我が家の庭の風景 part. 110 「汚言と汚庭」
SNSサイトの交流を通じて、例えば小説を通じても作者と読者は、窓ガラス1枚隔てた家猫と外猫のように近い位置にいるのかもしれない。
毎日文章で繋がっていれば、家の中で一緒に過ごしている人たちよりも、お互いに知っていることが多くなるだろう。窓ガラスを1枚隔てて毎日喧嘩をする猫たちのようなものだ。たった窓ガラス1枚しかないから外にいる猫に家猫がストレスを感じたりする。
だからといって窓がない生活を送ることも、猫にとって猫が自分以外に全くいない世界を作ることもできない。自分にとって良い環境を作ってくれる人は自分ではないのかもしれない。多くの人は自分でより良い住環境を作ることができない。
猫だって人間の棲家を間借りする。
我が家の庭は、私の心の心象風景だ。
庭が散らかっているのは、私の心が汚いからではないか。なぜこれほど私の心は荒れているのか。なぜ心を整えることには、これほど手間がかかるのか。
家族が片付けないから、家族がものを捨てるから、我が家の庭は散らかっているのだろうか。例えばSNSのコメント欄もアカウント主は全く嫌味がないのに、たまたまむしゃくしゃしている誰か目に留まって汚言をまき散らされるのだろうか。
アカウント主が、誹謗中傷が来ないように、管理運営していれば、よりよいSNSライフを送ることができるのか?
もしそうであるならば、私が一生懸命片付ければ、我が家の庭は私の思った通りに理想の環境になるはずである。
しかし、我が家の庭は、私独りの庭ではない。土地も建物もご先祖様が汗水たらして、働いたお金で建てられたものだ。無論、実家の土地建物をどうするかは、私の両親が生きている限り、私の両親に決める権利がある。SNSのアプリだって私が作ったものではない。私がこんな風に利用したいとか、こんな風になってほしいとか思ったところで、私独りの考えで環境が整えられるわけでは無いのだ。
家族の1人として意見を言うことができる。ユーザーの1人として意見を投書することができる。しかし、私の意見が必ずしも採用されないわけではないが、私1人の意見で物事を決めても本当に素晴らしい環境が出来上がるわけでもない。
YouTubeに猫や庭の様子を投稿するようになった。もう半年以上利用している。登録者が300人近くなったので、少しくらい交流をしてみたい気持ちもある。しかし、誹謗中傷どころか、ちょっとした苦言すら怖くて、いったんオフにしてしまったコメント欄をオンにする勇気が出ない。
オンオフの切り替えを、世間はどうやってしているのだろうか。いわゆる他者との交流のためのオンオフである。
こういう場合は、心をオープンにして、こういう場合は、他人の気持ちを知ろうと思わなくて良い。そんな風な割り切りが私には難しい。
大して美しくもない庭の写真を垂れ流し、これといった特徴のない飼い猫たちの写真を見せびらかしている。我が家に住み着いている野良猫は飼ってあげることができなくて、写真は撮っているが、SNSにあげる事は躊躇する。SNSで誰か飼ってくれないかと問いかけてみたり、クラウドファンディングに登録しようと試みたりしているが、うまくいかない。かといって、懐かせて面倒を見始めたら一巻の終わりである。これまでの経緯からして、なし崩しに飼うことになってしまう。 避妊手術をしたところで、近所に洋種の猫が増えているので猫を棄てる人がいる限り、我が家の周辺に野良猫は増えていくばかりだ。すべての命を救ってあげれるどころか、今飼っている猫の命すら守っていけるか自信がない。
私が庭に出ると、飼い主のいない猫たちは、どこかに隠れ去る。ゴミや石がたくさん落ちているに庭だ。蔵には、父の日用大工の道具や釣りの道具が乱雑に放置されている。
外にいる猫たちのしっぽは日に日に短くなっている。我が家の庭でしっぽが切れてしまったのだろうか。申し訳ないがどうしようもない。
散らかった庭は、目に見える形で猫の体が傷つける。一方で、言葉の刃は心に傷を負わせることで、結局そのストレスが病となって、身体をも切り刻むことになるだろうか。
庭に出なくても、気配で分かる。外の猫は時折窓を叩く。ほとんど鳴かないおとなしい猫たちも、たまには細く鳴く。
誹謗中傷が集まるような話題は、避けて通ろうとしているが、やはりSNSで目につくのだ。ちょうど外の猫たちに窓を叩かれるように、気づかされてしまう。誹謗中傷の集まるアカウントは外猫の集まる我が家の庭のようなものか。散らかっているからいけないのか。綺麗にするってどこまでやればいいのだろう。私に品がないのに、品のある空間をどうやって作れるというのか。
私はそんな上品な人間ではない。私の心が美しくない事は庭に表れている。ではSNSに誹謗中傷がばらまかれている事は、日本人の心の心象風景を表しているだろうか。そこまで日本人を見下げ果てるべきだろうか。
誰でも口が滑る事はある。愚痴が溜まることもある。悪気がないこともあれば、ミスや過ちだって犯すものだ。それを看過できないと思うのは、私の心が狭いからだろうか。
私のスマホの使い方が悪いから、目についてしまうのだろうか。庭をきちんと美しく保てるような人は、やはりスマホだって自分の思った通りにうまく使えるものだろうか。
昨年の秋に種をまいたパンジーの花が、たくさんの花を咲かせ始めた。パンジーは1つの株でたくさんの花芽がつく。しかし、それが華やかで美しいと思うには、濃い紫色の暗い花が多い気がする。紫色の花は好きなのだ。しかし、おしゃれだとは思えない。なんだか、我が家の庭に彩りを与えるどころか、暗くしてしまっている気がする。肝心なのは、心の持ちようなのだろうか。
雑草も塵も庭の彩り。あるがままを受け止めなければならない。SNSも汚言が1つの彩りだろうか。種をまいてしまったなら、それが枯れないようにどんなコメントも花もそのままにして眺めているべきだろうか。
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