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母とミシン vol.1
母のミシンが壊れた。
57年間、母とともにいたミシンだ。
古いものだから修理なんてできない、
捨てることに決めたと母が言ってきた。
応急処置的に
わたしの使っていないミシンを母に貸したが
操作が覚えられない。
「せっかく貸してもらったけど
やっぱり使えんわ」
電話で申し訳なさそうに言う母は
とても寂しげで悲しそうだった。
母にどれだけ
服を縫ってもらったことだろう。
古いアルバムを開くと
写真に写っている幼いわたしの服は
ほとんどが母のお手製だ。
胸を打たれたのは母からのLINEである。
「なにか縫い仕上げるのに
時を忘れて励んだ頃が懐かしく
ミシンの最後の掃除をしていたら
買ってくれた実家の家族を思いだし
涙が止まりませんでした。
いま縁側で私の傍を去る時を待っています」
母にとりミシンは単なる道具ではない。
長い月日をともにした
大切で別れがたい相棒なのだ。
こんなことを聞かされたからには
黙って見すごすわけにはいかない。
直してくれる人を絶対見つけてやる。
ところで
ミシンの修理をしてくれるところを探して
わかったことがある。
安直に近場のミシンの販売店にかけ込んでも
「あー、それは直せませんね。
古い型だし部品ももうないし。
こちらのミシンはいかがです?
ずっと便利ですよ」
と言われるのがオチである。
「ないのは部品じゃなくてやる気と技術だろ?」
そう言いたいのをグッと堪え店を後にする。
看板に「ミシンの修理」の文字を掲げていても
彼らの念頭にあるのは、「ミシンの販売」だけ。
だから探すべきは
「ミシンの修理に特化した専門店」だ。
で、あったのだ。
「先祖から伝わる思い出のあるミシン、
アンティークが好きで愛着のある大切なミシン、
モノを大事にすることを教えてくれる
アンティークミシンを、
丁寧に修理し縫えるようにいたします」
というお店が。
母は60年近く前のものだから
無理だと言いはったけれど
問い合わせていたら
「100年前のミシンでも修理いたします」
と自信に満ちた返事が返ってきた。
熊本のお店だった。
最初は疑心暗鬼だった母も
修理士さんからのメールを見せると
「お金に糸目は付けないから
よろしくお願いします」
とまで言うようになった。
いろんなことに自信を無くし
ことあるごとに自分はダメだなどと
口走るようになった母。
強気な発言上等である。
発送手配ならまかしてくれ。
だがしかし。
すんなり発送とならないところが
母なのである。
〜つづく〜
→ 「母とミシン vol.2」
(2018年9月3日の記録)