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喜んでできる仕事探しをしていたら、自分の存在意義が見つかった話

専業主婦になって早7ヶ月。
これまで、「喜んでできる仕事がしたい」と思って、仕事探しのほか、自分の「好きなこと」「嫌じゃないこと」「疲れにくいこと」などなど、自分自身がどういうタイプ・趣向なのかを探ってきた。

その中で、自分自身が「喜べない」根本的な要因も探り当てた。(過去のつぶやき参照)
そもそも、自分の存在の意味をなにかしらの労働に結びつけていたというか、
「自分が何らかの仕事や役割」をしていることに自分の存在する意味があるように
認識していたんじゃないかって。

「存在の価値」と、「働きの価値」は、別。
それぞれの働きには優劣があるけど、「存在価値」に優劣はない。
それはわかってたつもりだったんだけどなあ。

私が生きて、存在していること、この世界を造られた神様の目には「意味がある」。
たとえ日の目をあびるような仕事をしていなくても、
誰かの役に立つようなことができていなくても、
この地上に生を与えられ、神様とともに生きる私という存在を、
神様はご自分の御業・・この世界の創造から、イエス様の再臨とともに訪れる完成に至るまでの「救いの歴史」の一部分に、織り込んでくださっているのだ。
家の中でささやかに生きているだけのような私の存在をも、神様はご自分の歴史の中に織り込んでいてくださるのだ!

ああ、私、存在しているだけで「意味がある」んだ・・・
何か特定の働きをしていなくても、神様は私の「存在そのもの」を用いることがおできになるお方なんだ・・・

それでやっと、「神様とともに生きる」という軸での喜びを受け取ることができた。

結局、聖書を読むと、人にとっての一番の幸いは、
自分自身を造られた神様と和解して、神様とともに歩むことなんだよね。
それ、頭ではわかってたんだけど。
「自分がただ存在しているだけで尊い」って思えてなかったことが、
その喜びを受け取れきれなかった原因なのかもしれない。

私は何をしているか、していないかに関わらず、存在していていい!
神様は私の存在そのものを用いて、ご自分のみわざを行うことができるお方!
感謝だなあ。家の中でしょぼしょぼしてるだけの私には、大きななぐさめです。

その上で、
私に与えられているものをどのように生かすかは、神様が私に委ねてくださっているところ。
人と比べるとたいしてずば抜けた何かが見当たらないような気がするけれど、
神様が与えてくださったタラントが2でも、5でも、1でも、
用いる人を主人は「よくやった、忠実なしもべだ」と言ってくださるんだよね。
人目につかないような、ささやかな日常でも、この世界の歴史の一端に私は意味あるものとして存在している。
与えられたものに忠実に、生きよう。


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