見出し画像

歌のシェフのおいしいお話(2)ステレオタイプ

人を見かけで判断してはいけないって教わりましたよね。
よぼよぼの乞食だと思って邪険にしたら実はそれは神様で天罰が下った、あるいは可哀想に思って親切にしたら実は偉い人の使いで玉の輿ゲット、というパターンの話は世界中にあります。人を見かけで判断しないのが大事であるという教訓は世界共通だということです。

でも、見た目から導かれるイメージに我々はやっぱり多かれ少なかれ影響されています。
身近なところにいくらでもある、「金髪タトゥーだらけピアスだらけのいかつい兄ちゃんがおばあさんに親切にした話」「若くて綺麗な女性が選挙で当選した話」がなんで話題になりうるのかを考えると、それは、「金髪タトゥーだらけピアスだらけのいかつい兄ちゃんは普通はおばあさんに親切になどしないものである」「政治家というのはだいたいがおじさんである」という共通の思い込みが我々の中にあると想定できるからです。神様は神様らしい、神々しく美しい見た目であろうという共通のイメージが我々の中にあると想定できるからこそ、彼がよぼよぼの乞食の姿で現れるというギャップが意味を持ち、物語として受け入れられるのです。

この共通の思い込み、共通のイメージ=「ステレオタイプ」は時代や文化によって微妙に変わります。「女なら女らしく○○しろ」などと「女らしさ」のステレオタイプを押し付けられて苦しむ人もいます。「男らしさ」も同様。「ハーフ顔」と言ったら色が白く髪の色も茶色っぽく彫りの深い顔立ちをイメージするのもステレオタイプ。そうでない「ハーフ」もたくさんいます。人を苦しめるステレオタイプを認識する教養とそれを取り去る努力が必要なことは言うまでもありません。

と同時に、このステレオタイプに思いっきり乗っかっている芸術がオペラです。見た目もさることながら、ここで重要なのは声のタイプ。声の高さによって、高い方から順に大まかにいえば女声はソプラノ、メゾソプラノ、アルト、男声はテノール、バリトン、バスと分かれますが、その声種ごとに割り当てられがちな役のタイプというものがあります。

例えば「年長の賢者」の役はまず一番低いバス。モーツァルト《魔笛》の太陽の神殿の長ザラストロも、ドビュッシー《ペレアスとメリザンド》の老王アルケルも、深いバスの声でなければ説得力がありません。「若く血気盛んな王子」はテノール。プッチーニ《トゥーランドット》で周りに止められながらも命をかけて冷血な姫の謎に挑むカラフや、ロッシーニ《チェネレントラ》でシンデレラを一生懸命探すラミーロ王子は、若々しく張りのある声で歌われます。女声では「魅惑的な悪女」はメゾ・ソプラノ。ビゼー《カルメン》で真面目だった軍人ドン・ホセを破滅に導くカルメンやサン=サーンスの《サムソンとデリラ》で英雄サムソンの力を奪うべく誘惑するデリラは低めの官能的な声です。
声のタイプは高さだけでなく「色合い」によってさらに細かく分かれており、しばしばワインのように「軽い」「重い」という形容をします。「頭の回転の速い若い女中」は軽いソプラノ。ヨハン・シュトラウス《こうもり》で女優のふりをして舞踏会に紛れ込むアデーレやモーツァルト《フィガロの結婚》で伯爵をぎゃふんと言わせるスザンナなど、明るく賢くお喋りな女性たちがその代表です。

現実の世界には甲高い声の老賢者だって、野太い声の王子だって、若くて頭がよくても声の低い女中さんだっているかも知れません。でも甲高いよりも低い深い声の方が絶対に「賢者らしい」し、高めの張りのある声の方が絶対に「王子らしい」。限られた時間と台詞の中で歌によって物語を伝えるオペラにとって、「そのキャラクターらしい声」というのは必要不可欠であり、命です。賢者役を「賢者っぽくない声」の歌手に歌わせて「この賢者はちょっと賢者っぽくないキンキンした声だけどほんとに賢者なんだよ」とストーリーの中で説明する手間をかける意味は皆無です。
観客はその声を聴いてキャラクターを耳から理解するのです。書かれた台詞や舞台上の演技以上に、声そのものがキャラクターを表す、それはステレオタイプに依存した表現に他ならず、オペラの世界を発見したばかりの頃から私はそのことが面白くてたまりませんでした。

歌手はそれを受け入れて自分のレパートリーを開拓します。本人の性格に関係なく、持って生まれた楽器で演じる役が決まってゆくのです。同じ声種の中でもいろいろなキャラクターがあって舞台上での立ち居振る舞いや顔つきがキャスティングに影響することもあるので、その点では人柄も関係しないわけではないし自分で自分の売り方を選択する余地もあるけれど、それにしてもテノールがバスの役を演じることはないのです。160㎝もない人がどう頑張ってみてもスーパーモデルになれないようなもの。逆に190cmある人はどう頑張っても競馬の騎手にはなれません。
ピアノにもそれぞれのピアニストの音色やレパートリーの向き不向きという話はありますが、努力次第でなんとでもできる度合いがオペラとは段違いです。

現実の社会から様々なステレオタイプが追放されるに従って、「そのキャラクターらしい声はこんな感じ」というのをオペラのリテラシーとして学びなおさなければならなくなる日が来るのかも知れませんが、幸か不幸か我々はまだまだそんな心配をするようなところには至っていませんね。

いいなと思ったら応援しよう!