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自分の意見がない、自分の意見が言えない原因は何か?

私の通っている語学学校でのクラスは、水曜日がディベートの日になっている。
指定されたテーマに沿って討論するのだが、単に自分の意見を言うのではない。賛成派と反対派に分けられて、例え自分が割りあてられたグループに反対意見であったとしても、その正当性を論理的に主張していかなければならない。
これがかなり難しい…

もちろん私のドイツ語が未熟ということが大きな要因ではあるが、それよりも前に私たち日本人は人前で意見を言うことに慣れていない。
自分の意見をきちんと持ち、発表するという訓練を受けてきていないのだ。

学校の授業では、先生が黒板に書くことを必死にノートに書き移してきた。
何かを問う授業というよりは、知識を暗記することに時間を費やしてきた。
答えは正解か不正解かで判断され、最終的に「間違い」や「違う」ということに対して、恐怖感を抱くような教育を受けてきた。

日本の企業内でのダラダラと長い会議。
終わったあとに、「一体何を話しあったのかよくわからない」なんてことは日常茶飯事。
長々と時間だけが経過し、まったく結論がでない。あたり前といえばあたり前である。
自分の意見を言う訓練をされていない人たちが集まり、話しあう。
無駄なく、サクッと終われるほうが奇跡である。

日本では『アクティブ・ラーニング』という言葉が飛び交うようになった。
この『アクティブ・ラーニング』が一体どういうものなのか、熟知している先生はどのくらいいるのだろうか?
新卒で教師になり、海外で生活したことのない先生たちが、本当の意味での『アクティブ・ラーニング』を理解できるのか疑問が残る。
言葉だけが独り歩きしているように感じる時もある。

人生の約半分をさまざまな国ですごしてきた私ですら、残念ながら子ども時代に受けた受け身教育は根強く残っている。
では、私たちが自分の意見を言えるようにするにはどうすればいいのだろうか?
自分で訓練していくしかない。言い換えると訓練で改善されるものなのだ。
私自身も、日々訓練し続けている。

一体、具体的にどのように訓練していけばいいのか。
実際に人前で自分の意見が求められるシチュエーションを想定してみるとしよう。
学校での授業、会社での会議、そんな中で発表しなくてはいけない自分がいるが、しかし、なかなか自分の意見というものが見つからない。
意見が見つからない自分が何を気にしているのかを自身に問いかけ、その原因を探ってみる。

自分が意見を主張することで
「まわりからどう思われるか」
「本当にこの意見は受け入れられるか」
「自分の意見は正しいのか」
「上司や先生から喜ばれる意見か」
という不安や怖れがないだろうか。

多かれ少なかれ、この不安や怖れは日本人の私たちにはあるはずだ。
「正解」することで、人や社会に認められることを学んできた私たち。
常に自分の感情を押し殺し、まわりにうまく協調できる人が「エリート」とされてきた。
世の中には、さまざまな意見が存在し、それを互いにぶつけ合い、最善策を共に導きだすなんてことは、誰も教えてくれなかった。
冷静に考えた時、私たち一人ひとりは同じ状況で生まれ育ってきたわけではない。むしろ、すべての人間が同じ意見を持っていることのほうが恐ろしい。

まずは、物事には、いろんな側面があり、ひとつの物事に対して、多方面から見ることができること、そして異なった角度から物事を見ている人がいることに気づくことから始めるといいかもしれない。
気づくことで、今まで長い間囚われ続けてきた「正解」に対しての概念に疑問がでてくるだろう。

そもそも「正解」とは何なのか?

日本人の私たちが「自信を持って自分の意見を主張すること」は容易なことではない。しかし地道な努力によって、必ず改善することが可能だと私は考えている。

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すがゆうこ@グローバル教育
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