東と西の薬草園 ⑦-2「薬草とハーブ」
ひきがえるとコオロギの鳴き声のする晩である。
寝付かれなくて、遥は深夜にパウンドケーキを焼いた。
先日の山菜採りのイベントは好評で、レンタルガーデンの運営は順調だ。しかし、なぜか不安が尽きない。何かしていないと心配ごとで頭の中が埋め尽くされて、胸が痛くなってしまう。
眠れなくても、眠たくないわけではない。身体はいつもどんよりと重たい。
はっきりしない頭では、お菓子作りのすべての工程がいい加減になってしまった。
計量が大事なケーキ作りにアンラッキーな双子の卵。果たして双子の卵は卵一個分なのか、ネットで調べたレシピに沿っているか確信が持てないままパウンドケーキを焼いたら、オーブンを覗く度にみるみる膨らんで容器から溢れて焦げてしまった。
日付が変わっても気分も運気も変わらない。遥には、何をやってもうまくいかないままだ。
「庭というより畑だな」
日中、野人は遥のガーデンデザインだけ却下した。
「庭の花壇はみんな花畑じゃないか」
カエルが口を出すと野人は孫にも失望した顔をして眉尻を下げた。
「庭は暮らしじゃっど。春夏秋冬どんな花と暮らしたかか。どんな花植物が好きか。青とか赤とか塗り絵じゃなかと。自分が夢描く理想の暮らしがないといけんよ」
野人は遥をじっと見つめた。
「それに何よりハルさんは誰よりも他の人間がここで作りたい理想のガーデンを見とるだろうもん。そのために毎日準備ばして働いとるとやろ。そいば見せかけじゃなく学んでほしかとよ。こいじゃ、ハルさんが他の人にこれを見せられたらただ花ば買ってくるだけやろうけん、作業はそれなり、びんた(頭)の方は楽やろね。一列ごとに色ば変えて植えればよかけん、簡単やろ。ばってん、それがなんの面白かと」
穏やかな口調でありながら、言葉は鋭かった。普段、特別扱いで遥には何でも根気よく教えてくれる野人だ。そこには、庭仕事に遥を引き込んだのが自分だという負い目にも似た気持ちがあったかもしれない。これまで怒られたことがなかったので、ちょっと出来が悪かったくらいで叱られるのかと遥は野人の怒り処の不思議さに戸惑った。高齢の野人より物忘れのひどい遥に野人はこれまで微塵も怒りを滲ませたことはない。
一方で、遥は野人の言葉に目が覚める思いもした。この場所で何をして生きていきたいのか。遥には確かに理想がない。何もしないから失敗しない。
ただ生まれた場所で生きて、何も生み出さない自分をどうすればよいのか。
もしかしたら、田舎の良さにこだわっている自分だから、深層心理ではこんな田舎に立派な庭を作って何になるだろうと白けてしまっていたのだろうか。
花畑じゃない。
薬草畑じゃない。
私が根付く私の庭はどんな姿をしているだろうか、と深夜のケーキにフォークを突き刺して遥は考えた。遥はそもそも望んで貸庭の住人となったのではなかった。たまたま、別荘の管理人に応募したら、成り行きで貸庭の管理人も任されることになっただけだ。
やってみたら面白くはあるけれども、ここに集った他の人々と違って、遥は庭作りがしたくて、ここに来たわけでは無いのだ。
ただ、転職活動がうまくいかず地元に帰ってきただけだった。
「ハルさん、目の下に隈ができてない。疲れてそうに見えるけど」
「昨日眠れなくて、むくんでるかも。でも、私って何かしてるとすぐ隈はとれるから」
一睡もできないまま朝を迎えた。『峠道の貸庭』がオープンする前であれば、そのまま日が昇ってから気絶するように布団に入ることができただろう。しかし、今は”朝活=モーニングルーティン”が待っている。決められたわけではないが、朝食をとってから涼しいうちに庭作業に出る。一番乗りとはいかないが、ロッジの客に比べて遅いことはない。三番目以内には庭に出ている。
「そっかあ。最近作ったハーブオイルがあるんだけど、いる?疲れがとれるかも」
「いる」
ハーブオイル作りは、ここに来てからの香の趣味だ。毎週のように分けてもらい、化粧をしなくても庭作業の後、疲れた手足に塗ったり、温浴に使ったりするのが遥も習慣になっていた。
「うわあ。いいわねえ。ラベンダーのいい香り」
「でしょう。最近、本当にラベンダーが好きで。こんな風に蜘蛛の巣がつくのがたまに傷ですけど」
昨日完成したオイルを香が遥の首筋に吹きかけると、赤石が無造作に鼻を寄せた。赤石は一足先にここでの生活を始めて味をしめたのか、朝はほとんど遥や他のスタッフについて回って作業を学び、自分の庭の手入れは大体夕方デイサービスから帰ってきた母を見学者に置いて庭に植えるものを母と相談しながらやっているようだ。
そのため、最も早く提出された赤石のガーデンデザインは何度も修正されもはや見る影もないが、それに野人が何かいうことはなかった。寧ろ日に日に庭がよくなっていると褒めていて、赤石はもはやここの一番弟子とばかりに張り切って意気揚々としている。勉強熱心だから、遥の知識などすぐ追い越してしまうだろう。
遥の庭については、「迷走しとるね」と野人は常に笑いながら評していたが、それって苦言だったのかなと遥も今更ながら気づいた。それほど悪くないと思っていた庭も、他人と比べられるようになると確かにみすぼらしく見える。雑草も風情と思っていたけれど、もっと綺麗に刈り込むべきなのか。しかし、遥はたとえ雑草でもこの季節は特に咲いている花を飾りもしないのに刈って消すのが苦手だった。
「今日のランチは自信作なのよ。カエルくんにもらったハーブパンにハーブ入りのハンバーグを挟んでハーブたっぷりハンバーガーにするわ。昨日の夜ハンバーグをたくさん作ったら、我ながらおいしかったのよ」
「へえ、おいしそうですね。私、午後出勤なんで、一緒にランチさせてもらってもいいですか。食べてから仕事に行こうっと」
香が手を挙げると、赤石は一も二もなく承諾した。おいしそうなハンバーガーは遥も食べたい。しかし、今日は昨日の深夜ケーキを朝ごはんにも食べてお腹が減っていない。寝不足に高カロリーの食事はよくない気がする。
食べたいけど、食べたくないという些細な葛藤は普段なら心地よいものだ。けれども、今日は気持ちが重い。香の「仕事に行く前」という言葉も気に障った。ここでの庭作業は仕事ではなく、香にとって息抜きなのか。そうだとすれば、この仕事で四苦八苦している自分は何なのだろう。
昼も夜も庭やハーブのことを考えて、残業なしは嘘な気がする。イベントの企画は香や霞に合わせて、休館の水曜に会議することが多い。それも香にとっては趣味の一環なのか。
趣味と実益を兼ねている。遥も半ばそのつもりだ。けれども、最近疲れているせいか、ここでの理想が見つからない。「そろそろコンビニが懐かしいな」などと思うことがある。
赤石のハンバーグはきっと縦でも口に入りきらないほど大きいだろう。チェーン店の小さいハンバーガーが遥の胃袋にはちょうどいい。
赤石や香のようなハーブ園もいいが、遥は日本の植物も植えたい。そこは譲れない。そういうところから、自分の理想を考えられないだろうか。
まるで時が進まない山で、夕方になって昼間に摘んだカモマイルティーを飲みながら遥は窓辺で庭を眺めやった。休日制を設けることにして、カエルは今日は休みだ。交代の休みにして、庭作業をしないと決めたら、この一週間で3日しかカエルと顔を合せなかった。必要な業務連絡も言いたい愚痴もたまる一方。会った日は、休んでいた分の仕事の引継ぎで決められた勤務時間が終わってしまう。
種まき段階の庭もあるが、貸庭の客が来てから、1か月ほどで『峠道の貸庭』は花で埋め尽くされた。いつもずっといる庭でないということが、客を作業に駆り立てるようだ。あんなに時間をかけて耕したのに、地面が見えなくなるのはあっという間だった。
遥の庭だけがガランドウ。野人に指導してもらってガーデンデザインに沿って庭づくりを進めるつもりで、少しずつ植物を撤去したからだ。抜いた花は、今は他人の庭で咲いている。ガーデンでの再利用。
『峠道の貸庭』は、とても順調だ。評判は決して悪くないだろう。けれども、遥は最近どうも落ち着かなくて、庭人の笑顔を見ても不安は増して、花は綺麗だけれど、晴れの日の作業が憂鬱だった。