月山富田城
「月山富田城のジオラマが安来歴史資料館にある。このジオラマは総面積140万㎡の城跡を再現している。日本海に突き出た島根半島にある中海(汽水湖)周辺には、西から松江城(1611年)、月山富田城(1391年以前から少しずつ)、米子城(1591年)が築かれた。応仁の乱前後から江戸時代前期までの戦いが激しかった時の遺産。
この月山富田城はJR安来駅からバスで30分ほど内陸、中海に流入する飯梨川沿岸の月山(標高190メートル)に築かれた。実はこの城の塩谷口側にある富田山荘には源泉かけ流しの温泉がある。ジオラマをみるまで、大規模で素晴らしい城があったとは全く知らなかった。
歴史上注目を集めたのは、最後の城主・尼子義久の家臣山中鹿之助幸盛の行動ではなかったか。戦国史にはたいてい出てくる。私が知っていた山中鹿之助の行動は、毛利氏の侵攻(1565年)が繰り返され、富田城開城(1566年)後、尼子氏の再興をかけ、出雲から鳥取まで広く転戦し、最後は播磨の上月城で信長の援軍がなく滅んだ(1578年)ということくらいだ。中国道(高速道路)に上月パーキングエリアがあり、米子を出発した高速バスはこのPAで休憩していた。最初に高速バスに乗ったとき、地名に驚いた。(現在の休憩地点は変更された)21世紀の今から想像すると、瀬戸内の支配権を握った毛利氏がわざわざ中国山地を越え、安来を侵略した意味がわからなかったが、住んでみると、豊かな資源が要因だったと思える。広大な安来平野の米、富田城が背にする中国山地の鉄を始めとする豊富な鉱物資源、日本海の海運は飯梨川を通って、境水道から導かれる安来港で手に入るというのが魅力だっただろう。
安来には尼子氏の子孫だと主張する人は多い。山中鹿之助をしのんで、幸盛祭が毎年開かれる。NHKの大河ドラマになったらと願う声も高い。このような本格的な山城が住まい近くにあることに全く気が付かなかった。“月山富田城さんごめんなさい”。読者の皆さんの周囲にも、もしかたらびっくりするような歴史遺産があるかもしれない。
ジオラマを見た後、月山の中腹まで登った。城というと天守閣がイメージされがち。しかしこの山城を知ると、領民の生活を守るため、戦略をたて戦術を駆使し外敵と戦う主家を中心に皆、命がけで地域を守ったことが理解できる。その象徴が砦にも似た山城だったと気づかされる。城跡に残る土塁、石垣、曲輪、そこには甲冑に身を固めた武士たちが生き生きと動いていたことが見えるようだった。
ゆうこの山陰便り №205
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