「先生の白い嘘」を観る

 主演女優からリクエストされたインテマシー・コーディーネーターの配置を監督が拒否した、ということで炎上した「先生の白い嘘」を観てきた。他にも見たい映画はあったが、これは大好きな脚本家安達奈緒子の手による原作マンガの脚色作品、というのが一番の理由で、終映直前らしく朝8時40分からの1本だけとなった今を逃すと見そびれる恐れがあったため。
元々関心があったため、上記炎上したネット上の論議を折に触れてチェックしてきたが、鑑賞し終わって思うのは、これら炎上が映画の内容と関係のない、映画製作に俳優がどのように関わるか、という論にもっぱら関わり、これでこの映画を観なくなった人が増えたとしたら残念なことだと思った。俳優陣はそれこそ、体当たりの演技(と言うとベットシーンが凄いんですか、と言われそうだが、むしろそれ以外の部分が圧巻)には拍手したいし、彼らの懸命の努力の作品が公開前に冷や水をかけられたのは気の毒に思う。
 とはいえ、やや難解な映画で鑑賞した後の後味は決して良いものではない。何が言いたかったのだろう、と深く考え込んでしまう。暴力的に凌辱される相手になぜ奈緒演じる主人公が度々足を運ぶのか、という点や、三吉彩花演じる奈緒の友人が、風間俊介演じる下衆な男をそうと知っていてなぜ配偶者に選んだのか、という点など、理解したり共感できない部分も多い。
 それでも男と女の間に横たわる「性」のもつ暴力性(フィジカルな意味ではもちろん、男にとっても、女にとっても自分でも制御できず持て余して暴走させてしまう、という意味で)、さらに、新しい命につながる明るさという、性の持つ二面性を余すところなく見せつけるところは共感できる。
 常人は、ここまで性の深みに落ち込むことはないし、真正面に性と向き合うこともない。社会人として自己抑制の中で生きているので、社会人でありながらこれら社会性を逸脱していく登場人物たちに共感することは少ないだろう。だからこそ、「映画」という手段でこのような問題に向き合う価値があり、自分の中にそのような深い闇を抱えていることを自覚することは意味があると思う。これまで私も「共感できるか、できないか」で映画の評価をしてきたが、それだけではない、ということに気づかされた。
 脚色とはいえ、これまでの安達作品とはかなり異なるテイストであった。

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