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「里山の灯」第1話-①何かに擬態して
【登場人物】
臨床心理学の大学院生→無職地元にIターン:里明里(さとあかり)
研究生で一つ上元ルームメイト:季楽都(きらみやこ)
イメージ療法専門の教授で都の交際相手:滋田紳一(しだしんいち)
大学院生:稍重矯折(やえいおり)
明里の母:里美里(さとみさと)
貸庭で成功し、果実町の若仙人と呼ばれる:山脈遥(やまなみはるか)
麦仙人と呼ばれる「かえる亭」の厨房係:井中蛙(いなかかわず)
その日はほんの少し研究室で残業をした。薄暗い自由が丘の坂道を登って家路を終えた。家に帰ると冷たいガラス戸に冬の精がいた。そうした別称を持つには灰茶の地味な色をした蛾だ。以前ネットで調べて以来、灯里(あかり)は蛾の雌雄の区別がつくようになった。羽が大きくおにぎり型に広がっているのがたいてい雄で、羽がなかったり羽が縮れたようにずんぐりした体型をしているのが雌だ。雌の蛾はその羽をどうやって広げるのだろうと興味を持ってから、蛾を見つけても灯里は悪寒が走ることはなくなった。
手袋を脱いで冷たいガラス戸にそっと指を這わせてみたところ、しばらく待っても雌の蛾は飛び立たない。灯里は扉のオートロックを解除してマンションの中に入った。冬の冷気が目を刺して、玄関灯が眩しい。
「ただいま」
ドアチェーンのかけられていないままの扉を悠々と開けて、灯里は声をかけた。すると、待ち構えていた猫に飛びつかれて、外に出ないように慌てて扉を閉めなければならなかった。
「ホタルくんただいま~」
毛質の悪いがさがさした手触りの白斑猫は同居するようになって3か月だというのに人懐っこい。犬のようにパタパタと短い尾を振ってご機嫌だ。猫がいらいらするときにだけ尻尾を振るという俗説は嘘だとホタルくんに帰宅待ちされるたびに実感する。
「アカリちゃん、お帰り!ごはん、できてるよ」
猫のホタルに続いて玄関先に出てきたのは、灯里のルームメイトで同じ研究室で働いている都だった。いつもは家にいても寝る前まで化粧ばっちりなのに、今日は化粧を落としていた。頬がほんのり蒸気して肌艶がいい。機嫌よく先輩に出迎えられると、灯里はふっと肩の力が抜けた。
「ありがとう。いい匂い。ぶり大根かな?ミヤコさんが料理してくれるなんて珍しい」
「ほら、お互いの実家から野菜が送ってきたじゃない。せっかくだし、さすがに料理しないとね。私の煮物は以前アカリちゃんが褒めてくれたお墨付きだもの」
いそいそと共有スペースのリビングに灯里を誘って、夕飯を並べはじめた。ーこういう日は何かあるなと思っても、ごはんのいい匂いに免じて灯里は追及しないことにした。
「こら、ホタルくん。何して遊んでるの」
生後9か月の遊び盛りの雄猫が小さな虫を前脚でもてあそんでいた。羽のないそれはマンションの入り口で見つけたフユシャクに違いなかった。雌は羽もなくとべないはずなのに、どうやってついてきたのだろうかと灯里は不思議に思った。蛾独特の鱗粉が手につくのを恐れながら、窓を開けてそっと蛾をベランダに放すと冬の冷気が流れ込んで暖房の熱気でむんむんとした室内に清涼とした空気の筋が交わるようで心地よかった。
「アカリちゃん、すぐに窓を閉めないとホタルくんがベランダに出ちゃうよ」
「はいはい。ホタルくんは今トイレしてますよ。そうだ、コンビニで
缶酎ハイ買ってきたけど、ミヤコさんも飲む?」
帰ってからまだ荷物も背中からおろしてなかった。灯里が窓を閉めながらコンビニ袋を掲げると、都は困ったように眉尻を下げた。
「明日も研究室に行かないといけないの。だから、今日は飲まない」
「奇遇だね。私も明日は研究室に行くの。そのあと、塾のバイトかな。週末だし、明日飲もうかな」
明日は土曜日だ。灯里と都の職場は同じ大学の研究室だ。まだ2年目でペーペーの灯里はバイトを掛け持ちしないと暮らしていけない。灯里を研究室に残るよう誘ってくれた都とは3年前からルームシェアをしていた。都は灯里より1年先輩で、研究生で忙しくしていてバイトを掛け持ちする暇はなかった。とはいえ、それほど生活に余裕もないので二人ならオートロックのマンションに住み続けられるということで、灯里が同じ研究室で働くことが決まった際、双方合意の上でルームシェアを継続することになった。都は仕事が忙しくてもプライベートの充実も欠かさないたちでなんやかやと月の3分の1はこの部屋に帰ってこないことがあるので、灯里は先輩にそれほど気兼ねもせずに暮らしていた。都とそれほど気が合うとも思ってないけれど、明け透けな性格の都には気を遣わずに済むからこの3年はそれほど裕福でなくとも楽しい日々だったと思う。
「明日は鍋にしようか。今日食材たくさん買っちゃって豚肉も余ってるの。白菜もあるから、キムチ鍋がいいかなあ」
「キムチ鍋いい。あったまるね。でも、私の帰りは夜9時前くらいにはなっちゃうかも。ミヤコさん、待ってなくていいからね」
「ちょうどいいよ。私もどうせ、遅くなるもん。午後から行くからね」
化粧を落とした都の目の下にはうっすらと隈の痕が見えた。ただでさえ寝つきが悪い人だから、忙しくなると目がさえてますます眠れないのだ。病院に行けば睡眠導入剤を処方してもらえるのに、忙しさにかまけて、今月通院日を儲けなかったようだ。
疲れて睡眠不足なのに、部屋にこもらずに明日も料理するという。それもお互いに帰りが遅くなるとわかっているにも関わらずだ。これは本当に何かあると思っても、灯里は都に何も聞かなかった。今日言えないから、明日鍋をしようという。いい話ではないから、楽しい雰囲気を演出したいのだろう。およそ都が言い出す話の心当たりがあるすぎて、口に出しても見当外れになりそうだった。明日楽しめないなら、今日はいい雰囲気で過ごしたい。
二人でこたつをひっぱりだしたり、明日の鍋の準備しとこうなどと野菜をきって冷蔵庫にしまったり、テレビを見ながら猫と遊んだりしているうちに灯里はほどよく疲れて、その日は健康的に早めに眠りにつくことができた。
都が作ったぶり大根の隠し味のハーブに催眠効果でもあったのかもしれない。
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