本当に怖くない猫の話 part.9
何にもしたくなくなる時がある。それでも朝が来て、子猫にたたき起こされる。いや、最近は猫も気を遣っているのか、以前のように朝4時ごろににゃあにゃあ鳴き叫ぶことはなくなった。ただ、枕元で無言の圧をかけて朝の6時ごろまで待っている。たまに髪の毛をちょいちょいと弄ばれていることには気づいているが、意地になって何でも屋も6時前後までは何が何でも起きないぞという気になっている。
生後5か月くらいを迎えて子猫はずいぶんと大きく賢くなった。胴が長くなって体重は2キロの半分を超えた。いつでも抱っこを喜んで肩に飛び乗ってきていたのに、車を警戒し、お出かけを嫌がる。それなのに、人間を起こして遊びたがる。庭には脱走したがる。雨の日以外一日中網戸にしている窓からじっと庭の草木を見ている。かと思えば、当然のように何でも屋の膝に座り、立ち上がってトイレに行くこともできなくなる。
黒猫さえいなければ、何でも屋は一日中寝ていられる。仕事だってさぼれる。だが、子猫に毎朝ごはんをあげなければいけない。遊んであげなければ悲しそうにこちらをじっと見ている。何にもしたくない。それでも猫とは遊んであげなければならない。犬の散歩など雨の日でも合羽を着せて出かけている人を見ると尊敬する。猫がご飯を食べれば、人間もご飯を食べなければならない。ご飯を食べれば排泄をする。人間がトイレに行けば猫もトイレに行く。
猫のトイレの片付けのために、何でも屋は新聞を買うようになった。最近はエコバッグの時代だから、ビニル袋をそんなにもらわない。コンビニで買ったものは大抵手づかみで店を後にする。雑誌は今の生活では分不相応な高額な買い物である。代わりにインターネットの線は引いている。大して読むわけでもないのに、猫のうんちの片付けのために、新聞を買うなんていささか以上にもったいない。けれども、猫のうんちの片づけは新聞以上に如くものはないと何でも屋は考えている。
「置き型のレーザーポインターを置けばいいんじゃないかと思うんです。でも、4000円以上するおもちゃなんて猫にもったいないかなって思ったり、そう言いつつ、猫の爪とぎには結構4000円と言わずお金をかけてきた気がするんですけど」
猫飼いの悩みは同じである。置き型ではなくとも、すでにペンライト型を何でも屋は持っている。それで依頼人の猫を遊ばせたこともあるのだが、何となく言い出せなかった。子猫に起こされるたびに人間生活の鬱陶しさを感じるが、お世話になっている常連の依頼人に礼を欠くわけにはいかない。今、野垂れ死んだらきっと目の前の依頼人には迷惑をかける。何しろ月水金で依頼人の家を訪ねているのだ。来なかったら、依頼人の方でわざわざ出向いてくる可能性がある。
「今の餌食いつきが悪いなら、うちの子ようにもらいますよ。うちの猫好き嫌いないですから。その代わりと言ってはなんですが、まとめ買いしすぎたおやつを少し持っていってもらいたいですね。そちらの持ってくるのは今度で良いですから」
依頼人はうまいことこちらが再度訪問するための用事を作ってくれる。ほぼ2日に1回夕飯のおかずとか人間用のおやつとかをもらうので、何でも屋は彼女と知り合ってからおやつや夕飯に事欠くことがなくなった。それでなくとも、彼女と話すひと時は今の何でも屋にとって人間らしい唯一の営みといえた。彼女の家に来ると子猫はいつも興奮気味で、三毛猫を構い倒している。三毛猫はあまり愛想よくはしないが、寝転びながら、少しはじゃれ合ってくれていた。その三毛猫を子猫はぴょんぴょん飛び越えて反復横っ飛びをしている。
「そういえば、うちの猫、動きが力強くなったんですよ。1歳半になると身体が出来上がったんですかね」
依頼人がそういってボールを投げて寄越すと、それまで子猫に形ばかり付き合ってごろりと横になっていた三毛猫は後ろ足で2本立ちになって利き手の右手でボールを打ち返した。流れるような見事な動きだった。全く無駄がなくバタバタしていない。そのままの姿勢でたまたま飛んできたハエを両手でそっと捕まえた仕草も綺麗だった。飼い主の真似なのかもしれないが、ハエ一匹にいらぬ丁重さである。そのために三毛猫が前足を下ろすと同時にハエはふわふわと逃げて飛び立っていった。それを目で追いかけながら、三毛猫は一仕事おえたとばかりにハエが触れてもいない腹毛を丁寧に毛づくろいした。そして、褒めてほしいとでもいいたげに飛び上がって何でも屋の膝を踏み台にして、依頼人の膝の上に飛び乗った。
見事な跳躍である。子どもの頃に見たアニメに出てくる猫の動きのごとくで、力強いというよりしなやかだ。身体が弱かったという割に平均以上に体長がありそうな三毛猫なので、確かに身体がたくましくできているのかもしれない。
「黒猫のオスならもっときれいに飛ぶんでしょうね。これから大きくなるのが楽しみですね」
三毛猫を撫でながら依頼人が言ったらが、力強く踏みつけられた何でも屋の膝は爪を立てられて鈍く痛んだ。去勢したばかりの黒猫は確かに毛艶もよく、大きく健康的に育ちそうである。月夜をバックに長く跳躍する姿を想像して何でも屋の口の端は上がった。
「子猫から育てるのは初めてなので、そういう楽しみがあるって良いですね」
子どもの頃拾ってきた猫はいつもどれも怪我しているか、弱っているか老猫であった。賢い猫が多かったが、別れはいつも早かった。猫の先行きを楽しみにするなんて初めてである。子どもの頃は、朝起きたら猫が冷たくなっていないかと怯えてばかりいたのだ。それでいて、猫の飼い方などちっとも調べはしなかった。苦い記憶とともに、爽やかなレモンの香るアールグレイの紅茶を何でも屋は渋く一気に飲み干した。