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過去の名言でみんな勘違いしていること。(再掲編集)

1)「学問のススメ」

「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず。」
は福沢諭吉先生の有名な言葉。
でもその続きは
「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。」
人間社会は上下関係がはっきりとある。と言っている。

だから「学問をすすめて」いる。

ここであの福沢諭吉大先生が
「鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺に言う「井の底の蛙」

と言っているが、先生も間違ってるのではないかと思う。
(底の部分ではない。)

2)「井の中の蛙」

井鼃不可以語於海者、拘於虛也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也。曲士不可以語於道者、束於教也

井戸の中の蛙は大海を語ることができない。「虚」にとらわれているから。「虚」は「くぼみ」と訳されることが多いようだが、
大海について語ることはないが、それは「どうでもいいことだから」
「虚」とはくぼみではなく、「0」かもしれない。小さいところに「拘る」とも読めるが、「何も必要としていないので、大海などに興味がない。」
続く言葉でも分かると思う。「夏に飛ぶ虫は氷について語らない。それは今という時間が大切(夏の虫は成虫になったら、夏を終える前に命を失う。)であり、やるべきことが今存在するから。」
「氷について語らない。その時に産まれていないから」と訳されるが、

「篤」はどこに行ったのか

最後はもっとすごい。「あほは『道』について語らない。『教科書』はあほにとっては紙の束だから」

これらの言葉を別の角度から見ると。

「蛙なら、(他の場所にある)大海について語る必要はないだろう。小さなくぼみのみで生きていける。」

「夏の虫が氷について語る必要はないだろう。夏にしか生きていないのだし。」

でも、人間のお前たちは寿命も長く、わざわざよそに行かなくても書物によって知識を得ることができる。なんで学んで知識を身につけて、道に従った生き方ができないのか。

と言っているわけだ。

大体何が悲しくて「井戸の蛙」をわざわざけなす必要があるのか。

そもそも「くぼみ」と言ってるが「井戸」なんて言ってない。

訂正 言ってるわ。ごめんなさい。「井鼃」

くぼみは冬眠用の小さな穴くらいの意味だと思う。

さらにこう続く。

今爾出於崖涘、觀於大海、乃知爾醜

蛙をわざわざ連れ出したと思うのか。しかも「蛙」がなんで「大海」を見て「己の醜さを知る」のか。

連れ出されたのは「曲士」だろう。
そして、「広い世界を見て、己というものの卑小さを知った」わけだ。

爾將可與語大理矣

蛙と大理を語ると思うか。

大きな世界を見せて、知識を得たかつての「曲士」と語ったと思うのが普通の感覚ではないだろうか。

「海を見せた」と書いたばっかりに後世に多大な誤解を残した例ではないかと思う。

ただ、個人的には人間よりは他の生物のほうが優れていると思う。

他の生命が人間より優れていると感じるのは

「貨幣」が無ければ生きられないのは人間だけで、それだけでも生命としての能力が低い。(私見だが)
ましてその「貨幣」に絶対的な価値を置き、自らを貨幣価値にわざわざ変換して価値の高低を量る。
さらにはそれに一喜一憂する。

空しいと思わないのか。


でも、個人的に金は欲しい。
(できれば紙幣で)


ちなみに「人間」が生命として「劣っている」と感じる理由には聖書で語られる「堕落」がある。

が、それは投稿を別とする。

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