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本当に怖くない猫の話 part.13 後編
猫と人間の結婚相談所『ハッピープラス』には扉を開けた先に二つの扉がある。
一つが猫部屋の扉、一つがマッチングカフェの扉である。
訪れる人が別段、結婚願望を持っていなくても構わない。婚活をすると決めてすらなくてもよい。会員制の完全予約制なのは、猫嫌いや動物アレルギーの方が間違って入らないための一つの気遣いでもあった。
チリンチリン。
呼び鈴が鳴ると、相談員が二つの扉のどちらかの引き戸を開けて現れる。
全て木製のどこか西洋風を思わせる扉だ。取っ手はもちろん金色の猫の姿を模したものである。
「お待ちしておりました。食事になさいますか?それとも先に猫と戯れなさいますか」
まるで新婚の夫を迎える妻のような科白である。
30過ぎた大の男がこんな科白を言うなんてと、何でも屋は自分で笑ってしまいそうなのを無表情を装ってこらえた。出迎えられた方も、新調したばかりのような皺ひとつないスーツを着こなした30過ぎの男である。割烹着のような長袖エプロンの長身の男に出迎えられても、微笑にとどめる紳士的な男だ。四角い顔に微笑を浮かべるときも背筋がピンと伸びているのがお役人らしい。
「ええと、じゃあまず食事をしてお話を聞かせていただけますか?」
役人は丁寧に言って、会釈した。
「では、ちょうどみなさんお揃いなので、ご案内させていただきます。お連れの猫さんをいったんこちらでお預かりさせていただきますね」
何でも屋もとい相談員(仮)な何でも屋が畏まって促すと、少しだけ緊張した面持ちを見せて役人が頷いた。
このご時世なので、時間きっかりに全員が揃ったものの食事はアクリル板越しである。それでも、真ん中の大きな透明花瓶を豪華に飾り花を添えたおかげか、心配していたような気づまりな感じはなく、自己紹介はスムーズに済んだ。それぞれ海外在住経験のあるメンバーで、その話で盛り上がったが、皆自分の猫のことが気になって気もそぞろだったため、食事を終えるとすぐに猫部屋に移動した。
何でも屋は依頼人の父親から依頼人にまだ来ていない見合い話をさせるべきかどうか相手を見極めてほしいというややこしい依頼を受けている。
食事の時は一度も行ったことのない海外話で会話に入って行けなかった。
しかし、猫部屋に行くと、目当ての役人がクロの据わる猫足の丸テーブルに落ち着いたので、自然な感じで話かけることができた。
「いいですね。猫草がたくさんあって、外壁も自然な感じで猫たちに開放感がありそうだ。宿舎だとキャットウォークが作れないなと思っていたんですが、こんな感じもいいですね」
え?宿舎って公務員宿舎ですか?ペット可なのか?
壁紙シールの貼ってあるファンシーな公務員宿舎を想像して、何でも屋はすぐに考えるのをやめにした。別に公務員だからといって四角張っている必要はない。依頼人の父親なら、総理権限で国家公務員の宿舎をペット可にするくらいわけもないかもしれない。今は多様性の時代だと、己を納得させた。
「あちらの相談員が飾りつけを担当しておりまして」
何でも屋は役人の視線を依頼人の方に促してみた。しかし、彼は彼女に気づかなったのか、そもそも総理の娘の顔を知らないのか、気づいていても素知らぬ振りを通したいのか、特に反応を示さなかった。
「あっちの壁紙は砂漠の写真ですね。猫の祖先は砂漠に住んでいたっていう話だからですか?」
「そうなんですか?詳しくないもので、ちょっとそこまでわかりませんね」
何でも屋は素直に言ってしまってからハッとした。ここの相談員(仮)としては知っておくべき知識だったのかもしれない。猫に詳しくないなら主に結婚相談が専門だと思われていろいろと聞かれても、婚活も結婚もしたことがないので、猫よりもっとそっちはわからない。
幸いに、役人は恋愛の話をしては来なかった。
「猫の魂はみんな砂漠に還るんだろうな。私は、砂漠に木を植える仕事をしたかったんですよ。子どもの頃、特に勉強ができるわけでもなく、塾に行くことになったのも九九が覚えられなかったからでした。塾でも今の仕事でも頭のいい人がいっぱいいましてね。でも、尊敬する人はいつもすぐに去っていくんですよ。そして仕事が回ってきていっぱいいっぱいでしてね、やりたいことも忘れそうになる」
何の話何だかよくわからないが、目の前の男が話したそうに見えたので、何でも屋は役人の前に腰かけて、クロを膝に抱えた。
「海外勤務になりましてね。まあ、ほぼ勉強なんですけど。英語くらいしかできないのに、なんで自分がと思ったものです。自由に歩き回る海外の猫を見ながら、早く日本に帰って猫を飼いたいとそればかり考えていました」
役人は海外勤務の時にアフリカや中東や中国などの砂漠地帯を希望しなかったのだろうか。希望しても、どのみちアラビア語や中国語ができないからと諦めたのか。
砂漠に木を植えたいという目の前の役人が、先ほどの食事で野菜を残していたことを何でも屋は思い出した。まあ、深く詮索することでもない。夢のために努力することはそう簡単ではない。
「ここは保護猫カフェみたいなものかと思っていたんですが、ちょっと違いますね」
「あくまで猫と人間の出会いの場がコンセプトですから。今のところ、うちの看板猫はこのクロちゃんと三毛のセミちゃんなんですよ」
いつの間にが相談所の所長が背後に来て、ペットボトルのお茶を二人に差し出してくれた。猫部屋では当分、飲料はコップで出さないことになっている。話が長くなりそうになることに気づいてお茶を持ってきてくれる気遣いができるところはさすが所長だ。彼女にここの運営を任せて本当に良かったと何でも屋は思った。
社交性の高いセミ猫が、他の猫たちと鼻先をくっつけてすぐに馴染んでくれたのも助かっている。さすが依頼人の教育が行き届いた猫だ。
「そうか、来る人が猫を連れてくるなら、特にここに猫がいる必要がないか。いや、うちの猫は道で拾ったやつだから、猫カフェというものに行ったことがなくて興味があったんです」
「まあ、保護猫カフェではありますよ。うちのも拾った猫ですから」
何でも屋はクロの両手の脇をつかんで抱えて見せた。クロは嫌そうにニャーと鳴いた。
「そうですか。やっぱり、猫は自然だと長くは生きられませんもんね。コンクリート街は冬は寒いですし、寒暖が関係なければ車に轢かれて死んでしまう。あっという間に短い生を終えて砂漠に還るという魂の輪廻から、人間に拾われて抜け出すことができるわけです」
「深いことをおっしゃいますね」
ずいぶん回りくどい喩えをするなと思いながら、感心する振りをして何でも屋はペットボトルのお茶に口をつけた。
「子供の頃、小説家になりたかったんですよ。そうだ、本は読まれますか」
「読書は好きですよ。暇なので、本ばかり読んでいます」
何でも屋が答えると、役人はバッグから1冊の本を取り出した。
「ちょうど読み終わったんで、もらってください。ぜひ他の人にも読んでもらいたかったんです」
「いいんですか?」
よほどの本好きなのか、何でも屋が遠慮なく受け取ると、役人は満面の笑みを見せた。どちらかと言えば、四角くて押しの利く顔立ちなのに、笑みを浮かべると途端に親近感がわくのは、役人というより政治家のような風貌の男である。
「幸徳秋水をご存知ですか」
「はるか昔に学校の授業で聞いた覚えがありますね」
明治期の偉人の本のようだ。授業ばかりでなく、幕末から明治にかけての偉人の話は好きな人が多いので、こんな風にすすめられて読むことが多いから、その中でも何でも屋はたまに彼の名前を目にすることがあった。それにしても砂漠に植物を植えたいとか小説家とか、役人は夢の多い子どもだったようだ。何でも屋は子どもの頃の夢をかなえるどころか、明日食う手段すら考えることが難しい。果たして本を読んでも共感できるだろうかと不安になる。
「このご時世ですし、最近虚しさを感じることが多くなったんです。その自分の心情にこの幸徳秋水の生き方が妙にリンクしたんですよ。今の時期にぜひ読んで欲しいんです」
役人はますます饒舌になって語った。
「最近思うんです。世の中は勝手で、理不尽だ。しかし、別段、賢い人が報われるというわけでもないなら、私にも組織のトップになって、やりたいことをやるチャンスはあるのかもしれない。尊敬する人が組織で僕の下になったり、順序的におかしな人が重用されたり割り切れない思いをしたこともありましたが、それで相手が平然としているのを見て、志を持つ同志ではなくなって、彼らが誰かに迎合したりするとその時魂は死んでしまったんだなって。いや、それが運命なのかも。うちの職場の人間は、俗に犬って言われるじゃないですか。だとしたら、幸徳秋水みたいな社会主義者は猫ですね」
だから、私は猫に憧れてしまうんだろうなと役人は寂しそうに言った。つまり、共感したというより感銘を受けたということなのだろう。犬の役人が猫の社会学者に憧れを持ってしまうような話ということなら、何でも屋でも本の中身に共感できるかもしれないと思いなおした。
「幸徳秋水は社会主義のジャーナリストですが、本質は社会学者だと思うんです。師匠がルソーの中江兆民ですしね。社会学者にはいつの時代も居場所がない。一匹で縄張りを放浪する猫みたいなものです。猫も同じく車社会という文明に殺されます。己の信条を曲げません。こちらの都合に合わせてはくれません。社会学者も同様に大衆に逆らい、時の政権を批判する、死に向かって生きる者なんですよ。何度どの時代のどこの国に転生しても物理的でなくとも現代でも社会的に殺される。誰かが保護しないとその魂の輪廻から抜けだせないんですけどね。」
猫の話なのか、過去の偉人の話なのか、今の政権に対する話なのか、役人の話は曖昧でとらえどころがない。
「では、車のない社会なら保護はいらいないのですか」
まだ読んでいない本の過去の偉人の話などよくわからない。とりあえず、現代の猫の話として聞いて、何でも屋は質問した。
膝の上でクロが大きなあくびをし、つられたように役人の膝の上にいつの間にか来ていた毛足の綺麗な猫もあくびした。さっきキャリーで運んだクロの3倍の大きさもある役人の猫である。
役人はまっすぐに何でも屋を見返した。眼光鋭く、瞳の色の綺麗な男だと何でも屋は思った。そういえば、依頼人の女性より年下だ。まだ子供の頃の青臭さが抜けない夢想家なのかもしれない。
「そうですね。そういう社会になれば、保護はいらないかもしれませんね。しかし、今ある危険を手放す代わりに今ある便利さも手放すことになるでしょう。まあ、未来の話なら車に代わる新しい危険なものが作られるということになるんでしょうね。しかし、そうなるまでは、生き延びるには猫の個々の素質によるでしょう。猫の社会性は3か月までに作られると言いますから、難しいでしょうけど、家から脱走しない猫に育てるか、野良なら車に気を付ける猫に育つか、まあ、期待しても全部が全部そう育たないかもしれませんが、私は結構手をかけることが好きなんですよ」
いろいろと何か思いつくところがあったのか、役人は明るいはつらつとした声で饒舌に話した。声もよく通り、ますます政治家みたいな男だった。
「そうですか。私はマメな方じゃないので、勝手にそう育ってくれるよう、見守るしかないですね」
そう年齢は変わらないはずなのに、役人の気力に圧されて、何でも屋は若いっていいなあと思った。
「でも、育て方って大事じゃないですか。僕は、上手く環境に育てられたなってそこは感謝しているんですよ」
役人は屈託がなかった。別段俺は育ちがいいんだよ、と自慢しているわけでもないのだろう。素直な性質なのだ。確かに彼は猫というより、犬っぽい。
「なんだかなあ。来てよかったです。実は海外に行くことがまた決まって、このご時世だし憂鬱だったんですが、みなさんの話で前向きになれました。だいたい、私は子どもの時からどうも向いてないことばかり熱心にやってしまう性格なんですよね。猫も私に飼われて幸せだろうかと常々考えていたんです。しかし、目的があればきっと道につながりますね」
彼が言っているのは、出世の道だろうか。何でも屋と話終えて、しばらく他の3人の参加者と交流を深めて、役人は来た時より晴れ晴れとした顔で帰っていった。帰り際に依頼人の顔をじっと見ていたから、きっと彼女に気づいていたのだろうが、何か思うところがあるようにも見えなかった。
「婚活パーティーなのに、男同士でずいぶんとお話されていましたね」
片づけをしながら、可笑しそうに依頼人が聞いた。
「ダメだったですかね」
「さあ、よくわかりませんけど、お客さんが満足されたならよかったんじゃないですか?気が合ったんでしょう」
いや、全然そういうことはないと何でも屋は心の中で否定したが、口には出さなかった。彼の人生と自分の人生が今後交わることをなんで何でも屋は想像できなかった。彼は何でも屋とはやはり違う世界線で生きている人間だ。依頼人も、もしかしたら、今後そうなるだろうか。役人は、思慮深げな良い男だった。
「海外の話とかさっぱり分かりませんでしたけどね、行ったことないんで」
「そうですか。ホッとしました。私も子供の頃の記憶にないくらいの時しか行ったことないんですよ。なんかみんなアグレッシブだなあって自分がずいぶん暢気者に感じました」
「向いてないと思うことを克服するって偉いですよね」
「そうですね。私は向いてないことはやりたくないな」
依頼人の言葉に、何でも屋はホッとした。様々な勉強をしている人の話は勉強になる。何でも屋は読書が好きだし、未知のものに対する好奇心は人並みにあった。
しかし、定まらない人生を猫のように生きている身としては、今後どうしようというあてもない。猫のために車のない社会なんて作れない。幸徳秋水のように偉い志はないが、自分自身が猫なのだから。
そんな自分を、依頼人の言葉で少し救われたような気がした。自分のような人間ばかりでは社会は成り立たないだろうが、世界の片隅で寝ていることを赦してほしい。
依頼人とは、友達でいられそうだと何でも屋は思った。
猫と人間の結婚相談所『ハッピープラス』には扉を開けた先に二つの扉がある。
一つが猫部屋の扉、一つがマッチングカフェの扉である。
訪れる人が別段、結婚願望を持っていなくても構わない。婚活をすると決めてすらなくてもよい。会員制の完全予約制なのは、猫嫌いや動物アレルギーの方が間違って入らないための一つの気遣いでもあった。
チリンチリン。
呼び鈴が鳴ると、相談員が二つの扉のどちらかの引き戸を開けて現れる。
全て木製のどこか西洋風を思わせる扉だ。取っ手はもちろん金色の猫の姿を模したものである。
「お待ちしておりました。食事になさいますか?それとも先に猫と戯れなさいますか」
まるで新婚の夫を迎える妻のような科白である。
30過ぎた大の男がこんな科白を言うなんてと、何でも屋は自分で笑ってしまいそうなのを無表情を装ってこらえた。出迎えられた方も、新調したばかりのような皺ひとつないスーツを着こなした30過ぎの男である。割烹着のような長袖エプロンの長身の男に出迎えられても、微笑にとどめる紳士的な男だ。四角い顔に微笑を浮かべるときも背筋がピンと伸びているのがお役人らしい。
「ええと、じゃあまず食事をしてお話を聞かせていただけますか?」
役人は丁寧に言って、会釈した。
「では、ちょうどみなさんお揃いなので、ご案内させていただきます。お連れの猫さんをいったんこちらでお預かりさせていただきますね」
何でも屋もとい相談員(仮)な何でも屋が畏まって促すと、少しだけ緊張した面持ちを見せて役人が頷いた。
このご時世なので、時間きっかりに全員が揃ったものの食事はアクリル板越しである。それでも、真ん中の大きな透明花瓶を豪華に飾り花を添えたおかげか、心配していたような気づまりな感じはなく、自己紹介はスムーズに済んだ。それぞれ海外在住経験のあるメンバーで、その話で盛り上がったが、皆自分の猫のことが気になって気もそぞろだったため、食事を終えるとすぐに猫部屋に移動した。
何でも屋は依頼人の父親から依頼人にまだ来ていない見合い話をさせるべきかどうか相手を見極めてほしいというややこしい依頼を受けている。
食事の時は一度も行ったことのない海外話で会話に入って行けなかった。
しかし、猫部屋に行くと、目当ての役人がクロの据わる猫足の丸テーブルに落ち着いたので、自然な感じで話かけることができた。
「いいですね。猫草がたくさんあって、外壁も自然な感じで猫たちに開放感がありそうだ。宿舎だとキャットウォークが作れないなと思っていたんですが、こんな感じもいいですね」
え?宿舎って公務員宿舎ですか?ペット可なのか?
壁紙シールの貼ってあるファンシーな公務員宿舎を想像して、何でも屋はすぐに考えるのをやめにした。別に公務員だからといって四角張っている必要はない。依頼人の父親なら、総理権限で国家公務員の宿舎をペット可にするくらいわけもないかもしれない。今は多様性の時代だと、己を納得させた。
「あちらの相談員が飾りつけを担当しておりまして」
何でも屋は役人の視線を依頼人の方に促してみた。しかし、彼は彼女に気づかなったのか、そもそも総理の娘の顔を知らないのか、気づいていても素知らぬ振りを通したいのか、特に反応を示さなかった。
「あっちの壁紙は砂漠の写真ですね。猫の祖先は砂漠に住んでいたっていう話だからですか?」
「そうなんですか?詳しくないもので、ちょっとそこまでわかりませんね」
何でも屋は素直に言ってしまってからハッとした。ここの相談員(仮)としては知っておくべき知識だったのかもしれない。猫に詳しくないなら主に結婚相談が専門だと思われていろいろと聞かれても、婚活も結婚もしたことがないので、猫よりもっとそっちはわからない。
幸いに、役人は恋愛の話をしては来なかった。
「猫の魂はみんな砂漠に還るんだろうな。私は、砂漠に木を植える仕事をしたかったんですよ。子どもの頃、特に勉強ができるわけでもなく、塾に行くことになったのも九九が覚えられなかったからでした。塾でも今の仕事でも頭のいい人がいっぱいいましてね。でも、尊敬する人はいつもすぐに去っていくんですよ。そして仕事が回ってきていっぱいいっぱいでしてね、やりたいことも忘れそうになる」
何の話何だかよくわからないが、目の前の男が話したそうに見えたので、何でも屋は役人の前に腰かけて、クロを膝に抱えた。
「海外勤務になりましてね。まあ、ほぼ勉強なんですけど。英語くらいしかできないのに、なんで自分がと思ったものです。自由に歩き回る海外の猫を見ながら、早く日本に帰って猫を飼いたいとそればかり考えていました」
役人は海外勤務の時にアフリカや中東や中国などの砂漠地帯を希望しなかったのだろうか。希望しても、どのみちアラビア語や中国語ができないからと諦めたのか。
砂漠に木を植えたいという目の前の役人が、先ほどの食事で野菜を残していたことを何でも屋は思い出した。まあ、深く詮索することでもない。夢のために努力することはそう簡単ではない。
「ここは保護猫カフェみたいなものかと思っていたんですが、ちょっと違いますね」
「あくまで猫と人間の出会いの場がコンセプトですから。今のところ、うちの看板猫はこのクロちゃんと三毛のセミちゃんなんですよ」
いつの間にが相談所の所長が背後に来て、ペットボトルのお茶を二人に差し出してくれた。猫部屋では当分、飲料はコップで出さないことになっている。話が長くなりそうになることに気づいてお茶を持ってきてくれる気遣いができるところはさすが所長だ。彼女にここの運営を任せて本当に良かったと何でも屋は思った。
社交性の高いセミ猫が、他の猫たちと鼻先をくっつけてすぐに馴染んでくれたのも助かっている。さすが依頼人の教育が行き届いた猫だ。
「そうか、来る人が猫を連れてくるなら、特にここに猫がいる必要がないか。いや、うちの猫は道で拾ったやつだから、猫カフェというものに行ったことがなくて興味があったんです」
「まあ、保護猫カフェではありますよ。うちのも拾った猫ですから」
何でも屋はクロの両手の脇をつかんで抱えて見せた。クロは嫌そうにニャーと鳴いた。
「そうですか。やっぱり、猫は自然だと長くは生きられませんもんね。コンクリート街は冬は寒いですし、寒暖が関係なければ車に轢かれて死んでしまう。あっという間に短い生を終えて砂漠に還るという魂の輪廻から、人間に拾われて抜け出すことができるわけです」
「深いことをおっしゃいますね」
ずいぶん回りくどい喩えをするなと思いながら、感心する振りをして何でも屋はペットボトルのお茶に口をつけた。
「子供の頃、小説家になりたかったんですよ。そうだ、本は読まれますか」
「読書は好きですよ。暇なので、本ばかり読んでいます」
何でも屋が答えると、役人はバッグから1冊の本を取り出した。
「ちょうど読み終わったんで、もらってください。ぜひ他の人にも読んでもらいたかったんです」
「いいんですか?」
よほどの本好きなのか、何でも屋が遠慮なく受け取ると、役人は満面の笑みを見せた。どちらかと言えば、四角くて押しの利く顔立ちなのに、笑みを浮かべると途端に親近感がわくのは、役人というより政治家のような風貌の男である。
「幸徳秋水をご存知ですか」
「はるか昔に学校の授業で聞いた覚えがありますね」
明治期の偉人の本のようだ。授業ばかりでなく、幕末から明治にかけての偉人の話は好きな人が多いので、こんな風にすすめられて読むことが多いから、その中でも何でも屋はたまに彼の名前を目にすることがあった。それにしても砂漠に植物を植えたいとか小説家とか、役人は夢の多い子どもだったようだ。何でも屋は子どもの頃の夢をかなえるどころか、明日食う手段すら考えることが難しい。果たして本を読んでも共感できるだろうかと不安になる。
「このご時世ですし、最近虚しさを感じることが多くなったんです。その自分の心情にこの幸徳秋水の生き方が妙にリンクしたんですよ。今の時期にぜひ読んで欲しいんです」
役人はますます饒舌になって語った。
「最近思うんです。世の中は勝手で、理不尽だ。しかし、別段、賢い人が報われるというわけでもないなら、私にも組織のトップになって、やりたいことをやるチャンスはあるのかもしれない。尊敬する人が組織で僕の下になったり、順序的におかしな人が重用されたり割り切れない思いをしたこともありましたが、それで相手が平然としているのを見て、志を持つ同志ではなくなって、彼らが誰かに迎合したりするとその時魂は死んでしまったんだなって。いや、それが運命なのかも。うちの職場の人間は、俗に犬って言われるじゃないですか。だとしたら、幸徳秋水みたいな社会主義者は猫ですね」
だから、私は猫に憧れてしまうんだろうなと役人は寂しそうに言った。つまり、共感したというより感銘を受けたということなのだろう。犬の役人が猫の社会学者に憧れを持ってしまうような話ということなら、何でも屋でも本の中身に共感できるかもしれないと思いなおした。
「幸徳秋水は社会主義のジャーナリストですが、本質は社会学者だと思うんです。師匠がルソーの中江兆民ですしね。社会学者にはいつの時代も居場所がない。一匹で縄張りを放浪する猫みたいなものです。猫も同じく車社会という文明に殺されます。己の信条を曲げません。こちらの都合に合わせてはくれません。社会学者も同様に大衆に逆らい、時の政権を批判する、死に向かって生きる者なんですよ。何度どの時代のどこの国に転生しても物理的でなくとも現代でも社会的に殺される。誰かが保護しないとその魂の輪廻から抜けだせないんですけどね。」
猫の話なのか、過去の偉人の話なのか、今の政権に対する話なのか、役人の話は曖昧でとらえどころがない。
「では、車のない社会なら保護はいらいないのですか」
まだ読んでいない本の過去の偉人の話などよくわからない。とりあえず、現代の猫の話として聞いて、何でも屋は質問した。
膝の上でクロが大きなあくびをし、つられたように役人の膝の上にいつの間にか来ていた毛足の綺麗な猫もあくびした。さっきキャリーで運んだクロの3倍の大きさもある役人の猫である。
役人はまっすぐに何でも屋を見返した。眼光鋭く、瞳の色の綺麗な男だと何でも屋は思った。そういえば、依頼人の女性より年下だ。まだ子供の頃の青臭さが抜けない夢想家なのかもしれない。
「そうですね。そういう社会になれば、保護はいらないかもしれませんね。しかし、今ある危険を手放す代わりに今ある便利さも手放すことになるでしょう。まあ、未来の話なら車に代わる新しい危険なものが作られるということになるんでしょうね。しかし、そうなるまでは、生き延びるには猫の個々の素質によるでしょう。猫の社会性は3か月までに作られると言いますから、難しいでしょうけど、家から脱走しない猫に育てるか、野良なら車に気を付ける猫に育つか、まあ、期待しても全部が全部そう育たないかもしれませんが、私は結構手をかけることが好きなんですよ」
いろいろと何か思いつくところがあったのか、役人は明るいはつらつとした声で饒舌に話した。声もよく通り、ますます政治家みたいな男だった。
「そうですか。私はマメな方じゃないので、勝手にそう育ってくれるよう、見守るしかないですね」
そう年齢は変わらないはずなのに、役人の気力に圧されて、何でも屋は若いっていいなあと思った。
「でも、育て方って大事じゃないですか。僕は、上手く環境に育てられたなってそこは感謝しているんですよ」
役人は屈託がなかった。別段俺は育ちがいいんだよ、と自慢しているわけでもないのだろう。素直な性質なのだ。確かに彼は猫というより、犬っぽい。
「なんだかなあ。来てよかったです。実は海外に行くことがまた決まって、このご時世だし憂鬱だったんですが、みなさんの話で前向きになれました。だいたい、私は子どもの時からどうも向いてないことばかり熱心にやってしまう性格なんですよね。猫も私に飼われて幸せだろうかと常々考えていたんです。しかし、目的があればきっと道につながりますね」
彼が言っているのは、出世の道だろうか。何でも屋と話終えて、しばらく他の3人の参加者と交流を深めて、役人は来た時より晴れ晴れとした顔で帰っていった。帰り際に依頼人の顔をじっと見ていたから、きっと彼女に気づいていたのだろうが、何か思うところがあるようにも見えなかった。
「婚活パーティーなのに、男同士でずいぶんとお話されていましたね」
片づけをしながら、可笑しそうに依頼人が聞いた。
「ダメだったですかね」
「さあ、よくわかりませんけど、お客さんが満足されたならよかったんじゃないですか?気が合ったんでしょう」
いや、全然そういうことはないと何でも屋は心の中で否定したが、口には出さなかった。彼の人生と自分の人生が今後交わることをなんで何でも屋は想像できなかった。彼は何でも屋とはやはり違う世界線で生きている人間だ。依頼人も、もしかしたら、今後そうなるだろうか。役人は、思慮深げな良い男だった。
「海外の話とかさっぱり分かりませんでしたけどね、行ったことないんで」
「そうですか。ホッとしました。私も子供の頃の記憶にないくらいの時しか行ったことないんですよ。なんかみんなアグレッシブだなあって自分がずいぶん暢気者に感じました」
「向いてないと思うことを克服するって偉いですよね」
「そうですね。私は向いてないことはやりたくないな」
依頼人の言葉に、何でも屋はホッとした。様々な勉強をしている人の話は勉強になる。何でも屋は読書が好きだし、未知のものに対する好奇心は人並みにあった。
しかし、定まらない人生を猫のように生きている身としては、今後どうしようというあてもない。猫のために車のない社会なんて作れない。幸徳秋水のように偉い志はないが、自分自身が猫なのだから。
そんな自分を、依頼人の言葉で少し救われたような気がした。自分のような人間ばかりでは社会は成り立たないだろうが、世界の片隅で寝ていることを赦してほしい。
依頼人とは、友達でいられそうだと何でも屋は思った。
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