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【短編小説】獅牙

 少年の雄叫びが村中に響いた。
「やめてよ。母さん。約束したじゃないか」
「退けなさい。約束違いよ。退けなさいと間違えてあなたを撃つかもしれないわ」
母親の言葉は、少年にとって何よりも残酷だった。
「僕が村でトップをとったら、動物を飼っていいって言ったでしょ」
「雷牙(ライガ)、運動でも勉強でもあなたにとってこの村でトップを取る事は造作もないことでしょう。私はペットを飼ってていいと言ったけれど、危険生物を飼っていいとは言ったつもりはなかったわ」
母が向けていた銃口を下ろして、視線を伏せると、窓の外で、小鳥が飛び立った。暮れかかる夕日がいつもより赤い。前髪の隙間から覗く母の視線が、少年にはいつもより恐ろしかった。けれども、その母だって銃を持つ手が小刻みに震えていたのだ。
 無理もない。少年の後ろにいたのは、母が想像していた子猫ではなかった。いや、見方によっては、子猫かもしれない。鬣のない子どもの獅子が少年の背後に寝そべっていた。そのしっぽにじゃれついているのは、昨年生まれたばかりの少年の妹だ。母はいつその獣が我が子を食べやしないかと気が気ではなかった。
「サバンナに返しなさい。人と獣は同じ屋根の下には暮らさない。それがサバンナの掟よ」
「サバンナに返したら、この子は密猟者に狙われちゃうよ。殺されちゃうかもしれないんだ」
「それも仕方がないわ。運命とはそういうものよ」
「なんでだよ。人間の子供だって親と一緒じゃないと出歩くなって言うじゃないか。どうして動物だったら、子供でも親がいなくて、一匹で生きろっていうの!」
少年が叫ぶと、同時に背後にいた獅子が唸った。いや、それよりも、先に、空から、猛禽類の鳥の鳴き声が村に降ってきたのだ。何事だろうか。サバンナに異変が起きたのか。

 少年の背後にいた獅子は、突如として走り出した。しっぽにぶら下がっていた赤子を放り出し、駆け出した。

 開け放たれていた扉から獅子が飛び出した時、雷が光り、その後鳴った。
 獅子は走った。走らなければならなかった。けれども間に合わなかった。その近くの水辺に傷を負った大きな獅子が横たわっていた。鬣の長い痩せた獅子だ。別れをどうしていいかわからなかった。その若い獅子は再び走り出した。そして、闇雲に走った挙句、雨に足を取られ、滑って、岩に激突した。
 顔面を強打した獅子の顔からは血が流れた。鼻血と口からの血と。また、ひねった足を引きずって獅子は歩き出した。雨宿りしなければいけないことに思い至ったのだ。獅子は、少年の家のそばに戻った。家の中には入らなかった。
 けれども、既に使われていない家畜の倉庫をその日からねぐらにした。村の人々は獅子の怖さを知っていた。しかし、顔に血のこびりついた獅子に同情し、みんな気づかぬふりをして、生活することを選んだ。少年は、その獅子がいつ母や村人の手にかけられないか、半信半疑で日々を過ごした。血が落ちても、獅子の顔は険しかった。顎が腫れ、乳房が腫れて、腫れが聞いても、口をモゴモゴさせていた。怪我の治りが遅くて病気になったのだろうか?その割に餌は取れている。少年は、3日に1度は刻んだ肉を獅子のために、水辺に置きに行った。その行為を見逃されていることを知りながら、さすがに家のそばには置けなかった。
 少年は思いつく限りの動物施設に手紙を書いた。傷ついた若い獅子がいること。性格は穏やかであること。たった1頭で生きていること。村には置いておけないこと。

 数ヶ月後に、やっと返事が届いた。獅子を見に来てくれるという。しかし、その日に、獅子がいなければ保護は諦めてほしいと言うことだった。少年が見たこともないような、大きな四駆の車がその日村に到着した。
「あの獅子だね」
若い隊員が少年に聞いた。少年は黙ってうなずいた。その獅子は、今や1頭ではなくなっていた。数日前に、倉庫で子を生んだのだ。
「まいったな。子を生んだばかりで気が立っているかもしれないぞ」
「大丈夫だよ。無牙なんだ。無牙って呼んでる。上の歯の牙が両方ないんだ。触れるよ、優しいからね」
少年は隊員が止めるのも聞かず、倉庫に寝そべる無牙の獅子に近づいた。そして親子を撫でた。
「血で顎の下が汚れているけど、生肉の血だよ。牙がないからうまく食べられないんだ。他の歯も少しないのかも。でも、もう怪我をしたのは数ヶ月以上前なんだ。それでも生きて子を生んだんだよ」
少年は涙ぐんだ。
「まいったな」
隊員はひとりごちた。
「雷牙くん、肉食の獣を手なづけてはいけないよ。それはただ生かすことより罪が重い。無牙は連れていくが、君がこんな事を続けるなら、僕たちの仲間にはなれない。獣医になる夢も向いてないから諦めた方がいい」
「もうしないよ。無牙だけだ。牙が折れても諦めずに生きた無牙。きっと動物施設では長生きするよ。お互い生きていれば、獣医になれなくても、無牙とその子たちには会えるよね?」
「そうかもね。でも、あまり期待しない方がいい。生きる世界が違うんだから」
せいぜい最後の別れを惜しむが良いだろうと隊員は、少年に誘導させて無牙たち親子を準備してきたケージに入れさせた。
「さあ、別れの挨拶をするといい」
「檻だね」
「サバンナよりはずいぶん狭い場所で暮らす事になるよ」
「無牙にはお部屋が必要だよ。倉庫に棲みついていたくらいだもの。無牙に可愛いお部屋をありがとう」
少年は隊員に礼を言って、覗き込んでいた檻から離れた。
別れの挨拶は必要なかった。お互い生きているんだから。
「牙が無くても獅子が生きられるなら、人だって銃がなくても生きられるよね」
少年は隊員が、腰に差している銃を見つめながら言った。隊員は首を竦め、何も答えなかった。
 獅子の親子が去って、普通の少年の日々に戻って、少年はなんとか大学に進学した。けれどもレンジャーや獣医にはならず、富豪になって晩年にサバンナに戻ってきたということだ。

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