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わざわざダサい選択をすること

 若い頃は「あれが欲しい、これが欲しい、こんな生活がしたい、苦労せずに楽したい、お金欲しい…」などなど、欲にまみれwまぁ適当に舐めたことを思ったりしていましたが。
 アレですね、四十路も過ぎてくるとだんだん「自分の好きなもの」が厳選されてくるので、新しいからってなんでもいいわけでも無くなるし、無駄な物欲も無くなってくる。結局「少し先のこと、未来のことを想像できるようになる」ことで投機的な消費や強い衝動買いみたいなものは減少していく、つまり(物欲に対しては)理性的になるんだなと実感しています。

 でも、特に幼いときは友達と一緒だったり、旅行のとき(特に修学旅行とか)に冷静な判断ができないことが儘あって。
 京都でナゾの木刀、飛騨高山の三角タペストリー、沖縄の星の砂..........なんなの、バカなのw
 そういうときのダッサい消費は「思い出」なんだと昇華するとキチンと意味が出てくる(という暗示w)
 「お前あのときこんなアホなもん買ったよなー」とか、そのもの自体が無くなっていても、むこう何年も友人間では語り草になる。バカなものにチャレンジすればするほどその色は濃くなる気がします。

 なので、話は戻りますが。歳を重ねて投機的な消費が理性で抑えらる瞬間が増えたとしても、やっぱり人間の本質として「ちょっとバカなことをしたい」「バカなことをして友達と盛り上がりたい」という欲求は無くならないんだろうなと思います。飲み会やカラオケやスポーツ観戦が楽しいのはきっとそういうインサイトがあるからなんだろうな。と思う。

人は人とバカになりたい瞬間がある。
それの燃料が「わざわざダサい選択(道化)をする」。

 に、近い感覚・感情なんじゃないかなーと思う。


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