東と西の薬草園⑤
前回までのあらすじ
第5話「ローズマリーと枇杷(びわ」
『果実町には、かつてどんな死の病の進行をも遅らせるという不思議な果実があった。
その果実は里に木を植えても実らないものであったため、人々は山に登り、実を干して薬として使っていた。
ところが、遠くの場所で戦があり、それに参加した果実町のものがその不思議な実のことを漏らしてしまった。
それが役人の耳に入り、その果実を一つ残らず献上するように言った。
さらにその木の葉っぱは傷に効果があり、樹液は胃腸に効いたため、葉っぱも取り尽くし、枝も全て切り落としてしまった。
翌年、山には実がならなかった。そして遠くの町では、伝染病が流行った。人々は不思議な実を欲したが、もはや1つもない。とうとう役人は、その木を根こそぎ切り倒して、灰にして持ち帰り、水に混ぜて配ったところ、人々の病は治った。だが不思議な木は1本残らずなくなってしまい、その木のご利益に頼る事はできなくなった。しかし、果実町の人は、実は里にあった実の種を山に植え直し、10年後、また実が実ようになったが、果実町の人たちは、実の不思議が里の外に漏れないよう、安易に実を頼ることはなくなった。
すると、果実町では病気になる人が少なくなり、病人を助ける人が増え、寿命が延びたという事だ。』
枇杷の実はスーパーでよく見かけた。花はこれまで見たことがなかった。黄色みを帯びたら小さな花はつつましいけれど、一本の木にたくさん咲いている。
枇杷の花の可憐に気づかず育ったのは、切り身しか知らないで魚の姿を思いつかない子どもを笑えない。
山里には海はないが、花木はたくさんある。山茶花や椿など他の香り高い冬花の影に隠れてしまっているのかもしれない。
昨晩読んだ果実町の風土誌の物語に枇杷と思われる果実があった。ガーデニングの師匠の野人に分けてもらったビワ酒と枇杷の葉っぱの湿布と何かと枇杷に凝っていたところだったから、つい夜更かして枇杷について調べてしまった。
夜が明けて、小鳥の鳴き声が聞こえだした頃に、朝食の支度をした。
今朝のお茶は果実町のフルーツフレーバーティーでなく、日本全国の巷で流行っている枇杷の葉茶。フルーツの香りが感じられるから、ある意味フルーツフレーバーティーとも言えるかもしれない。
枇杷は果実町の特産品とは言えないが、九州ではよく見かける果樹である。枇杷がいつ頃から日本にあったか分からない。しかし、訓話の通り、薬に頼りすぎるのではなく、まずは健康に気をつけて生活するのが良いだろう。病気の予防の話は、レンタルガーデンで用いるのにふさわしいと思われた。ここ最近、九州外からレンタルガーデンに訪れた人に果実町についてどんな話をするのが良いかと探していた。やっとその一つが見つかったと思うと、遥は嬉しかった。「王樹の薬」の話をして、実際に富居家の庭の枇杷の花を見るのもいい。薬草の話ならば、その道のプロである庭師の野人や料理好きの孫のカエルの方が適任だ。
フルーツフレーバーティーの人気が落ち着いて、昨年末から流行り出した枇杷の葉茶の魅力はなんといってもオシャレなパッケージにある。枇杷のあの優しいオレンジ色は全く使われず、水墨画のような色調で黒い影で枇杷の木の下に佇む貴人の姿が描かれていた。
そのパッケージを描いたのは世界的に人気な画家で、水墨画から油絵に水彩画、なんでも描けてなんでも描くという実力に似合わない節操のなさが異色の画家として人気を博している。
彼が日本の食品パッケージのデザインをしたということで話題を呼び、さらに枇杷の葉は効能が多く、健康嗜好もありお茶も飲みやすく美味しかったので人気は一過性で終わらなかった。さらに彼が無償で譲り渡したという原画は、何百億円の価値があるとも言われ、防犯の観点から、そのメーカーでの保管や展示が難しいという判断で、結局美術館に寄付されたという経緯があった。原画が寄贈された美術館の客はそれ以降2倍3倍に増えたというから、経済効果は計り知れない。
一方、10年前の一過性のブームで終わらず、ロングラン商品となった果実町のフルーツフレーバーティーのパッケージは当初あまりにもダサかったためか、商品自体も不評だった。果実町の自然の風景を素人がスマホで撮った加工なしの写真を箱紙に貼り付けてあっただけだ。当初、果実町への売却事業として考えられており、パッケージ制作も地元の工場と広告代理店に任されていた。しかし、事実を知った山鳥は容器の見た目を改善しようと、まだたいして売れる見込みもないうちに、発売から半年ほどしてコラボに売って出た。20年ほど前にアニメ化した漫画の作者からその漫画のキャラクターたちの提供を受けたのだ。1年間放送された20年前のアニメを覚えている人は意外に多く、その反響から果実町に興味を得た作者が移住してくるまでに至ったのである。奇しくも枇杷茶は山鳥のフルーツフレーバーティーと同じ戦略でブームを作り出したことになる。
漫画の作者はその5年ほど前に筆を折っていた。しかし、フルーツフレーバーティーの仕事をきっかけに漫画に対する意欲を取り戻して、半年前から果実町を舞台にしたの執筆を始めた。当初は4回の連載で終わる予定であった。しかし、作家の描きたい意欲はさらに高まっており、続編の連載を雑誌社に懇願した。
ところが、雑誌社としては当初より未完に終わっていた20年前の名作の続編を期待していた。その認識のズレによって、悲しいから話は物別れに終わり、失意の漫画家は果実町に引きこもってしまった。
食料品や生活必需品の類は全てネットで買い込み。朝晩涼しいうちのベランダの鉢植えの世話の外は、外に出ることもない。
ところがだ。その漫画家が、果実町のレンタルガーデン事業に申し込んできたのだ。
一体全体どういう風の吹き回しかと4人はその動機を測りかねた。とはいえ、カエルと霞の2人は漫画の熱心なファンで本物に会えると盛り上がっていた。2人とも学生の頃その漫画を読んでいたらしい。アニメ作品は20歳頃に描いたらしいから、作者は今40代。
遥たち同級生よりちょっと年上。香よりは一回り上だ。
実際会ってみると、引きこもりと思えないほど漫画家・野沢湧水は気さくで、遥は困惑した。湧水が遥にばかり話しかけてきたからだ。
果実町のフルーツフレーバーティーを成功させた立役者の一人であり、人気漫画家だ。いきなりイベントに他の客とまじって参加してもらうよりまずは、別荘に住む山鳥の会長夫妻と孫娘の香を含めたレンタルガーデン事業にかかわる4人で茶会を提案すると、電話口の湧水は少しもためらわずに承諾した。その時から、人見知りの割に物怖じしない感じの人だという印象はあった。遥ならば、いきなり山鳥の会長夫妻に会うとなったら、丁重にお断りをしてしまうかもしれない。未だに、香がいてさえ、話しかけられるとびっくりして声がひっくり返りそうになるくらいだ。
「いやぁ、先日こっそり庭を見に来まして、こちらの庭のことをお話に聞いてはいたんですが、あまりの美しい庭に感銘を受けました。この美しい庭の手入れをしている人はどんな人だろうかと思ったら、野人さんは有名な建築家らしいですね。そのお手伝いさんと言ったら、学ぶことも多いんじゃないでしょうか。ぜひ僕もお仲間に入りたいなぁ」
「私は別に野人さんのお手伝いってわけじゃないんですけど。それにレンタルガーデンの庭なら、井中さんのローズガーデンの庭はなかなか見事ですよ。お孫さんなんです。今ご覧になられますか」
どちらかと言えば、遥は富居家のお手伝いさんだ。この山の上の別荘の管理人になった時は誰も住んでいなかったが、最初に香、次に会長夫妻が移り住み、週1の清掃の手配や家の中に必要な家具の買い出しやタクシーの手配など、細々とした用事を頼まれることが多い。とはいえ、スケジュール管理など秘書のようなことは孫の香が請け負っているから、多少のミスが致命的にならないのは気楽だった。
レンタルガーデンの責任者になっただけで、遥には十分荷が重い。
「僕もここで庭を借りてガーデニングを数か月前に始めたばかりなんですけど、よければご案内しましょうか。今は冬薔薇で少し寂しいですけど、じいちゃんがやってくれたいところもあるんですよ」
「いいですね。ではハルさんも?」
漫画のファンで社交性の高いカエルが積極的に話しかけるが、湧水は遥の方にすぐに向き直ってしまう。訪れる人に親しみを持ってもらおうとネームプレートにはそれぞれ、『ハル』『カエル』『キリミ』『カオリ』と愛称でかな書きすることになった。だから、出来立てほやほやの名刺を渡しても、書体面の人から”ハルさん”と呼ばれることはない。まだ慣れないために、なんだか落ち着かない気がするのだろうか。遥はどうも社会的地位のある人物を相手にすると委縮してしまう性質だった。そういう社会のつまはじき者としてのコンプレックスだろうか。
「カエルくん・・・井中さんの庭の案内なら井中さんがいいですよね。お師匠仕込みで富居家の庭の植物の名前も詳しいんです。私はちょっとお茶を淹れなおしてきます」
秋も本格化し、富居家の山のは赤に黄色と彩られている。朝晩は冷え込むものの、今年は異常気象による暖冬になるのか、寒暖差が足りず里の紅葉は今一つだ。学校の銀杏並木はすべては黄色になり切らずに散るだろう。日中日差しが暖かいうちにとクリスマスリースづくりの日程を11月前半に設定したが、薪ストーブで暖を取り12月の外でやるのも風情があって良かったかもしれない。
外は冷えるだろうと今日は全員分のブランケットを用意したが、椅子の背もたれにかけっぱなしで誰もつかっていなかった。薪ストーブも途中で火をくべるのをやめてしまった。
過ごしやすい気候に感じても、秋である。高齢の会長夫妻と野人の身体が冷えてしまうのは、心配だ。皆腰が重いが、最後のお茶のつもりで遥は立ち上がった。それに客の湧水が庭を見て回って満足してそろそろ帰ると言ってもらえばお開きにしやすい。
しかし、そんな遥の目論見は外れ、「じゃあ僕も案内はいいです。さっきも見ましたから」と湧水はすげなく断り、結局カエルと霞が帰って香たちが屋敷の中に戻ってからも、遥を質問責めにして夕方まで離してくれなかったのだった。
「庭じゃなくてハルさんに一目惚れしたんじゃないの?」
翌日の朝、日課の庭作業に一緒に精を出しながら、遥はどこか楽しそうな香にそう聞かれたが、そうは思えなかった。こっちも独身なので、もし好意を向けられているなら嬉しい気持ちはある。ましてや相手は人気漫画家だ。悪い気はしない。しかし、傍からは湧水が遥に好意があるように見えるにせよ、彼は本当に無邪気な好奇心で質問していただけのような気もするのだ。
レンタルガーデンの事業者側でありながら、遥の園芸に対する知識はまだまだ乏しい。野人からどんなふうに何を習っているのか根掘り葉掘り聞かれて、あまりわからないと言うところをさらけ出すのもデンタルガーデンを行う上で外聞が悪いかと思い、昨日は一生懸命に答えを探して疲れてしまった。もしかしたら知ったかぶりをしてしまったかもしれないという不安があり、自分にも春が来たとかそういう浮ついた気持ちにはなりきれなかった。期待してがっかりするのが嫌なだけかもしれないが。
湧水の話題で盛り上がっている香と遥を尻目に、霞とカエルはいつになく言葉少なだった。日曜の朝は庭の手入れをした後、何となく昼ご飯を一緒に食べて映画を観るのが自然な流れになりつつある。いつもなら、来冬には富居家のこの山の広い駐車場を使ってドライブシアターをしようという話題になるところだ。映画や読書好きの4人だから、どのジャンルのどの映画を上映したいという希望で話は尽きることがない。
しかし、香の屋敷の大きなプロジェクターに映し出されている話題のドラマに夢中になっているのかと思った二人は、CMの合間の漫画家の話が終わると、ドラマの途中で席を立っていってしまった。カエルの行き先はいつも決まっている。富豪家の台所だ。
「どうしたんだ途中で席を立つなんて。」
「いやちょっと胃が痛くなってきて」
「大丈夫か。いや、それってさぁ…」
霞は言いかけて、止めた。4人の中で一番気力が充実していて、週末の集まりを楽しみにしているのはカエルだから、そのカエルが元気がないというのはほとんど初めてのことだった。そもそも他の3人が体の不調を抱えているから、自然健康体のカエルがいつも元気に見えてしまう。
「何か作って食べようかな」
「腹が痛い時に何か食べないほうがいいんじゃないか。今日はもう帰るか。薬でも買ってこようか」
体調が悪くても、とりあえず料理をしようとするカエルに霞は呆れた。カエルの料理好きは筋金入りである。
「いや、気持ちと胃が落ち着かなくてさ。もう鍋の下ごしらえしてあるんだ。苦茶があるからそれを飲もう。それでよくならなかったら、夕飯用の料理だけして帰るよ」
自分は食べないのに料理だけして帰るなんて、まるで富居家専用の週末コックか何かなのかとは霞は突っ込まなかった。カエルが仕事などのストレスを料理で発散する性格であることが、最近分かっていたからだ。週末に遥たちに料理を食べてもらえることがこの町に移住してから、カエルの活力になっていた。その料理の材料や飾りも自分の手で育てられればなおいいが、秋口に仕事が忙しくなってから、世話のほとんどは遥と野人に任せきりになっていた。体力も回復せず、今日は久々だったこともあってか、寒さに耐えられず、皆がそろそろ切り上げて部屋の中に入ろうと言った時には、心底ほっとした。一緒に来た野人は、会長夫妻といつものごとく茶を飲んでいて、途中で声をかけるのも憚られた。
移住したら、毎月祖父の野人を旅行に連れていくと請け負っていた。しかし、引っ越してすぐは何かと気ぜわしく、さらにすぐに富居家の野人の庭にカエルの方がのめりこんでしまったから、旅行に連れて行くという約束は果たされないままだ。
年末にどうかと誘ったら、年末年始は旅行代金が上がるから馬鹿馬鹿しくていやだと断られた。そうなると、当面カエルにはおじいちゃん孝行する機会はない。家事だって、カエルがやらないならやらないで早くに連れ合いをなくした野人は手際よくこなしてしまうのだ。
「苦い茶?」
野人特製の草汁をコップに注ぐ。霞の分もコップを差し出すと、霞はためらいなく一気に飲み干そうとした。
「うわ。なんだ?青汁?薬草茶の類だと思ったのに」
まるで騙されたと言わんばかりの口調に、カエルは飲んだばかりの苦茶が効いたかのように胃の腑の不快感が一瞬だけ薄れて微笑を浮かべた。
「じいちゃんが作って置いていってくれてるんだ。センブリだよ。罰ゲームで飲まれたりするけど、もともとはお腹にいい薬草茶なんだ。千回振り出しても苦いってやつだから、味はいかんともしがたいんだよな。じいちゃんは本当に何でもかんでも干して取っておくんだ。庭師というより薬草の研究の鬼だよ。でも、ちいちゃんがうらやましい。ちょっと今の職場の責任がきつくてさ。どうにも気が滅入っているせいか、気分が浮上しないんだ」
「きついなら今日も休んでよかったのに。3人でももあったし他に手伝いを呼んでもよかったんだ。ハルさんも俺たちをあてにしすぎだよな。他に仕事もあるって言うのに」
「いや、まぁな。でもここに来たい時が多いからな。来にくくなったら癒しがなくなっちゃうよ」
「まぁ、そうだな」
視線を落としたカエルは気づかなかった。台所の入り口近くで遥は2人の話を聞いていた。霞は遥に気づいていてわざとそんな嫌みを言ったのだ。年末が近づいてどこも忙しい時期に、他に仕事のある3人は到底副業のレンタルガーデン事業まで手が回らない。
遥以外の3人の忙しさを霞は常々察して欲しかったのだが、遥は気のつくタイプではなかった。かといって、それをまぁ正直に言って、遥がまともに受け止めて、他に手伝いを呼ぶから数ヶ月来なくていいとでも言われると、それはそれで自分たちの庭が見られなくなると霞だって寂しくなるだろうから、人間の気持ちはままならない。
特に家業の酒造会社を手伝っている自分より忙しそうな雇われのカエルが何も言わないので霞も言い出しづらかった。遊びに来るのはいいのである。他の客抜きで、今日みたいに半日レンタルガーデンの手入れをしてドラマを見て茶会をするくらいであれば。問題は毎月のイベントの準備に追われていることだった。正直、そちらの準備は遥が一人でやるべきではないかと霞は思っていた。講師の手配やイベントの準備物の買い出しなど正直煩わしいのである。
霞は、カエルがイベントにどれくらい率先して関わりたがっているか分かっていなかった。カエルの悩みは実は霞が考えていることとは逆だったのだが、他人を鈍感だと思っている時は自分が鈍感であることなど気づけないものだ。
それにカエルがここに足しげく通うのは、庭作業に夢中になっているとかそういうことだけだろうかと霞は邪推する。
初めて茶会をした日から、二日と空けず、漫画家・野沢湧水はやってきた。普段は手ぶらだが、その日は早朝から銀杏をどっさり手土産に。朝早くから連絡なしに押し掛けて来られるのも困るが、大量の銀杏を押し付けられてもどうしろと言うのか。
「炒って食べたらいいんでしょう」
銀杏の食べ方を知らないという遥に、湧水は機嫌よく答えた。その笑顔が信用ならなくて、少し離れた場所にいる野人に聞いてみようとして、遥は止めた。忙しく作業している野人をネットで調べればわかるような質問で煩わせるべきではないかもしれないと思ったのだ。
今朝は会長夫妻や香たちを起こしに行かず、少しでも庭作業がしたかったのにと香は残念そうに既に外で作業していた遥に声をかけて仕事に出かけていった。寒くなってくるとなかなか起きられないから、朝はできるだけ声をかけて起こしてほしいと日頃から言われていた。特に昨日の夜まで香といて、明日も庭作業しようと張り切っていたから、遥がきっと起こしてくれると期待していたのだろう。
今朝は遥もよっぽど起こそうかと思ったのだが、昨日霞の言葉を聞いていたので、香も仕事で疲れているのではないかと躊躇ってしまった。
この山の持ち主である山鳥の会長夫妻の孫である香は、言うまでもない大企業の社長令嬢。レンタルガーデン事業は香が言い出して始まったことだ。関わりたくないはずがないが、それでも優先事項が他にあるんだろうかと昨晩は延々と遥も考えてしまった。
「すぐには食べられないんじゃないですか。ネットで調べてみますね。」
寝不足で気もそぞろ。遥が不機嫌に言っても「じゃあ、食べられる日に来ますね!」と湧水は笑っていた。自分で調べて食べる気は全くないらしい。銀杏はきっと誰かからのもらいものなのだろう。
そして、ずうずうしくも、山の小鳥に余ったパン粉をまいていると「僕も朝食とってなくて」と言い出して、部屋に招かざるを得なくなった。野人やカエルとだけ食べるというわけにはいかないからだ。
最近、カエルは忙しさに加え、片腕を骨折し、朝食を作る暇も手段がないということで、朝早くから山に野人を預けていくようになった。野人は空いている丸太小屋(ロッジ)を借りて、庭作業しない日中の時間を過ごしている。免許を返納しているから、自由に自宅と行き帰りできないのが不便だろう。遥にとってはガーデニングを教えてくれる師匠だから「送り迎えくらいやります」と言っては見たが、まさかカエルの通院まで手伝うことになるとは思ってもみなかった。一日に何回も山を下りるのに、一向に運転の腕が上がらないのが悩みの種だ。
「ここでも、ウォーターサーバーがあるんですね」
ソーセージと卵焼きを4人分二つのコンロで、さらにトーストをホットプレートで4枚焼くと、普段から乾燥ハーブで香しい遥の借り家にはさらに香ばしい匂いが漂った。遥は部屋中の良い香りに機嫌をよくして野菜を切りながら、サラダを盛り付け、振り返らずに機嫌よく答えた。
「この近辺の果実町以外の山の下の水道水はもうどこも飲めませんよ。20年前までは大丈夫だったんですけどね。ここ数年前からですかね。土壌に窒素が溜まってたり川の水が汚れたりしているらしいですよ。都会みたいに立派な浄化槽を作るには予算が必要ですから、また10年かけて川の水と土壌をよくするのとどっちが早いかとなって、県の方針もあって土壌をよくする方を選んだみたいです。どのみち農業や鮎産業を捨てられない地域ですから」
「ああ、ダムがありますもんね。いや、ダムは関係ないか。僕はそういうの詳しくなくて」
「私もあんまりよく解りません。ギリギリ1900年代生まれの現代っ子なんで」
ふざけて言ってみたが、冗談が通じたのはカエルだけで、「現代っ子って言葉が古いよ」と調子よく答えて笑ってくれた。
「ダムを越えて上流の方まで行けば湧き水が飲めるのかな。野人さんは知ってますか?」
「湧き水の飲みたかね(飲みたいのかね)。湧き水ならそぎゃん上の方に行かんでも飲めるばってん(飲めるけれど)、足の悪うなったけんな。車を出してもらわんと無理ぞ」
「何せ、自分の名前が湧水だから、湧き水にはずっと興味があったんですよ。でも、今までこれといったものに出会わなくて」
食卓に朝ごはんを並べながら、視線を向けられ、遥はロッジの中の温度が少し下がったみたいに身を縮こませた。
「じいちゃんが道案内をしてくれるなら、俺の骨折が治ったら連れていきますよ。俺も湧き水飲んでみたいし。春になったら山登りに行きませんか。レンタルガーデンのメンバーでも、一度山登りに行きたいと言ってたんですよ。この辺、そこそこ標高の高い山があるんですよ」
「ちょっと!私は山登り自信がないんですよ!途中でばてて帰るかも」
「大丈夫。疲れたら荷物くらい持ちますよ。いやあ、山登り行きたいなあ。身体がなまってるから、春まで走ろうかな。それに湧き水は、自分で運転してもいけますからね」
とんだ引きこもりもあったものである。遥は学生の時以来、山登りどころか走ることすらしたことがない。
それなのに、話し上手な二人に押し切られ、カエルと野人の送迎やレンタルガーデンの手伝いをしてもらうことを条件に、ランニングや山登りに付き合うことを約束させられてしまった。
「そういえばクリスマスカードが好評でクリスマスリース作りに参加してくださる人が多いですよ」
「本当ですか。じゃあ、参加してくださった人用にクリスマスポストカードも作ろうかなあ。昔のキャラクターは無理だけど、鳥なんてどうですか?僕は結構鳥を描くのが得意なんですよ。なんなら人間より」
「わあ、ならミミズクはどうですか?町の鳥なんですよ」
「え?そうなの?」
「そうよ。ハルさん、生まれ故郷の町の鳥とか蝶とか知っておくといいよ」
「それなら、蝶は?」
「それは、知らない!」
香が元気に答えて、3人には自然笑い声が起こった。湧水は根が正直者で、とりとめのない話にも根気よく付き合ってくれて、話していて気持ちのいい人物だった。押しが強くて、毎朝カエルたちの送迎がてら、庭作業と朝食を食べていく図々しさにも、3日で慣れた。
「クリスマスポストカードぜひ作ってくださいよ。ちゃんと報酬払いますから」
「じゃあ、張り切ろうかな。大丈夫ですよ、評判がよくなくて、シリーズ化しなくておも、打ち切りは慣れっこの自称漫画家ですから!」
自虐的な発言も、言い方が明るいので気を遣わずに済む。
一方で、遥たちが和やかに庭の手入れをしているのを霞とカエルは複雑な思いで見ていた。
ここひと月、山の”富居別荘”に通い詰めの湧水の作業は手馴れていた。元は仕事柄の通り色白でふっくらとした体つきも、ひと月のランニングでずいぶんと引き締まり、日焼けした。庭作業の後、1万歩を目安にこの山を走っているということだから、体力もずいぶんついたことだろう。重たい土袋一つにしても、霞とカエルが25Lを引きずっているところ、湧水は二袋を肩に担ぎあげて運んでしまう。
「俺はここで数か月何してたんだろう。もっと園芸も体力づくりもしておけばよかったな」
骨折が治ってやっとひと月以上振りにレンタルガーデンの作業に参加したカエルは暗い表情を見せた。湧水が送迎してくれるようになって会社に直接送ってもらっていたから、山に来ること自体が久々であった。
骨折で有給を申請したものの、会社がちょうど繁忙期で認められなかった。不動産の営業の他に会社で唯一のSE担当でもあるので、なかなか替えが利かない。
多忙と怪我、というより、楽しみがなくなった心労でカエルは周りが心配になるほど窶れてしまった。
「じゃあ、一緒にここでランニングしませんか。春に登山するまでにお互い鍛えておかないと」
「そうですね」
今日帰宅する前にもランニングの約束をしたものの、カエルの表情は晴れなかった。
「クリスマスリース作りのイベントは、ゆうさんに手伝ってもらおうと思うんです。参加者が多いから、4人と講師の先生だけじゃ手が足りません。参加者が100人。ゆうさんを淹れたら5人になって、一人で20人。車座になれるテーブルとプロジェクター。軽食にお茶。さらに参加記念のポストカードまで作ったら、今回はイベントを企画して初めての赤字になると思います。でも、レンタルガーデンの体験も2月・3月で200組埋まっているから、10分の1でも契約にこぎつけたら、全体でみれば赤字になりません。ただ、正直、私とお師匠さんの野人さんだけでは、手が足りないと思っています」
11月に入り、霞とカエルが忙しいことは重々分かっていたが、カエルの骨折がほぼ治ったタイミングで、遥はみんなに集まってもらった。当日の運営について確認が必要だったのと、何よりリース作りの練習をしなければならなかったからだ。遥はセンスはともかくここ1か月毎日作っていたから、作るだけなら造作もない。おかげで、今遥の借りているロッジは壁中にリースが飾られている。出来のいいのだけ残してばらすというのが、遥はできない性格だった。
元々遥以外は器用なメンバーなので、予想した通り教えてすぐにコツをつかんだ。事前に念のため明日も練習したいと言っておいたが、希望者だけで、後は家で練習すればすみそうだ。しかし、さすがに来週に100人規模のイベントとあって、全員が明日の練習を希望し、いつもの流れで、泊まり込みの話し合いになった。
昼食と夕食は、久々のカエルの手料理・・・ではなく、4人にはリース作りを練習してもらって、その間に遥が作った。
野人や香の祖父母の鷹之と華の分もあるから、総勢8人分。昼食は炊き込みご飯と煮物と漬物など子どもの時から食べなれた味でしのぎ、夕食は洋食好きのメンバーのために、手間をかけた。蕪のポタージュとグラタンはシンプルなジャガイモだけのドフィノワ、鱈のムニエルにベビーリーフを同じ皿に飾って、遥が好きなドレッシングをかけた。パンはロールパンをカエルが焼いてきてくれたので、皿に盛るだけでよかった。
さらに食卓の準備をしている最中に、鷹之が嬉しそうに白ワインを出してきたので、そのつまみになるというチーズを冷蔵庫から取ってきた。
てっきり地元産の売り物かと思ったら、香と華の手作りだった。
「ハルさんが作ったの?カエルくんかと思ったわ」
「とんでもないです。お二人が作ったチーズがあるならそれを使ってグラタンをつくればよかったですね。作る前に聞けばよかったです」
「いいのよ。あんまり出来がよくないと思っていたから。おじいちゃんが勝手に頼んじゃうんだもの。でも、食べてみたら味はそんなに悪くないかな?お塩かけたら」
「おいしいですよ。俺も手作りチーズ体験したいなあ」
「いえいえ、これは体験教室で作ったんじゃないですよ。ただの趣味です」
好奇心旺盛な湧水が手放しに褒めると、香も華も満更でもなさそうな笑顔を見せた。
富居家の人たちはほとんど料理をしないそうなので、作った人間に気を使ったのかもしれないが、思いの外料理が好評で、話が弾んだ。
しかし、和やかな雰囲気にかえって遥は勇気を出すのが遅くなった。
今日は大事な話をするために美味しい料理を作ろうと気合をいれたのに、結局食後のお茶を飲むときにしか言い出すことができなかった。
「あの、以前お話したと思うんですが、レンタルガーデン事業はやっぱり赤字にならないようにしたいんです。警備員の方が先月から常駐しているのは分かりましたが、ガーデンの方も協力してもらうのも気が引けて。それで、素人で申し訳ないんですが、大体どれだけの売り上げになるのか考えてみました。一区画は5千円。これは譲れないラインではないかと思っています」
レンタルガーデンは来年4月オープンの予定だ。一区画は畑を貸すときを基準に野人に測ってもらった。今でも大体整備して100区画は貸せる。
富居夫妻は地域の振興に熱心だから、土地を遊ばせておくよりは、千円でも借り手がいるなら貸していいと言われた。しかし、100区画を千円で貸しても10万円にしかならない。遥の給料分にも満たない金額だ。イベントに人を100人集めても、参加料が知れているうえ、さらに今回みたいに人手がかかる。
それで、遥は以前から、宿泊事業も提案していた。
鷹之はこの山一帯を買い取って、杉を伐採し広葉樹などに植え替えることを行っている。レンタルガーデンのオープンにさらに見栄えがいいようにと山を登ってくる道沿いの植え替えも進められている。地元の林業に野人の顔が利くから理解してもらえてはいるが、どれだけ金がかかっているか野人に聞いて地元の人が酔狂な慈善事業と首をかしげる理由を理解した。
植樹事業の金は返せないと思うが、その慈善事業の一環で雇い続けてもらうのは、遥も立場がないというか、居心地が悪いと気づいたのだ。
そこでどうすれば、人件費を賄えるのか、素人なりに考えた。
1月2月は寒いのでガーデニングシーズンではない。その時期には畑貸しの時も料金を取らないところもあると遥はネットで調べて知った。そこで、1年のうち2か月無料。ガーデンだけならレンタル料は一区画5千円(100区画)。イベント参加費とロッジ月額に含めて1万円(25組限定)。イベントは1回3千円(別途諸経費)。ロッジ1棟貸し1泊7千円(土日限定20組まで)。
鷹之は必要なら既に100台車を停められる駐車場を広くして、200台にしてもいいと言ってくれたが、その既に整備された広場はオートキャンプ場にすればいいのではないかと考えた。1泊利用料1,500円(土日限定20組まで)。山なのでツーリングのバイクも通るし、需要があるかもしれない。星も綺麗に見える。
取らぬ狸の皮算用だが、全て売り切れたとして、月の売り上げを考えてみた。ロッジ付きレンタルで25万円。レンタルガーデンが37万5千円。ロッジ宿泊14万円×4週=56万円。オートキャンプ3万円×4週=12万円。月の売り上げが130万5千円。
イベント22万5千円×年12回=270万円
レンタルガーデンが年625万円。宿泊事業が816万円。二つで年1,771万円。
初年度の売り上げは3分の1もいかないと思うので、480万円くらいか。人件費は遥だけでも月30万円×12月=360万円
年800万円以上売り上げないと赤字ではないか。事前準備にはは植林等は分からないが、区画の整備やイベントの企画、協力してもらったカエルと霞のアルバイト代などすでに200万円はかかっている。
正直、野人がライフワークとしてこの富居の山を手入れしてくれて、レンタルガーデン事業にも無料で手助けしてくれるのは助かる。しかし、それを永遠に続けてもらうわけにはいかない。山も物騒だからと鷹之が果実町のこの屋敷に移住してきて雇った警備員が昼夜いてくれて、畑の見回りをしたり手入れを手伝ってくれるのは、遥も女一人で不安なので、助かる。しかし、その人件費は本来レンタルガーデン事業で考えなければならないものだ。
「ハルさん、レンタルガーデン事業に人件費をかけられないことはわかったけど、この山のマルシェとレストランは自分でやるつもり?」
遥の下手くそな事業計画書をじっと見つめて、聞いてきたカエルが何を期待しているか遥はわかった。しかし、それに明確に答えることは避けた。
「正直、宿泊事業とレンタルガーデンがそんなにうまくいくとは思ってないんです。最初上手くいっても、飽きられるかもしれないし。この山に泊まりに来るのに食べ物を自分たちで準備するのは大変かなって。レストランがうまくいけばそれにこしたことがないんじゃないかっていう素人考えなんですけど」
せっかくその道のプロの野人がいるのだし、レンタルガーデンでなるべく花やハーブを育ててほしいと遥は考えているが、やはり霞のように野菜を育てたい人もいるだろう。それをこちらで収穫して送るのは手間がかかる。もちろん収穫期に庭の世話をしにくる人もいるだろうが、それを自分たちで食べきれないということも考えられる。せっかくなら、庭の花や野菜などの作物をレストランにおろせば、それが収入になる。例えば代わりに収穫するなら収穫費用500円。マルシェの買い取りが段ボール1杯で買い取り1000円。
マルシェレストランで売り上げを年230万円以上目指す。これを来年夏くらいに開業できたらいい。開業準備は遥ができる限り自分でしようと考えていた。料理の価格は一律千円でどうだろうか。お茶もセットで。
1000円×25人×4回転×年100日営業=1千万円(Max)
マルシェとレンタスガーデンと宿泊事業で年2千万円になれば、人件費も出るのではなかろうか。
土地を貸す以上のことをしようとすればするほど、余計に人件費がかかりそうだ。しかし、本業の繁忙期にガーデン事業に駆り出される霞のボヤキを聞いた時に今のように霞とカエルの好意に甘えていられないと気づいた。
何となく地域振興のボランティアのような気持でやっていたから、カエルたちを便利なお手伝い扱いしてしまっていたのだろう。
けれども、本当にレンタルガーデン事業で町を盛り立てたいなら、富居家のボランティアであっては駄目だった。
「いいんじゃないか。遥さんの好きにやったらいいよ。わたしはね。遥さんのような地元の人がどうしたらいいか、一生懸命考えてくれるだけでうれしいんだ。若い人は失敗したがらないが、私は失敗してもかまわないよ。私はね。台湾で10歳まで育って、日本に来てからは転々とした。飲料メーカーを立ち上げて、本社を東京に移して何十年。でも、東京が帰る場所だという気もしていない。帰る場所のある人が、本当にうらやましんだよ」
気づくと、鷹之は涙を浮かべていた。フルーツフレーバーティー事業がうまくいってから、鷹之はずっと果実町のまちづくりに貢献し続けている。ひとつの町を自分の理想に育てあげたいという情熱は老いてなお、遥たち以上に燃えていた。
食事を終えた後、小一時間ほどみなでレンタルガーデン事業をどうするか、結論のでない理想論で意見交換した後、カエルと霞が遥の借り家を訪ねてきた。
本当は別々に話したかったが、かち会ってしまったものは仕方ない。遥は二人を招き入れ、ドライフラワーでいっぱいの部屋でさらに桃のフレーバティーで甘い香りを足した。
「実はカエルくんとゆうさんと二人とも、香さんにレンタルガーデン事業で雇ってもらえないかって相談したって聞いてるの。お給料が少なくなるから香さんが華さんに相談して、お給料が少なくなるから、今の仕事をつづけた方がいいって言われたんでしょう」
直接聞いたことでないのを二人に明かすのは心苦しく、自然と遥の視線は下に落ちた。紅茶のくねくねと迷いのある湯気が、今の遥の心情とよく適っていて、砂糖を加えて甘いはずの紅茶が苦かった。
「いやあ、ぼくはアルバイトでもいいんですけどね。ここの庭がいいなって思って、遥さんのように山籠もりして暮らすのも楽しそうだなと。静かでここに来るとすごく絵を描きたくなるんですよ」
湧水は明るく言ったが、それが山鳥のガーデン事業で働きたい一部であることを遥は知っていた。
「レンタルガーデン事業は今のところ、イベントは好評ですが、借り手がこれから現れるかどうかも分かりませんよ。わたしの心がそれで折れて真面目に仕事をしないかもしれないのに、それを含めて漫画にしてみたいんですか」
「あはは。気づいていましたか」
「だって、観察しすぎですよ。レンタルガーデン事業をノンフィクションの漫画にするのはいいですが、ドキュメンタリーにするには私が引きこもりすぎて、出会いも何もないかもしれないですけど」
「いいんですよ。静かな美しいここの風景があれば。前に果実町の漫画が描きたいと言ったら、出版社のどこでも断られて。でも、レンタルガーデン事業はちょっと面白いとのってもらえたんですよね。いいんです。また果実町のフルーツフレーバーティーのパッケージの柄を描かせてもらえる話もありますし、収入には困りません。出版できなくても、今は趣味で描いてネットで発信するという手もありますからね」
そうまでして描きたいのか。果実町を。
はたらくことは、金を稼ぐことだと思っている遥には分からない感情だ。
「実は、香さんと華さんにレンタルガーデン事業に人手が必要なら、私に誰を雇うか一任すると言われたんです。ここを取材して漫画や絵を描きたいなら、私はいまのようにパートで働いてもらえばいいのかなって思っています。福利厚生が不安なら、契約社員として働くのはどうでしょう。でも、どのみち、まだアルバイトでいいかなと思っています。漫画を出す?目途があるなら、そっちが忙しくなる可能性もあるでしょうし。」
「まあ、そうですね。漫画が絶対ダメってなったら、お願いします」
「はい。それで、カエルくん。井中さんはどうしたいですか。面接のつもりで聞きますけど」
遥はこれまで職を転々とし、上の立場を経験したことがないので、人事などもちろん任されたことはない。ただ、採用面接は何度も受けている。いろいろ言葉を重ねてカエルに苦い思いをしてほしくなかったので、端的に話した。
「俺は自分の理想が固まらないうちに、会長夫妻に相談したんだよな。じいちゃんみたいな庭師になりたいとも思うけど、育てたもので料理もしたいんだ。かといって調理師免許をとって、どっか外国で修行するっていうのもなんか違うんだよ。今の仕事もそうなんだ。宅建や建築士の2級、プログラミングにSEとかホームページやチラシのデザインなんかもやってるけど、イラストレーターってうでまえでもないし、不動産会社を自分で作って身を立てたいわけでもない。でも、どっちで働くかって言われたら、じいちゃんが作ったこの屋敷の庭にいたいんだよ。30歳超えてさ。自分探しはみっともないかな」
カエルはガーデニングや料理を趣味で終わらせたいのか、はっきりしないようだ。しかし、実はもう少し考えるように伝えなさいと言った富居夫妻はカエルがレンタルガーデンで働く意思を持っていると知り、非常に乗り気だった。これまでのスキルを活かして、華の秘書をしてもらってもいいし、山鳥には不動産管理部門もある。その傍らこちらで、ガーデニングや料理を楽しんでもいい。あるいは調理やガーデニングの資格を取りたいなら、そのための研修制度を利用してもいいと会長夫妻は香に話したたらしい。
「別に転職するときにはっきりこの会社で何がしたいって決まってなくてもいいんじゃないかな。正直、私はレンタルガーデン事業に乗り気じゃなかった。気楽な別荘管理人がよかった。香さんとカエルくんに引きずられたんだよ。やる気も理想も十分にあるんだから、カエルくんが働いてくれるなら心強いよ。お給料は私が考えることじゃないかもしれないけど、さっき言った通り土地を単純に貸す以上の手間をかけすぎてるから、そのままじゃ赤字かなって思ってる。レストランの話は、正直カエルくんに提案するつもりで話したよ。やりたいことができるんじゃないかって」
ただ大学を出ただけの遥にしてみれば、カエルは器用貧乏でなく、どこでもやっていけるスキルが十分に備わっている。ただ、レンタルガーデン事業みたいなすごくうまくいくことがまだ想像できない仕事にのめりこむことがそれまでのスキルを活かせず、もったいないのではないかと心配しているだけだ。
「実は、もう会社に辞めるって言ってあるんだ。いつやめるか決まってないけど、他の仕事を優先したいって思っているのに、今の会社で働くのは無理だなって感じたから。俺、子供の頃はじいちゃんみたいな建築士とか造園士になりたかったんだよ。途中でなぜか違う道に行っちゃったけど。でも、ここにきて、ハルさん見て、理想の暮らししてるなって思ったんだよ」
理想だろうか。でも、確かにここの管理人になって遥も自分にあった時間の過ごし方をしていると感じる。部屋の中は誰かに自慢したいほど、花で飾りつけられて可愛く、よい香りがする。誰かに厳しくとがめられることもない。
だが、遥はもう結婚とかすることがないだろうから、今のような暮らしで満足だが、男性のカエルはまだ結婚する可能性は高いし、ここで結婚して子どもを育てることを想像できているのだろうかとつい余計な想像をしてしまう。遥が今もらっている給料は決して子供を育てるのに十分とはいえない。
「私ね。前に勤めた支店で、上司からここの支店は赤字だから、お前たちは他の支店や本店の売り上げで給料をもらっていることを考えて、現状をどうにかするために努力しないと迷惑をかけ続けることになるって言われたの。入社してすぐの歓迎会の1回だけだけどね。実はそれを、山さんがカエくんに『本業が忙しいのにレンタルガーデン事業に気軽に駆り出されても困る』って台所で言ってるのを聞いて思い出したの。それで、レンタルガーデン事業って今は赤字で回ってないんだなって気づいたの。でも、前にいた会社はさ。すでに人手も足りなくて、実は会社自体沈没寸前だった。だから辞めたんだけど、かといって、今度のレンタルガーデン事業を山鳥におんぶにだっこの慈善事業にしたくないなって思ったの。もしかしたら、1年も続かないなと思って準備したくないもんね。ただ、私たちが楽しんで終わりじゃ、途中でやりがいもなくなるよ」
「まあね。庭のない人に庭を提供して、植物を育てることを楽しんでもらって、それをマルシェにおろして、料理にして食べて、食べるだけじゃなく、アロマや化粧水や今回のようなリースの装飾品を作って、自給自足。理想の暮らしの体験があるよな」
「理想だよね」
「理想だね、続けば」
レンタルガーデンは月払いもできるが、年契約にする予定だ。1年も体験すれば飽きるかもしれない。遥もずっとここで働き続けられるか自信がない。レンタルガーデン事業が失敗して、元の別荘の管理人に収まっても満足できないか、いたたまれないかもしれなかった。
「ははは。まあ、あまり思いつめないことですよ。ぼくは連載の打ち切りを何度も経験して、続かないってことに慣れましたよ。それでも紙面に乗れて描けただけでよかったと思えるようになったら、ヒット作が生まれて、それが終わったら、なかなかいいものが描けなくなったんですけどね。まあ、漫画家になりたい人間はたくさんいるから、出版社にも事情があっただろうし、自分の実力不足だけじゃないって思ってますよ。そうは言っても、ここ数年拗ねて引きこもってましたが」
世の中の事情が分かっていても、納得できない気持ちが残り、打ちのめされて気持ちが浮上できないことはある。湧水の言葉に納得しながら、遥がお茶に口をつけると、湧水はそれにしてもと言葉を続けて、キラキラした目で遥を見た。
「1人で山ごもりする秘訣って何かあるんですか。厭世的になったきっかけでもあったんでしょうか。こういう山に一人で籠って生活するって尊敬しますよ。その手があったかと」
遥は湧水の言葉にガクッとカップを持った右手がテーブルから落ちそうになった。なるほど、湧水が遥に興味を持った理由はそれだったのだ。湧水は引きこもり仲間として遥を見ていたのである。以前にここのガーデンを見学に来たときに、誰からか遥が2週間に1度しか実家に帰って買い物に出ない変わり者ということを聞き及んだらしい。
変わり者と言うのは遥自身久しく聞かなかった言葉であるが、そういえば小学生の頃は友だちによく言われていた。地元に帰ってからほとんど会っていないが、以前にお茶会に来てくれた友人もいたし、子供の頃の同級生の誰かが遥に関して偏った考察を湧水に話したに違いない。
「僕もここに住んでみたいなー。ログハウス素敵ですよね。健康的な引きこもり方っていうんですか?」
「私、別に世の中から逃げてここに来たわけじゃありませんよ。地元に帰ろうかと思った時に、たまたまここの求人を見つけただけです。ちょっと山を上がっただけの場所ですし、盆地に生まれ育ってますから山籠もりしている感覚なんて全然ありませんけど」
「なるほど、山にいると落ち着くということですね」
別に落ち着きたくて、この仕事についたわけではないが、実際落ち着いたので、遥は反論するのは止めにした。
変わり者はともかく引きこもりは心外である。続けて「2週間に一回なんて僕より出掛けないなぁ」と言われて、遥は衝撃を受けた。そんな自覚はなかったけれど、確かに一時期カエルと野人の送り迎えをしていた他、2週間に1回しか山を降りないのは立派な引きこもりかもしれない。レンタルガーデンのプロジェクトが始まってから忙しくも充実した日々を送っており、毎日誰かと会っているから遥は引きこもっているなどという自覚がなかった。
「『山でヒキコモル』ってタイトルの漫画はどうかなと思っているんですよ」
「それはやめてください。ノンフィクションなら」
なんだか言われるほどに遥は恥ずかしかった。社会に傷ついて山にいるのではなく、成り行きとただ出不精なだけなのである。いや、彼は世の中にはこんな出不精の女がいるんだぞと言う事を漫画に書いてみたいのだろうか。
天井からつり下がったドライフラワー。
壁に掛けられたたくさんのリース。
薪ストーブ・・・に見えるお洒落な形の電気ヒーター。
実家から蔵出しして持ってきたアンティークっぽい40年前に母が買ったティーセット。
一人暮らしの女性が夢見る世界がこの借り家に広がっているのだが、それは本人が感じるだけで、来た人には伝わらないものだろうか。
その割には、カエルも湧水も山での生活に憧れているようだ。
俺ならこうやって暮らすのにな!という、遥を見ていて反面教師
「そういえば、さっき管理人とおっしゃいましたけど、この山全体の管理をされてるんですか?レンタルガーデンの管理人なんですか」
湧水に聞かれて、遥はしばし答えに窮した。もともとはこの山の富豪家の屋敷の管理人である。しかし、カエルたちの採用の件で、レンタル事業の責任者は、遥に決まってしまったことがわかった。香はどうやら、サポートに徹するらしい。たとえるなら、香が部長でたまに口を出し、遥が主任でプロジェクトリーダーといったところか。本当にレンタルガーデン事業を始めるのか、遥は半信半疑のままここまで来てしまった。
「そうですね建物の管理人とレンタルガーデン事業の責任者っていう感じですかね」
レンタルガーデン事業の責任者になる分給料が上がると言う話を先日香からしてもらったばかりだった。香は果実町で山鳥が営んでいる旅館経営にも興味が湧いてきたらしく、2つは無理だから、レンタルガーデンにかかわることはこれから遥が勧めてほしいと頼まれた。今回のクリスマスリースのイベントから、カエルと霞が仕事が忙しく手伝えなかったこともあって、ほとんど遥が一人で計画を進めた。
「まあ、始める前は緊張するけど、準備が一番充実して楽しかったりするものですよ。ぼくも漫画を描き始める前にストーリーやキャラクターのデザインをしている時が一番楽しかったですから。ただ、机に向かっている作家と違って、ガーデニングは力仕事が多いですよね。おかげで、ぼくもずいぶんと痩せました」
園芸はダイエットになる。収穫した作物を食べれば健康によく、化粧水などに加工すれば美容にいい。
「一人で計画してやるわけじゃないですからね。カエルくんもこの先本格参戦してくれるなら、私の肩の荷も少しおります」
「そうだな。それぞれ役割分担というのもはっきりさせた方がいいかもしれない」
黙って話を聞いていたカエルが口を開き、テレビから目を離した。
それぞれに役割分担をするために肩書と言うのは必要じゃないかとカエルは話をつづけた。自分の役割だと思わずに、手が空いていると思われて頼まれるから不満が出る。これは自分の担当、それ以外の部分で協力が必要なことは全員で共有して伝達する。
霞が設備担当。
香が経理担当。
湧水がデザイン広告担当。
カエルが企画担当。
遥がマネージャー。
野人がスペシャルアドバイザー。
今年はレンタルガーデンの体験をこの年末から3月にかけてしなければいけないが、来年は冬は休みにしてもいい。年末年始にレンタルガーデンに来る人は少ないだろう。もし客がそれなりにいれば、山鳥系の旅館のほうに誘導して、大晦日から正月3が日は休みにして、4日に年始のお茶会をすれば良いと遥は二人と話しながら、先のことを想像していた。
5日からはしばらく蛙たちには休んでもらって、1月2月の寒い間は、遥とカエルでレンタルガーデンの手入れをする。野人の方は頼まなくても勝手にやってくれる。
11月のイベントはローズマリーを使ったクリスマスリースとハーブ水(化粧水)作りだ。事前アンケートで同日に両方やってほしいという要望が多かったので、午前と午後に分けて、その日に両方受講したい人は料理を食べて午後まで残り、半日だけ受けたい人は午前か午後だけ来て、帰ればよいことになっている。予約の100人が全員両方受講するわけではないが、午後をキャンセルする人もいれば、あるいは午後も受講したいという人も増えるかもしれない。「このイベントにレンタルガーデンの運命がかかっているかもしれないわね」と講師を頼んだ花屋の店主は息巻いていたが、どうだろうか。遥としてはなんのトラブルも起きないで、無事にすむことが一番だった。
リース作りの案内状のデザインはクリスマス仕様で湧水のイラストが光っていた。案内分の印刷を忘れて、出来上がったカードに遥が手書きで案内文を書くことになってしまったが、そのミスを知っているのは己だけだ。香には「全部手書きするなんてすごい気合」と感心された。カードのデザインが凝っているだけ、リース作りの期待も高まっているだろう。シンプルイズベストで満足してくれるか遥は不安だった。
しかし、結果的にクリスマスリースづくりは大成功だった。30組もレンタルガーデンの体験の申し込みが入り、12月の間に体験会の予約はいっぱいになった。
山鳥のキャンペーン用のHPでレンタルガーデンを宣伝してもらった他、イベントの案内状の作成だでなく、湧水の協力でレンタルガーデンのHPが早めに完成したことも大いに宣伝として功を奏しただろう。イラストがふんだんに使われたHPはデザイン性に富んでいる。せっかくだから、ブログをやることになり、その記事の更新担当はもちろん遥になった。
初めての公式ブログに何を書こうか10日以上悩んだ末に書いたものはあまりに個人的過ぎて恥ずかしく他の人に意見を求めることが出来なかったが、誰にも何も言われずに遥はほっとした。
『私はこれまで夢がありませんでした。しかし、今は果実町を果実町という名前にふさわしいものにしたいと思っています。わたしの祖父は41歳で病死し、私は会ったことがありません。しかし、この町の町議で将来は町長を目指していたそうです。祖父がどんな夢を抱いて、この町をどんな風にしたかったか分かりません。しかし、もしかしたら、祖父が抱いていた夢の一つを私も追いかけてみたいのです。それは議員さんや町長さんにならなくてもできると気づきました。
これを読んでいる果実町をよく知るみなさんは、果実町には何もないと思っていませんか。今は、山鳥のフルーツフレーバーティーの工場があると思う人もいるでしょう。でも、何十年も昔から、果実町には美味しいフルーツがあったんですよ。貴方は果実町のどのフルーツが好きですか。梨ですか。栗ですか。ふどうですか。いちごですか。桃ですか。
子どもたちがおとなになったら、この町を離れる人も大勢いるでしょう。おとなでも子どもでもこの町を離れても、ぜひこの町の果物を忘れないでくださいね。あなたの好きないちごの味、梨の味、春夏秋冬いつでもどの場所でも今は山鳥のフルーツフレーバーティーで味わうことができます。わたしは一度は離れて別の場所に就職しました。でも、帰ってきてしまいました。私は最初戻ってきたことを後悔していました。ここで私にできることは何もないと思っていたのです。でも、果実町のフルーツはそこそこ好きで、好きなものを食べて生活して心が満たされると元気になって、いまは山鳥のレンタルガーデン事業に携わっています。広い庭を持たない人にガーデニングをする土地を貸すのです。借りた人は、その土地で花を育てたり、野菜を育てたりして楽しみます。
果実町は盆地なので、冬はとても寒いですよね。庭仕事なんて寒くてやりたくないという人もいるかもしれません。わたしもそうです。でも、家の中で植木鉢で育てるならどうでしょうか。いちごにトマト、各種のハーブ。今日は6種類の植物の鉢を用意しました。皆さんはその中から好きな鉢を選んでください。名前を書いてくれたら、おうちにお届けします。学校で育てるんじゃないですよ。あなたの家の窓辺に置いてください。将来、庭のないおうちに住んでも、鉢植えならどこでも育てられます。カビが生えたり、虫が湧いたりするんじゃないかと思う人もいますよね。でも、虫やカビと生活することも時には大事なんですよ。虫害やカビ害は嫌かもしれません。でも、それをきっかけに故郷を思い出したら、帰ってきてください。果物と虫がいっぱいの果実町がわたしたちの故郷なんです』
思った以上に長い文章になり、読んでくれる人がいるか、書いてすぐに不安になった。しかし、山鳥の会長の鷹之が遥の拙いこの文章を大いに気に入ってくれた。このブログをきっかけに果実町独自のひと月1万円の児童年金と老齢年金が成立するのは、再来年の話である。その原資の一部には子どもたちとその家族が家で育てた果物やハーブを学校から農協に卸した売り上げが充てられた。
11月クリスマスリース作りの内容は以下のものだった。
秋の庭でクリスマスリース作り。
木板の囲いから溢れるように咲くパンジービオラ。
鮮やかな花の背後をくすんだ色で飾るカラーリーフ。
薪ストーブを各テーブルの背後に。
リースが完成したら食事会。
3つの料理。
一つにはボルシチの鍋。
一つにはパン・デピス。
一つには異国の薬缶のサモワールでハーブティーを。
忘れてはいけない一つの焚き火の中の焼き芋。
外だったからだろうか。リースづくりはその規模のイベントとは思えないほど和やかだった。
体験会の後、レンタルガーデンの申し込みはどれくらいになったのか。
カエルは今の仕事を退職し、レンタルガーデンを手伝い、レストランを開業するのか。
そして、レンタルガーデンにはいつ名前がつくのか。
2月までには名前を決めよう。
名称決定権を与えられた遥は、富居家の庭になんと名前をつけたらいいものか、数か月悩み続けた。
花言葉に添えて
ローズマリー:「記憶」「あなたは私をよみがえらせる」
枇杷:「あなたに打ち明ける」
枇杷の木の花、いまだに実物をみることができていません。
ローズマリーも寒さに負けず生き残っていますが、リースを作るほどにはないので残念です。
今回の話は、私の理想を詰め込みすぎてしまいました。
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