コロナ禍のなかの金沢暮らし@5月24日(日)「荒井淳志氏のスピーチ」

4月、若手が次の衆議院選に出馬するという情報があった。その数日後に荒井淳志氏が国民民主党の次期衆院選石川1区候補として公認される見通しという報道があり、後日公認された。若手も若手で26歳。驚かないはずがなかった。

元北國新聞社の記者さんで、退職直前は加賀支社に勤めていたようだ。同新聞のデータベースにいくつか取材記事がある。北國新聞が一番詳細記事を出していたが、残念ながらウェブでは見当たらなかったのでここでは朝日新聞を引用した。

私より若い人が出馬すると聞くと、大変心強く感じるとともに我が身を恥じる。現政治にはほとほと呆れかえっているが、被選挙権を有しながらもそれを行使しようとは思わない。所詮、私は我が身がかわいくて仕方がない。自分の人生で手いっぱいである。

だからこそ、彼には期待する。他力本願。まさしくその通りだ。何かしらの支援をしたいと思っていたところ、たまたま街頭演説しようとしているのを見つけた。ママチャリでスピーカーを担ぎ、のぼり旗を後ろに縛り付け。単騎出陣である。うちわでも持って刀ミュよろしく最前列に駆けつけたい心地だったが、さすがに大きな段ボール箱を抱えたままで御前に侍るのは完全なる不審者だった。断念した。

仕方なく、視界に入らない場所で少しの時間をしのげそうな公園に入り、ベンチでスピーチを聞いていた。その間15分。炎天下でこれは長い。彼の体調も心配になった。

結論から言えば、個性のないスピーチだった。党方針で何をしてきたか、何をするかという宣言で、そこに個人としてどのように活動するかという見通しや決意は感じられない。他の公認候補も、別の場所で同じことを言っているだろう。もちろん党の方針を広く伝えることも大事だが、私は彼がこの国をどうしたいのか興味がある。声の張りもなく聞きづらい。ただ、他者批判がなかったのは良かった。

小野不由美著「十二国記シリーズ」『華胥の幽夢(ゆめ)』で「責難は成事にあらず」という言葉が出てくる。作中の登場人物の辞世の句として紹介されるのだったか記憶があやふやである。だが、意味だけはよく覚えている。「責めたり、非難したりするだけでは、何事も成すことができない」というようなものだ。私も常日頃気をつけてはいるが、これがなかなか難しい。

新型コロナウイルス感染症は県内の政治家たちの様々な問題を暴いて見せた。彼らを批判することはいま一番市民と同調しやすいものだし、正直政策を説明するよりよほど容易なこと。他者批判をしないようにという教育を先輩党員や後援者から受けたのか、はたまた誰の自分の意志でそうした内容にしたのかはわからない。もちろん、別の場所でこれらをしている可能性も十分考えられるが、少し身構えていたポイントだったのでまずはほっとした。

政治は共同体が育てていくものだと思っている。いまある政治は、いま生きる私たちという共同体が選択してきた結果であって、突如としてどこかの時点でビッグバンのように誕生したものではない。絶えず干渉し合うことで政治ははじめて市民のために働くことが可能だろう。無関心層が増え、投票率もおそろしく低下した結果としていまの政治がある。ここから再び市民によりそった政治を手に入れるためには私たちもまたこれまで以上に積極的な行動が求められるのだろう。

荒井氏はまだまだ未熟だ。私のような若造でさえそう思うのだから、年配者にとってはなおさらそのようにみえるだろう。だが、それは当然のこと。きっとこれから先輩党員や後援者、市民との交流のなかで彼は政治家として育つのだ。私もまた彼同様に絶えず学び、良き市民とならねばなるまい。

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