたー孫のイリーナをはじめて発する言葉がミハイルとするまでに手なづけた。ミハイルはイリーナがミハイルおじちゃんという言葉を言えたのが、彼女が生後9か月頃だと思っているが実際にはそれより一か月以上早かった。嫉妬した両親がパパママという言葉が言えるようになるためその事実を隠すべく努力したため、義父はその事実を永遠に知らないままだろう。

イリーナの言語発達が早かったのは、祖父のミハイルのおかげだ。疫病の流行でアリサの観光通訳の仕事が開店休業状態になるまでは、ほとんどイリーナの世話を引き受けてくれていたので、イリーナは必然的に祖父がなくてはならないもののように懐いた。数学好きの祖父の鞭撻によって、5歳になるときには基本的な足し算引き算ができるようになった。身びいきではなく、祖母譲りの黒髪はいつも艶々として、利発さをその青い瞳に宿したイリーナは天使のように愛らしく家族だけでなく周囲の人気者だった。

けれども、孫が自分が賢いと勘違いしてはならないと祖父ミハイルは日ごろから厳しく戒めた。

『イリーナ。世界には全知全能の神なんてものはいないんだよ。隣国の言葉を話す君は異邦人なんだ。君は人によっては”鬼”に見えるんだ』

『イリーナは異邦人じゃありません!』

ミハイルがそれをイリーナに吹き込むたびにアリサは金切り声を上げた。アリサとアレクセイはハーフではある。が、二人とも住んでいる国にきちんとルーツ持っている。娘のイリーナはなおさらだ。自分のルーツに対する不安がどんな風に自我に影響を与えるかアリサはよく知っていただけに、ミハイルの言葉には神経質にならざるを得なかった。イリーナは確かに母国語を話せない。そもそもこの国の東部はほとんど隣国の言葉を話す人が多かった。隣国との関係が深いために、アレクセイの勤務するIT会社も隣国に支社を持っているくらいだ。地理的にも無理すれば毎日通えるくらいの距離で、週末には娘の見舞いのためにアレクセイは休日の前の日の夕方には家に戻っていた。

穏やかで前向きな夫のアレクセイと比べて、アリサは義父に対して口論を浴びせることの方が多かった。二人とも頑固でお互いの主張を引くことはなかった。アレクセイはそんな二人のやり取りを「コントみたいで面白い」と不介入の立場で見ていた。

ミハイルは押しかけ同居してからアリサから日本語を習っており、その時教材として使った日本の絵本の「桃太郎」「泣いた赤鬼」で”鬼”という空想の生き物の存在を知ってから、それを比喩として用いることを好んだ。特に「泣いた赤鬼」の話は、アリサが好きで熱心に説明したせいか余計にミハイルもそれに感化されて、「我々は赤鬼でなければならない。そして、私はアリサとアレクセイとイリーナと私にとって一番親切な家族のために、いつでも青鬼になる覚悟ができているんだよ」とかつてはよく口にしていた。けれども、今となっては、「赤鬼も青鬼も必要されない世界になったようだ」と孫のいない家で毎朝アリサから日課の日本語講習を受けながらそう口にしている。

後悔するのは、ミハイルが日本に移住しようと提案した時、アリサが全く相手にしなかったことだ。家を建ててまだ5年も建っていなかった。幼少時代は過ごしていないが、父方のルーツのある国にアリサは深い愛着を抱いていた。心が完全に日本人のアリサにとって、この国は異国情緒に溢れていて、神秘的で日々が目新しかった。疫病の流行はその時にはすぐに終わるだろうと思ったのだ。ところが、ミハイルの見解の通りのひどさになり、イリーナの病気が発覚した時、あまりに病院が親切で情け深かったために、日本の医療を受けさせることを躊躇してしまった。アリサが迷っている間にも日本は感染の拡大期を何度も繰り返し、持病に加え流行り病がイリーナの命を奪う怖さからどうしても帰国を決断できなかった。ミハイルもアレクセイもいつでも移住の覚悟はできていて、仕事もアリサの母の親戚の方でなんとかなりそうであった。それでも、この国で手術の日程が決まり、ほっと安心したところで、戦争である。

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