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我が家の庭の風景 part.153「あたら」

 熊本県に所縁のあるフランス画家・藤田嗣治さんの画集を見てから、「アタラとヘシオン」の絵が頭を離れない。あまりにも衝撃的に可愛らしい子猫の絵だった。ネットでどういう経緯で生まれた絵か調べようとして、絵がマグカップになっていることを知った。

https://tachikichi.jp/c/c000000/c990100/14750#:~:text=%E7%94%BB%E5%AE%B6%20%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81,%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%8F%E5%86%8D%E7%8F%BE%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

 ほしいけれど、買ってももったいなくて使えない。だって、アタラの絵だもの。アタラが藤田嗣治の飼い猫かどっちがどっちの名前かわからない。日本由来の名前だとしたら、アタラ=可惜ではないだろうか。日本語の"あたら"は、古語に「惜しい、もったいない」という意味がある。"可惜、若い命を散らす勿れ"などという用例を何度か見た記憶がある。

 子猫はちょっとしたことで命を散らしがちだ。誤飲や感染症、野良生まれであれば猛禽類に捕食されることもある。或いは、最も多いのは飢えだろうか。痩せた猫を見ると、あたらなんとやと寂しい気持ちがする。

 もったいない命は猫だけに当てはまらない。私には空腹を感じがちな持病がある。ひもじい気持ちは猫も同じと身勝手な励ましを自ら覚えるものだ。
 この病気の人は、「もう、死ぬ」という気持ちを何度か経験するだろう。私なんかは、毎回大袈裟に苦しんで、その度に助かって恥ずかしい思いをしてしまう。死ぬほどの苦しみじゃなかったのに、死ぬと勘違いしてしまうのだ。
 これは精神疾患とは似て非なるもので、世を儚む気持ちとは対極にある。この病気が精神疾患によって悪化するのかは分からないが、必死に苦しんでいる間は自分で死ぬの死なないのと考えている場合じゃない。計画的にことを運ぶ事など思いもよらない苦しみなのだ。寧ろ、痛みが引くと「人間ってこうまでして生きたいものか」と憑きものが落ちたみたいに穏やかに自らの死生観を見つめる事すらできる。だってしばらく食べられないか食べるのが怖いから、食事の回数が減れば気力も減り、することがなくて考えること以外しようがないのだ。

 気力が戻ればあれをしようこれをしようと痛い腹を抱えて考えている。しかし、これも何度か繰り返していれば、元気になってもそうやる気の出ない怠惰な自分を知っているからやりたいことはどんどん目標が下がっていく。凝った料理ではなく、初めて作るシンプルな料理でいい。初心者向けレシピを調べよう。数年来上達しない寄せ植えは、四角い鉢に苗を二つでいいじゃないか。多年草でなく、一年草で十分だ。来年はまた違う花を愛でよう。

 もったいないと命を惜しむ気持ちは自分にばかり向かって、他者に対する思いやりは痛みと共にすり減ってくる。枯れた花は仕方ない。全ての猫は救えない。言い訳ばかりの人生だ。可惜、命が溢れ落ちていく。毎年、私の化けの皮が剥がれていく。化け猫は、猫が変幻自在であるのではなく、人間の身勝手な妄想が猫に取り憑いたものなのだ。
可惜。

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猫様とごはん
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